THE PLANS

松藤四十弐

Track 1 - ポーンショップ・ハート

 天使の声は、明瞭で簡素だ。閻魔の怒号や如来の救いさえ、砂漠で起動する電子機器の砂嵐と違わない。

 公衆電話の緑色から視線を外し、ボックスの外を見る。雨は止んでいる。

「わかった。まだ傘はいらない」

 俺は言って受話器を置いた。

 外に出ると、ミヤギが傘を折り畳まずに近付いてきた。ボサついた茶髪とナチュラル過ぎるダメージジーンズから、どの辺りで育まれたか想像できる。

 俺はネクタイの結び目を絞りながら思う。

 彼のせいではない。

「ミヤギ。仕事だ」

「よかった。金なかったんすよ」

「前のは何に使った」

「スロットとスーツです」

 馬鹿と真面目の共存。俺は自分のこめかみの傷に触れた。

「打ち合わせてくる」

「一緒に行きたいっす」

「まだ早い。概要は夜にバーで」

「連れていってくださいよ」

「今回の仕事に成功したらな」

「絶対ですよ。スーツ着ますからね」

 俺は路肩にとめていたSUVの軽自動車に乗り込んだ。不安感はない。だが、興奮もしない。

 アクセルを踏むとバックミラーの中で、ミヤギが傘を振っているのが見えた。オーディオからは、黄色のプレートには似合わないガレージロックが、今日も流れている。


「廃棄物はこれですか」

 俺はスウェット姿を撮られた痩せた男と、メモ用紙に書かれた名前を見た。

「欲張り過ぎた売人だ。警察に嗅ぎ付けられそうだから処分したいらしい」

 スーツにも経歴にも皺一つない、警察庁長官に似たダンナさんは、背筋を伸ばしたまま言った。机と椅子と本棚と、花瓶しかない部屋には、誰の声も届かない。唯一、卓上にあった新聞だけが外界を雄弁に語っている。政治家の病死。

「いつものように計画書を提出してくれ」

「制約は」

「提出期限は3日以内。できれば10日以内に片を付けたい」

「承知しました」

「……そういえば、相棒の方はどうだ?」

「順調です」

「よかった。首尾よく頼む」

 いつも通り。何も変わらない。ダンナさんはドライで、優しい。最後は俺にも言葉をかける。ゴミがついてますよ。お気をつけて。類似の常套句。

「風邪ひくなよ。傘、持っていってもいいぞ」

「ありがとうございます。傘は必要ありません」

 車庫のシャッターが上がると、俺は豪邸には似合わない車を外に出した。住宅街を数分走り、丘を下りたところでスピードを完全に殺すと、歩道脇の公衆電話に歩み寄り、コインを一枚入れた。ダイヤルを押すと、無言の挨拶が聞こえる。

「傘がいる。天気予報はあとで」

 受話器から咳払いが聞こえた。

 


 一杯目のジントニックを飲み終えた頃に、ミヤギは店に入ってきた。再開した夜雨に服は濡れ、傘は訳あり気に折れていた。

「先輩、早いですね」

「傘はどうした」

「ゴルフの真似事やってたら電柱に当たってしまって」

「道端に捨てなかったのは偉いな」

「でしょ? 見直しました?」

 俺はバーテンダーに空のグラスを見せた。耳の聞こえない彼は、またジントニックを作り始める。ステアする右腕に彫られた鳥居と十字架が揺れる。神が舞い降りる。飲まずともわかる。

「オレはビールで」

 ミヤギはペンで伝票にビールと書き、見せた。また頷く。今宵、飲み屋街では、彼は間違いなく誰よりも頷くことになる。

「そういえば、前回のヤツはどうなったんですかね」

「さあ」

「知らないんすか?」

「知ってどうする」

「自分たちの計画がうまくいったか気になるでしょ」

「計画したのは俺だ。お前は俺の指示に従って調査を手伝っただけだ」

 処分された男は、建築会社の会長の孫に毒牙を剥いた。殺されてはいない。ただ、ピエロにされて狂い、踊らされた。赤い靴を履かされ、死か生を迫られた。誰も殺人は望んでいない。欲するとしたら、男だろう。俺は計画を立てた。実行された。同情はどの銀河にも存在しない。

