5.レヌ川の戦い 決着
どれ程の血が流れたか。
レヌ川を渡河した帝国軍を押し返すロガ軍の攻防が始まってしばらく時が経った。
ロガ軍も大多数相手の為混乱気味だったが、帝国軍も想定外の投擲魔術や司令部奇襲により混乱していた。
ベルシスの元にもすでに何人か敵兵が至っていたが、全て従者の竜人リチャードが背丈ほどある大剣で薙ぎ払った。
一方で敵司令部の混乱は続いているようで、帝国軍の攻勢にも乱れが出ていた。
こちらの策が一歩先んじたかとベルシスが安堵したその時、背筋に不意に怖気が走った。
凄まじい殺気を感じ取り、慌てて周囲を見やるベルシスにリチャードが声を張り上げた。
「若っっ!!」
声の意味、飛来する矢に気付いた時は既に遅かった。
ベルシスは全身を駆け抜ける激痛に苦しみ悶え、握りしめていたロガの紋章が描かれた旗竿を取り落としそうになった。
だが、これは離せないと縋るように強く握りしめて倒れた。
死の川を渡りかけたベルシスはこうなった事の発端を、輝かしき日々、そして記憶にある限り最も古い幼き日々に思いを巡らせた。
(これが記憶の糸車が回るって現象か……)
死に際に今までの一生が一瞬で思い起こされると言われている現象の名を思い出し、目に染みるような澄み渡る青空を見上げた
空は赤く染まり、誰かの声が響く中、ベルシスは自身の死が間近に迫ったことをぼんやりと感じていた。
父母と過ごした幼き日々、従兄弟たちとルダイの街を駆け回っていた少年時代。
叔父が放った刺客をすべて倒した頼もしいリチャードの後ろ姿、初めて会った先帝の厳かでありながら優しい目。
親友カルーザスと訓練に励んだ日々とカルーザスには敵わないので別の有用性を身に着けるべく兵站の研究を始めた事を。
初めての任地、帝国辺境のローデンで起きた騎馬民族カナギシュ族の陰謀とベルシス軍団に長く務める事になる後の騎兵隊長ゼス、歩兵隊長ブルームとの出会い。
ローデンで出会った紫色の瞳の謎めいた少女。
トルバ村で出会った少年のように活発だったコーデリアとの最初の出会い、数年後トルバ村が野盗に襲われ半壊した知らせを受けた時の衝撃が。
カナトス王国との戦いを治める講和の席で義理とは言え息子と娘を断頭台送りにしようとしていた邪悪な若き王妃ギザイアのこと。
今ではその邪悪な女がゾス帝国の皇后であること。
(……あの女の首刎ねるまで死ねるか……)
ベルシスを看取るような優しい回想に、荒々しい生の鼓動を思わせる怒りが混じった。
※ ※
「ベルシス・ロガの最後を見よ!」
そうラネアタが何時になく感情的に叫ぶと、上空に軍旗を持って懸命に指揮を飛ばす男の映像が浮かび上がった。
灰色の髪に青い瞳の凡庸な顔立ちの男、彼こそがベルシス・ロガである。
ラネアタの魔術による映像が浮かび上がれば、今度こそアーリーは勝利を確信する。
映像を浮かび上がらせたと言う事は敵将ベルシス・ロガの元にラネアタの目となる伏兵が至ったのだ、その伏兵の次の役割は……ベルシス・ロガの排除。
突然浮かんだ映像にロガ軍の奇襲部隊も勇者も一瞬気を取られ攻撃の手が緩んだ。
丁度そのタイミングで伏兵はベルシス・ロガに矢を放つ。
矢は護衛であろう竜人が撃ち落とそうと振るった大剣をすり抜けて、ベルシスの左目を射抜き、彼は倒れた。
その様は帝国軍の兵士は歓声を上げ敵の士気は傍目から見ても下がったのが分かった。
勝った! 敵の伏兵である金色の髪を靡かせて剣を振るう若き勇者の一撃を防ぎながら、アーリーは顔を全て覆う兜の下で笑みを浮かべた。
