夏の残影
千鶴
思い出
8月31日、子どもの特権である夏休みも今日でおしまい。私は宿題を早々に終わらせており、河川敷でくつろいでいた。この季節はここが一番心地いいのだ。程よく日陰があり、冷たい水もある。飲めないけど。木陰で涼みながら、朝から元気に鳴き続けている蝉の声に耳を傾ける。駄菓子屋で買ってきたラムネを飲みながら、終わっていく夏の声に耳を傾けていた。
そんな平穏で退屈な時間は唐突に別れを告げる。
「おーい、祭りの準備始まっているけど行かないのか?」
上の橋から声が聞こえた。知らない振りしてスルーでもよかったが、そうすると後々面倒なことになることを私は身をもって知っている。とりあえず返事をすることにしよう。
「ラムネ飲み終わったら行くよ。それより、あきらは宿題終わったの?終わらせないと祭りには行かせないって、あきらのお母さんに言われてなかった?」
「ばれなきゃ大丈夫だよ」
「根本的な解決になってないよ、それ」
そう言いながらクラスメイトの一人であるあきらは私のいる河川敷まで降りてきた。取っつきにくい雰囲気の男子の中では比較的気さくで人懐っこく、私以外の女子にも人気がある子だ。私とは趣味や好きなものも似ていたため、学校以外でも約束をしてよく遊ぶ仲だ。彼は日数がかなりある夏休みをほとんど全て遊びに費やしていたらしく、ここ数日母親に缶詰にされていたことも私は知っている。
「で、進捗は?」
「美術と技術は終わった」
「ドリルとか自主勉強は?」
「7割、かな」
「あきらにしては上出来じゃない」
「その、終わってないのが」
「前言撤回。ほんの少しでも成長したと思ってた私が馬鹿だった」
ため息をつきつつ、彼の方を見やる。寝る間も惜しんでやっていたのか、目には隈らしき黒いものが見える。ものをつくることは天才的に上手いのだが、座学がとても苦手な彼にとって、夏休みの宿題はとても大きな敵のようだ。
「写すのはどれくらいで終わりそう?」
「2時間あれば余裕」
「仕方がないなあ」
「え、いいの?」
「私も美術の宿題手伝ってもらったからね」
「助かった!」
「そうと決まれば宿題もってそっちに向かうね。私が丁寧に分からないところを教えてあげよう。あと祭りの射的で欲しいのとって」
「スパルタじゃねーか!あと最後!ちゃっかり要求するな!まあいいけど!」
話の途中で飲みきっていたラムネの空き瓶をもって立ち上がりながら、あきらの手を引く。あきらはこれから始まるであろうスパルタ教育にどぎまぎしつつもおとなしく家へと続く道を歩いていった。これからどんな風に教えれば彼の頭に入るだろうか。
彼の家で無事に宿題を終えたあきらは、やつれてはいるがすっきりした顔で祭りに参加することができた。それでも相当厳しかったみたいで、私に対しては文句たらたら状態だった。私もあきらの宿題が終わってから浴衣を着付けてもらい、祭りに参加していた。
「とりあえず助かったけどさ」
「お役に立てたなら何より」
「お前の教え方がスパルタじゃなかったら、半分の時間で終わっただろ!」
「私の宿題まるっと写したら勉強にならないでしょう?」
「確かにそうだけどさ、もう少し優しく教えてくれたっていいだろ?」
「あきら運動部だから、厳しくやった方がいいと思って」
「それとこれを一緒にするな!」
いつも通りの言い合いをしながら、出店を一通り見て回る。綿飴や焼きそば、射的やくじ引きなど、特に変わったところのない店だが店主が顔見知りであることが多いため、どの店でもつい立ち止まって話をしてしまう。出店のスペースから出てくる頃には両手いっぱいに食べ物や戦利品を抱えることになってしまった。荷物の整理をするべく、近くにあった飲食スペースのテーブルを占領する。椅子がベンチのような長椅子タイプだったから、食べ物以外の戦利品は座っていないスペースに置いて、一息。