 ジントニックのグラスが先に、次にビールのグラスがカウンターに置かれた。ミヤギは喉から音を出して飲んだ。

「次の仕事は誰です?」

「この男、知ってるか」

 写真を出すとミヤギは覗き込んだ。

「……ああ、知ってます」

「お前、使ったことあるか」

「はい。でも、2回だけですよ。もうやってません」

「この男から買ったか」

「一度だけ」

「わかった。じゃあ、もう一度買え。金は出す」

「いいんすか?」

「使うなよ」

「え、もちろんっすよ」

「今回の調査時間は短い。今晩にでも行ってみろ。買うのは微量だ。そして、また明日買う」

「場所変わってないかな」

「中区のマンション。3階だ」

「場所変わってますね。部屋ってのは変わってないけど」

「まあ、行ってみてくれ」

 俺は財布から住所を書いた紙と、20枚のお札を渡した。

「全部使ったら怒ります?」

「スロットとスーツには使うな」

 ミヤギは肩をすくめた。ビールを一気に飲み干し、冷静さを装わずに、行ってきますと、雨の中に飛び込んでいった。折れた傘は残され、スツールの下に転がっている。

 俺は席を立ち、ピンクの公衆電話に向かった。コインを入れてダイヤルを回すと、また無言の挨拶が聞こえる。黙った先にある、雨音。そして、流れる雨粒。想像していると向こうが焦れた。

「どうした?」

 澄んだ女の声が耳に溶ける。

「まだ傘は差しておいてくれ」

 俺が言うと、回線は切れた。

 耳の聞こえない彼は紫煙を燻らせながら、外を見ている。客が2名、雨の匂いを引き連れて入ってきた。もうすぐアルバイトの女の子もやってくる。客も次第に増えていく。席は埋まり、うるさくなる。

 俺は、ジントニックに戻ることにした。倒れた傘を拾い上げ、足元に置いた。彼は目線を合わせ、また頷いた。


 ミヤギが3階の非常階段から、1階のエントランスへ降りるのがかろうじて見えた。マンションから出ると、教えた通りに、俺の携帯電話にスリーコールしてきた。悪くない。

 俺は助手席から車を降り、黒い傘を差した。生きた雨が布を叩く。奴もどこで買ったのか新しい傘を差して歩いている。しかし、視線が真っ直ぐ過ぎる。挙動不審よりマシだが、十字路で車に轢かれても助けてやらないことにする。

 駅とは反対方向に歩き、ベンチしかない小さな公園に入ると、俺は他に誰もいないのを確認して声をかけた。

「買ったものは、今すぐ捨てろ」

「びっくりした。先輩か」

 ミヤギはこちらを一度振り返りながらも、ポケットから袋を出して破り、物を植え込みにばら撒いた。あーあという声が聞こえずとも、聞こえる。

「どうだった」

「以前と同じように三三七拍子のリズムで玄関のドアを叩いたんすよ。するとドアが開いて。あっ、チェーンしてたんすけどね」

 俺は無言で話を促した。

「久しぶりに欲しいって言ったら、意外にもすんなりと入れたっす。部屋の中は、家具とかはなかったですね。相変わらず。それから、隣の部屋、たぶん和室っす、そこから箱を持ってきました。あの、クッキーとか入ってるやつ。んで、どのくらい欲しいかって聞かれたんで、パーで」