勇者コーデリアの一撃は先ほどまでの力強さは消え失せている、将たるベルシスが死んだのだから当然だ。
アーリーが勝利を宣言しようとした矢先に事態は一変する。天地がひっくり返るように。
左目を射抜かれたベルシスは軍旗を支えに立ち上がり、吠えたのだ。
「ベルシスは死なず! 聞け、我が将兵よ! 我が身を矢が射貫いたが、我が命奪えず! そして……っ!」
吼えた挙句に矢を引き抜き、矢じりに刺さった自身の眼球を食らってみせた。
「これで我が身は何一つ欠けず!! ベルシス・ロガはここにあり!! 依然として、変わらずにっ!!」
その言葉と姿にアーリーは頭に鉄槌でも叩きつけられたような衝撃を覚えた。
ベルシス・ロガ。凡庸な男とも評されていたし、かつて見かけた時は自身もそう感じたその男は信じがたい力強さを示した。
左目を射抜かれたばかりなのに自信に満ち溢れた言葉を叫び、太陽を背にしながらロガの軍旗を翻すその男の姿は故国に伝わる神の化身のようだった。
ゾス帝国最強と謡われるカルーザス将軍からして、最大の難敵、大海に放たれた竜と言わしめたベルシス・ロガの存在感がアーリーの心を貫く。
「う……美しい……」
敵陣の様子を食い入るように見つめたアーリーは我知らず呟いていた。
「覚悟っ!」
そこに剣を振り下ろしてきたのは、先ほどから剣を交えていた勇者コーデリア。
彼女には力強さが戻っていた。
いや、彼女ばかりではない気力も体力もつきかけていた筈の敵の奇襲部隊は、自軍の将を見て奮起したように勢いを取り戻していた。
もし、自分がその立場でも奮起しただろうとアーリーは他人事のように思う。
迫る一撃は、訓練の賜物か無意識に避けられたはしたが、顔を覆っていた兜は断ち切られてしまった。
兜は音を立てて左右に分かれ落ち、いつも感じていた息苦しさから不意に解放されたアーリーは今一度上空に浮かび上がるベルシスの姿を見た。
「馬鹿なっ! 死んだのではないのかっ!」
「馬鹿は貴様らだっ! ベルシス閣下は不死身だっ! ローデンの争乱から今の今まで戦い抜いてこられたお方だぞっ!」
帝国軍の兵士の嘆きに奇襲部隊の隊長と思しき騎兵が叫び返す。
「我らローデンの旋風! 今は滅びしボレダン族の生き残りっ! 我らはベルシス閣下と共にある! ベルシス軍団の騎兵隊長ゼスとは俺の事だっ!」
十数年前に帝国の北西部を脅かしていたふたつ騎馬民族の内の一つの名を叫びながら、奇襲部隊の隊長は縦横に馬を駆る。
それに追随する騎兵たちの練度は凄まじい。
「――全軍、撤退だっ!!」
素顔を晒しながら呆然としていたアーリーは、我に返って撤退を指示した。
そして映像に映る今一つの軍旗を見つけて、更に驚がくに目を見開いた
信じがたい事にナイトランド軍旗がそこに見えたのだ。
大陸最古の国、東方の雄、或いは魔王軍の名で知られるナイトランドの軍旗が。
「まさに大海に放たれた竜……いや、或いは神の化身か」
勇者の一撃を辛うじて凌ぎ、アーリーは馬を走らせた。
このまま帝都には戻れない、どこかで
※ ※
ゾス帝国歴二三八年七月に行われたレヌ川の戦いはこうしてわずか一日で幕を閉じる。
アーリー・ガームルは幾つかの過ちを犯しはしたが、大きく間違っていたわけではない。
ただ、ベルシス・ロガの方がより老獪であっただけなのだ。
この時ベルシス三十三歳、アーリーは二十一歳、軍歴の差は埋めようがなかった。
<続く>
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