「大漁だな」
「俺のおかげだろ」
「射的の狙い的確だったね、意外とすごかったよ」
「意外とは余計だ。それにちゃんとお前が欲しいって言ってたの当てただろ?」
「はいはいすごいすごい」
「馬鹿にしてるだろそれ!」
「してないって。ありがとうね。あ、そうだ」
「どうした?」
「射的のお礼って訳じゃないんだけどさ」
それは単なる思いつき。子どもにも大人にもなりきれない狭間にいる私の些細な気まぐれ。もしかしたら祭りの空気にあてられているかもしれない。それか夏の暑さに酔っているのかもしれない。どちらにせよ、このときの私はとっておきの秘密を教えるくらいにはおかしかったのかもしれない。
「とっておきの場所、案内してあげる」
見えていた景色が、がらりと変わった気がした。
私を先頭にして鬱蒼とした森の影をかき分けて進んでいく。舗装されていない道は非常に歩きづらく、彼がついて来れているか心配だったが、それは杞憂であったらしい。運動部に所属する彼は体力もあったようで、息を切らしながらもちゃんと私について来ていた。息が切れているところ申し訳ないが、目的地までは近いのでこのまま向かってしまおう。
更に歩いた先、目的地に到着し、後ろを振り返り確認して声をかける。
「さ、着いたよ。えっと、大丈夫?」
「そ、そう思うならもうちょいゆっくり歩けよ。追いつくので精一杯だったんだからな、全く」
「あ、ごめんごめん」
「反省してないだろ! 棒読みなのバレバレだからな!」
いつもの小言の応酬をしながら、着いた先に促すように道を譲る。私の行動の意図が分かったのか、彼はその先へと進む。次の瞬間、彼が向かった方向から歓声があがったことを確認して、私も彼の隣へ行く。思った以上に驚いた顔をしており、それが少し愉快に感じた。
「喜んでくれたようで何よりだよ」
「そ、そんなことより、お前どうやってこの穴場見つけたんだよ!」
私が彼に案内したのは打ち上げ花火の穴場スポット。会場の周りは高い木なんかが多いこともあって全ての花火を見物することはできないことが多い。私が案内した場所は会場よりも高い場所だったため、ここからなら眺めも最高だ。ちょっとした山登りをしなければならないことが難点ではあるが。
「小さい頃の遊び場だった場所が時間が経つと別な魅力を感じることってあるでしょ?ここもそんな感じだよ。あ、ここって花火見る特等席なんじゃないか、てね」
「なるほどな。で、なんでこんな場所俺に教えたんだ?こんなにいい場所なら独り占めしとけばよかったのに」
「ただの気まぐれだよ。ただ、寂しかった、て言うのもあるかな」
「寂しかった?」
「こんなにいい場所なのに、私以外知らないのは寂しいかなって。でも、8割は本当にただの気まぐれ。なんとなーく案内したくなっただけ」
「そっか」
それだけ答えて私たちはしばらく夏の夜に咲く大輪を眺める。一瞬のうちに咲いては枯れる夏の花を唯々眺め、その美しさに心を奪われていた。明日からまた始まる、変わりばえのない退屈で平穏な日常に思いを馳せながら。
「花火、終わったな。ところでさ、この場所は」
「私たちだけの秘密。まあ、強制はしないから好きにするといいよ」
「そっ、か。ああ、分かった。じゃあそろそろ帰ろうか。きっと母さん達も心配して騒ぎ出す頃合いだと思うし」
その声に、とっさに返事ができなかった。
聞こえなかった訳ではない。聞きたくなかったという訳でもない。ただ、その言葉に返事をしたくなかった。
「神楽?」
その声を聞いてはっと我に返り、彼の先程の言葉にまだ返事をしていないことを思い出した。
その瞬間は、ほんの短い間のようにも、永遠に感じるほど長くも感じた。
「うん、帰ろうか」
やっとの事で返事をした私を見やり、彼は来た道を戻り始める。私も後に続くように山道を降りた。