「そして」

「もっといらないかって聞かれたっす。でも、とりあえずこれでって。そしたら、買うなら早めがいいぞって」

 ヤツも気付いてるのか。もしくは物が少なくなっているのか。どちらにしても強欲だ。身を滅ぼすマゾだ。受け渡し場所が部屋というのも気に食わない。

「室内の動画か写真は撮ったか」

 ミヤギは首を横に振った。

「そうか……。予定を変更する。明日は買うな。ただ訪問しろ。金ができ次第買うと懇願しろ。できるだろ」

「もちろんっす」

 俺は頷いた。

「……それにしても、なんで先輩は俺のこと拾ってくれたんすか?」

「今更なぜ知りたい」

「なんとなく。言えないなら、いいっす」

「……拾ったのは俺じゃないぞ」

「でも、いろいろ教えてくれてるじゃないすか」

「お前に見込みがあるからだ。この仕事には片棒を担ぐ奴が必要だ。まあ、正直に言うと頼まれたからな」

「俺、バカでクズっすよ?」

「今はな。でも、卑下するな」

「ヒゲは剃るっす。もともと薄いし」

「……お前、親いないんだろ」

「母親がこの前、死にました。全部、なんか、誰かがやってくれたみたいで、知らない間に骨になってたっす。悲しいというより、空っぽになったっていうか」

「俺も親はいない。記憶さえない」こめかみにある傷を俺は触った。「天涯孤独だ」

「一緒っすね」

「そうだ」

「でも、俺、いつか家族が欲しいっす。……無理っすかね?」

「できるさ」

 外灯に照らされた瞳が、俺を真っ直ぐ射抜いていた。不可能と可能性が混ざろうとしている。問題は天秤を握っているのが、ミヤギ自身ではないことだ。母親のDNAのせいか、譲り受けた運命なのか、他人に左右される人生が鎮座している。泥水の中にある真水の両眼を、俺は見続けられなかった。

「明日も頼んだ。俺が完璧な計画を立てる」

「うっす」

 雨が音を鳴らし、強くなる。ヘビーレインに俺は思わず、傘の柄を握りしめていた。


 計画屋なんて職業は、もともとはなかった。殺し屋が勝手にやった方が、都合がいい。だが、腕がよくても計画できない輩もいた。だから、計画屋が作られた。分業制というわけだ。殺人、誘拐、類似案件の計画及び調査。いかに安全に、神にもばれない所業で始末できるかを考える仕事で、実際に手は出さない。出さないが、罪ある仕事だ。

 難易度にもよるが、一つの案件に対しての金払いはいい。ただ、年に何回もある仕事ではない。結局は貧乏で、俺たちは使われているだけだ。いつか俺たちが殺されてもおかしくない。許容するつもりはない。抗う必要がある。少なくとも俺は最後まで諦めはしない。

 雨天から曇天になり始めた空模様を窓越し眺めていると、電話が鳴った。午前だった。天気予報によると、もう雨は降らないらしい。

「先輩、粘りました。一週間は待ってくれるらしいっす」

「上出来だ。連絡を待て」

「はい!」

 俺は携帯電話をテーブルに起き、下着を替えた。そして、ワイシャツを着て、靴下とスラックスを履いた。ネクタイを結び、ジャケットを羽織ると鏡の前で整えた。

 計画はできていた。すぐにでも実行できる。了承されれば。

 俺は駅近くの通りまで歩いて移動し、そこから白の個人タクシーに乗った。計画書と財布が入っているビジネスバッグを膝の上に置き、ダンナさんのところへと、運転手に行先を告げる。

「予約はしてんのか」

 禿頭のメガネが、ハンドルを持ちながらぶっきらぼうに言った。

「してない」

「先に連絡しろよ。ここまで来なくても迎えにいくのにさ。人目ってものを考えたことあんのか。そもそもダンナ様に会えるのかよ」

「知らない」

「……お前みたいな若造は嫌いだね」

「好き嫌いはするなって親に教えてもらえなかったのか」

 俺が聞くと、禿頭のメガネが反発の目で振り向いた。

「親に売られたって本当か?」

 吐き捨てられた質問を無視すると、ようやくサイドブレーキが下ろされた。俺は駅の方向へと歩を進める人々を流し見て、自分の位置を再確認した。

 道中の無言地帯を何事なく通過し、豪邸に到着すると、禿頭のメガネが携帯電話を取り出した。問答がいくつか続くと、ようやく車庫のシャッターが上がった。

「そこから入れってさ」

 俺は頷き、車を出た。

「殺されないようにな」

 運転手は言うと、排気ガスと共に去っていった。街から街へ。地獄から地獄へ。

 仄暗い車庫の奥。鉄扉の前に立つと、シャッターが下りた。監視カメラからは視線を感じる。殺されるならこの場所だなと、いつも思う。

 施錠が解除される音が聞こえた。冷たいドアノブを握り、引くと、狭い通路が現れる。質素な白色塗料で塗られた壁の圧を感じながら、突き当たりのエレベーターまで歩くと、自然の摂理というように扉が開いた。

 あとはもうなすがままだ。勝手に4階まで連れていかれる。また扉が開く。いつものように筋骨隆々の男が2人現れる。

「いいスーツだ」

 俺が言うと、彼らは無言で俺の前と後ろに付いた。

 ボディチェックとバッグの中身を確認されたあとは、ただ歩く。初めて来たときは目隠しと耳当てと、手錠もされた。もう死ぬんだなという感情は、いつでも思い出せる。

 廊下に窓はない。奥にひとつだけ木扉があるのみ。ダンナさんの個室だ。

「アンドウが参りました」

 前の男の一人が言って、ノックを4回する。

「通せ」

 ダンナさんの声が、天井の隅に備えられたスピーカーから聞こえた。

 後ろの男が俺を小突くと、木扉は開かれた。

 靴音を吸収する絨毯。真正面には壁。俺は横目で、ダンナさんが新聞紙を折るのを見て、回れ右をする。手招きして計画書を渡せと言っている。木扉が完全に閉まる。

「こちらです」

 俺は軽い緊張を踏みつけながら、バッグからA4用紙6枚分の計画書を出した。

「いつもながら薄いな」

「捨てる灰が少なくて済むように」

 婚約指輪の付いた指で、紙が捲られる。悪魔か神か。少なくとも俺よりも人間から離れている。

「なるほど」と俺をちらりと見た。「できるのか」

「はい」

「根拠は」

「相棒がいるので」

「……結構。計画通りに、明日やれ。怪我するなよ」

 俺は頷き、踵を返した。天国にはない火が、紙に移る気配を耳の裏で感じながら、俺は木扉を4回ノックした。


「そして、薬で殺す」

「……薬で?」

「オーバードーズだ」

 ミヤギは理解しているのか、していないのか、口を開けたままだった。

真っ昼間だが、雲が厚く少し暗い。公園には遊具で遊ぶ子どもと、スマホいじる親しかいない。ベンチには俺たちだけが座っている。

「いつやるんっすか?」

「今日だ」

「え、準備できてないっす。てか、あいつがいるかどうかもわからないっすよ」

「いる。大丈夫だ」

「でも、できるかな」

「心配するな。お前はドアを開けて入るだけだ。あとは成り行きに任せておけ。判断するなよ。お前は、ドアを開けて入る。あとは身を任せろ」

 ミヤギは自信なさげに頭を垂れた。俺は背中を叩き励ました。

「なにか食べてから行ってもいいぞ」

「人が死ぬところ見るのに」

「大丈夫だ」

「……俺、母親の死に目に会ってないんすよ。一週間ぶりにアパートに帰ったら、知らない人がいて、死んだからって。骨壷? みたいなの渡されただけで。本当は母ちゃん生きてるんじゃないかって。でも、いないんです。死亡の届け出は、俺がいなかったから大家さんがやったみたいで。引っ越すかどうか聞かれて、引っ越す、というか金ないから出ていかないといけなくて。母親は工場で惣菜作ったりして働いてたから。でも、俺はなにもしてなくて」

 思考と感情がぐちゃぐちゃになったままの言葉が並べられた。テーブルに全てが出されるのを俺は黙って眺めた。

「俺、クズなんです。小さい頃から悪いことばっかやって、母親苦しめて。でも、母親が俺を産んだから悪いとも思うし。父親がいないのも悪いです。だから、俺は悪い中で悪い風に育って、悪いまま生きて、今もこうやって、平気で悪いことして。悪いのは俺なんですけど。……俺のところに、スーツのおっさんたちが来て、アンドウさんを紹介されて、サラリーマンの家を見つけて、何やってるか調べて、またその繰り返しを、今からずっとやるんすよね」

 出されたのはどれも醜い料理だった。だが、毒もなく、安全で、申し訳なさそうな匂いがしていた。

「これが終わったらもう一度考えよう」

 俺は、ミヤギ以外は誰もがわかるだろう嘘を吐いた。

 ミヤギは何事もなく頷いた。俺がもう一度背中を叩くと、立ち上がり、幾度か振り返りつつ、歩いた。死地に行く戦士だった。

「頼むぜ、相棒」

 俺は死神にも、誰にも聞こえないように呟いた。


 *


 三三七拍子のノック。好きじゃない。誰が決めたのか、合図にするには馬鹿げた音。たぶん、この痩せたジャンキーが決めた。クソ野郎。

「はい、来ました。ドア叩かれましたね」涎が出るのか口元を拭いた。「出ますね」

 ジャンキーは私を確認してから、和室から出て行った。薄暗い中に見えるのはメタルラックに布団に缶に箱に注射器にスプーンにライターに灰皿に煙草にティッシュにゴミ箱にエトセトラ。遮光カーテンのこちら側には、腹が立つ全てがある。窓から世界に放り捨てたいくらいだ。

 持ってきた道具も捨てたい。溜息が出る。でも、気持ちを切り替えて、早く終わらせよう。

 手袋に入った指を折り曲げ、伸ばし、脳と指先が繋がっていることを確認する。

 鍵の解除。ドアの開音。交差する声。ドアの閉音。4足分の足音。

アンドウくんの計画では、この和室に2人が入る。ジャンキーが入り、ターゲットであるミヤギが入る。身動きを制限し、薬をたっぷり注射して殺す。ありがとう。楽勝。

「こっち入れよ。多めにやるよ」

「え、いいんすか? いや、でも」

「いいから入れよ」

 襖が開かれ、光が差し込む。ジャンキーが入る。ミヤギも、入る。

 私は死角から飛び出し、彼の左腕を掴んだ。背中を押して倒し、畳に叩きつけ、首を膝で抑えながら手錠をかける。

「いてえ!」

 ようやく声が出たところで、もう遅い。

「体を抑えて」

 私が命令すると、ジャンキーは楽しそうに彼の背中に乗っかった。肩を震わせ笑っている。

「ミヤギ。今から殺す」

 私はそう言って、ラックの上に用意していた、はち切れんばかりの注射器を手に取った。

「ちょっと、待って! なんで俺が殺されるんだよ! そいつじゃないの?」

「いやいや」とジャンキーは首を振る。「殺されるのはお前だよ。騙されてたんだよ」

「そう。騙されている」

 私はそう言って、ジャンキーを抑え、首元に注射した。墜ちてきたキス。甘い甘い毒だ。

「うっ、えっ? なんで?」

 振り向いた顔面をぶん殴る。そして、袋から新しく手錠を出してかける。混乱しているのか、抵抗もなし。バカが。

 ようやく異常を理解したのか、ジャンキーはリビングに逃げようと、襖に激突した。しかし、もう遅い。首を締め上げ、布団の上に転がす。奇跡的に折れなかった注射針をもう一度刺すと、呻き声が漏れた。そのまま全て流し込む。快楽とは言えないが、苦々しくもない。オーダーが全て通った安堵と高揚がある。

「なんで! 手伝ったら助ける約束だろ!」

 私は暴れる体を抑えつけ、足首にも錠を付けた。嬢王様じゃないし、そんなところで働いたこともないのに。自分の中に憂いと羞恥が生まれたのを感じる。猿轡もするべきだろうが、涎は嫌だな。

 私はミヤギを見た。奇跡を見たかのように、あんぐりと口を開けている。私は、ジーンズのポケットから鍵を出して、彼の手錠を外した。

「口を塞いで」

 布と猿轡を渡しても、彼は呆然としていた。

「俺、殺されるの? されないの?」

「もう殺された」私は彼の手を軽く蹴った。「さあ、早く」

 地上の魚のようにのたうち、罵詈雑言を喚くジャンキーの口を塞ぐのはさぞかし大変だろう。そう思ったが彼が耳元で何か呟くと、男は、なぜか動きを止めた。

「よくやった」

「どうするんですか?」

「どうもしない」

 私は仕上げにSMクラブのDMや嬢王様の名刺をばらまいた。いくつかは本物で、ほとんどが架空だ。

「それは?」

「お遊び」

 ジャンキーがまたのたうち回る。最後の足掻きかしら。うるさい。

「もう一度、黙らせて」

「どうやって?」

「なんか呟いてたでしょ?」

「無理です。全部嘘だからって言っただけだから」

「バカ同士」

「……こいつ、このままですか?」

「処理班が来る」

 今回来るのは、ただのクズ共だけど。……さて、そろそろ帰る準備しなきゃ。

 私は彼に背を向け、バッグに手錠を入れる。後ずさりの音が聞こえる。まさか逃げるのかしらと振り向くと、彼は脱兎のごとく逃げ出していた。あーあ。

 ポケットから携帯電話を取り出す。とりあえず緊急事態。アンドウくんにかけなきゃ。

「傘を差して」


 *


 天使の明瞭で簡素な声が耳元で囁かれるとほぼ同時に、ミヤギが階段を駆け下りて来るのが見えた。判断するなと言ったのに、最後の最後で約束が守れなかった馬鹿野郎。

 俺は車を出て、ジャケットを脱いだ。運転席に放ると、マンションから出てきたミヤギは俺に気付き、反対方向に逃げていった。

 脚を回転させることについては、今のところ誰にも負けたことがない。スーツ姿の場合に限るが、十分だ。

 俺はふっと息を吐き、力を込めて、地面を蹴った。足の裏に感じるアスファルトの硬さが、心地いい。流れる景色に構っている暇がないのが、残念だ。

 ミヤギは数メートル先を走っていたが、もう距離はほとんどない。住宅街での鬼ごっこは早めに終わらせる必要がある。手加減はできない。

 生への執着が体と脳みそを動かし、直線では捕まると判断したのか、ミヤギは狭い路地へと曲がった。通り抜け禁止の看板を無視し、コンクリート壁に服を擦りながら急ぐ。俺も続き、足早に路地を抜けた。幸いにも誰にも出会わないが、そろそろ捕まえたい。

 ミヤギは何度もこちらを振り返っていたが、思い切って体をよじって、家と家の間にある階段へと方向転換した。どこへ続くのか知らずに、脚を必死に上げて進んでいる。俺は必死な後ろ姿を見て、息を整えた。ランニングからウォーキングに切り替えて、階段をのぼる。こっちは計画屋だ。何がどこに続くのか調べはついている。

 階段をのぼり切り、少し開けた土地に出ると、ミヤギは足を止めていた。周りに存在していたのは、屋根の崩れかけた廃墟同然の空き家と、コンクリートの割れた道と、背の低い雑草が茂った空き地。雨と草の匂い。袋小路。終着点。

 俺は半泣きの瞳を見ながら拳を握り、顔面へと振り下ろした。腕を掴み、倒れるのを許さず、もう一度殴る。腕を離すと、ミヤギは観念したかのように、尻もちを付いて項垂れた。

「行くぞ。暴れるなよ」

 だが、俺が一歩近づくと、ミヤギはポケットからナイフを出し、隙を突いたかのように体ごとぶつかってきた。

 俺は本当にうんざりして、ため息を吐きながら避ける。首に向かって肘を落とす。ミヤギが前のめりに倒れる。何が何でもナイフは離さない男の哀しさが、視界に入った。俺は手を踏み、そして、ナイフを蹴った。

「行くぞ」

 静かに泣いているミヤギを小突きながら階段を降りて、路地から戻ると、見慣れた軽自動車と運転席に座る相棒が見えた。俺は後部座席にミヤギを押し入れ、一緒に乗った。ジャケットは助手席に畳まれていた。

「港町でしょ?」

「そうだ。もう行こう」

「わかった」

 コガちゃんは綺麗な声で、最後の計画に取り掛かった。俺たち二人しか知らない計画。裏切りの第一弾。もしくは、死刑台の階段をのぼっているだけ。

 車が動き出すと、俺はネクタイを締め直し、ミヤギに向き直った。

 人生はヘドロに塗れている。だが、彼のせいではない。

「お前は死んだ。つまり、もう自由だ」

「……意味わかんないっす。俺、結局、殺されるんですよね」

「違う。殺されない。だが、ミヤギとしては生きていけない。別人として生きてもらう」

「なんで……?」

 十字路で一旦止まり、コガちゃんは左右を確認する。誰も来ていないことがわかり、直進した。

「お前の母親が死んだとき、俺はお前を世話するように頼まれた。世話というより監視役だ」

「あのスーツのおっさんたちっすか? 誰なんすか? 誰に頼まれたんすか?」

「聞くな。どうでもいいことだ。事態が急変したのは、お前の父親が死んでからだ」

「父親?」

「そうだ。数日前に病死していたことがニュースで流れた。政治家だ」

「政治家?」

「お前の母親は、政治家の愛人だった。愛人というよりは」俺は頭に浮かんだ言葉を消した。「母親とお前は政治家の保護下でひっそりと生きてきたわけだ。お前のことは認知しない。代わりに、年に数回、ある程度の金が振り込まれたはずだ」

「意味がわからないっす。というか嘘っすよ。貧乏だったのに」

「残念ながら、お前に使われることがなかっただけだ」

「じゃあ、何に使われたんすか」

「ギャンブルだよ。お前の母親が使い込んだ」

 ミヤギは何かを思い出しているかのように目を伏せた。混乱と整頓の同時処理。

「健気に働き、夜なべもしてくれる、優しくて、陽だまりのような母親だったか?」

 当たり前に違う。いい母親を想像したヤツがいたとしたのなら、そろそろ目覚めろと殴ってやりたい。

「とにかく、事態は急変した。政治家の家族も、お前のことは知っていたが、愛情なんてこれっぽっちも感じていなかった。むしろ家系の汚点として、何なら世界の汚点として見ていた。世界がお前を敵と見なさないのなら、積極的に消してやろうと」

「なんで、そこまで。無視すればいいのに」

「お前が、自分も子どもだと名乗り出るんじゃないかと思ったんだろう。脅される恐怖とか、金をせびられる重荷というより、プライドの問題だ。ゴキブリが兄弟だと言われて喜ぶ奴らじゃない。父親の名に傷がついたら、自分たちが生き辛くなると焦ったんだ。そして、お前を殺す計画を立てるように誰かを通じて遠回しに言ってきた。昨日まで一緒に仕事していた人間がターゲットになるのかと、俺は憤ったよ。でも運よく、もう一つ仕事が舞い込んだ。売人の殺人計画だ」

「あいつ、本当に死んだんすか?」

「俺は見ていないから知らない。とにかく、俺はお前と売人を同時に殺す計画を立てた。了承されたし、実行もされた。だが、今からが本当の計画だ。お前を逃がす」

「逃がす?」

「お前の死体は、誰にも見せない。海の藻屑になる。死体が見つかり、警察沙汰になるより、安心安全だろうと計画書に記した。だが、計画通りにはしない。俺はお前を遠洋漁業の外国船に乗せる。まずは小さな漁船に乗って、沖に出ている船をいくつか経由してもらう。そして、晴れて船員として新たな人生を歩めるというわけだ」

「なんでそこまで……」

「世話をしてくれと頼まれたからだ。先の依頼を優先するのが、俺の仕事の流儀だ。だから、俺はお前を救ったとは思っていない。お前は自由だ。生きていい。でも、嫌なら海の藻屑になってもいい。身を投げろ。俺は否定しないし、嘆きもしない。だが、戻ってくることは許さない。戻りたいのなら、今度はきちんと殺してやる」

 赤信号で車がとまると、コガちゃんが振り返った。

「私も、ひとつ」

 頭を抱えていたミヤギが顔を上げた。

「死んでくれたら安心する」と彼女は言って、咳払いをした。「だからこそ、秘密に生きて」



 傷だらけのまま、ミヤギは小型漁船に乗り込み、国籍不明の漁師と一緒に消えていった。何も言わず、現実と夢の狭間から、こちらを最後まで見ていた。

 俺の財布は随分と軽くなった。もう小銭しか残っていない。カモメでも食ってやろうかと周りを見たが、何も飛んでいなかった。

 コガちゃんは海を見ながら、あくびをしている。彼女の特異な気楽さがどこからきているのか、ずっと隣にいるのに、未だにわからない。

「アンドウくん、嘘ついたね」

「何が?」

「逃がす理由」

「先の依頼を優先する。破棄されたわけじゃないから、遂行した」

「嘘」と彼女は俺を見つめてきた。「私、わかってる」

「……ああ。俺はあいつを利用して、欲望を満たしただけだ。あいつも、俺も質屋に売られたままだ。買い戻される望みもない。だが、俺は自分自身が廃棄されるのを黙っているつもりはない。あいつにも同じでいてほしいと願った」

「生き方の押し付け」

「そうだな」

「ささやかな反抗」

 相棒は手袋を脱ぎ、そっと俺の手を握ってくれた。俺もゆっくり握り返す。

 小さな頃から、二人で生きてきた。孤児院という名の質屋に売られ、磨かれ、棚に並べられ、買い戻されず、逃げ出せもしない、計画屋と殺し屋。

「そろそろ行こうよ」

 惨めな回顧が、透明な声に包まれた。海の向こう側、雲の隙間に天使の梯子が降りてきたのを見ながら、車に乗り込む。

 エンジンをかけると、ガレージロックが、俺たち二人に流れてきた。

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