山道を登る前に親に帰りが遅くなることを伝えていた私とは違い、彼はあの後親にたっぷりお説教されたようだ。始業式の時、こちらを恨めしそうに見ていたが、その視線は全てスルーし、友人達と祭りであったことを話していた。
同じクラスの誰かが告白したとか、ふられたとか、そんな他愛のない、世間話。そんなこと話していたとき、ふいに私に話がふられた。
「そういえば神楽、あきらと祭りにいたよね。あの後告白とかされたの? どこかいなくなってたし」
「あ、私も気になってた。あのとき何があったの?」
「2人が思ってるようなことは何も。ただ散歩に付き合っただけ」
そうなんだ、相談に乗ろうとか思ってたのに、とかいう言葉を聞き流しながら、昨日の出来事を思い返していた。
もし、あのとき引き止めていたら。そんなあり得ない『もしも』を考えていた。言葉が詰まって出てこなかったのは、初めてで。そのことをまだ受け入れられないでいたことにも混乱していた。昨夜からずっと考えていて、まだ答えは出せないでいた。
それから、彼とはただの友人関係を続け、卒業してからというもの、すっかり疎遠になってしまっていた。
「今思えば、あれが初恋だったんだよね」
「つまり私は、自分で恋の可能性をなくしていたんだよ」
そこまで話して麦茶を一口飲む。長く話していたせいで喉がかわいている。自分のグラスが空いたところで相手のグラスも空になっていることに気がついた。台所に一旦ひっこみ、麦茶のボトルを取り出して居間を通りに戻る。客人のいる縁側は、風通しがよく、涼しいとはいかないまでと比較的過ごしやすい。
「後悔してる?そのこと」
ふと声をかけられ、そちらを振り返る。外からの光が眩しくて、相手の表情をうかがい知ることはできない。縁側に戻りながら、投げかけられた質問に答える。
「全然。私はあれを後悔していないし、心残りがあるわけじゃない。それも全部、私の中で生きているからね」
「生きてる?」
「そう、経験としてそれは私の中で生きている。それに、職業柄引き出しは多い方がいいだろう?」
そう言って相手に向かって笑ってみせる。旧知の仲である相手にこの顔を見せることは滅多になかったためか、驚いているように見えたが、すぐに元の表情に戻った。
「中学校からずっと続けているんだったな、演劇」
「演劇というか、芝居に関する仕事は全部受けてる。朗読劇も、声劇も、勿論舞台も。まあ、演劇ってひとつに括れるけどね」
「まあ確かに」
そう、これは私がまだ何も知らない、恋愛とは無縁だった頃の、少しだけ切ない思い出話。でも、それだけじゃない。うまく言葉では言い表せられないけど、演技の引き出し以外で、あの思い出は確かに私の中で生きている。少なくとも、昔なじみにこの話ができるくらいには。
あんなに高く昇っていた太陽も今日はそろそろ店じまいらしい。私は泊まりに来ていた友人を屋内へと招き入れ、食事の支度に取りかかることにした。友人もそれを手伝うことになり、普段より一人分多い足音が台所に響く。
「そういえばさ」
「何?」
「さっきの初恋の話、あれって中学時代の話だよな。お前の初恋の相手って誰だったんだ?名前伏せて話してたから誰か分からなかったけど」
「黙秘権を行使させてもらおうか」
「何それずるい!」
いつもより賑やかな家の中。昔にタイムスリップしたかのような小言の応酬。ああ、懐かしい。浮かれているのが私だけなのかと錯覚するくらいだったが、隣にある表情も明るい。少し安心した。
だからかもしれない。『あのときと同じような』誘いを彼にしたのはとても嬉しかったから。いや、嬉しいなんて言葉で形容できない幸福感が私を包んでいたから。そんな風に言い訳をして、私は、
「そういえば、夕飯食べ終わったら付き合って欲しい場所があるんだ」
「それは別にいいけど、どこまで?」
「私たちだけの秘密」
「っ!」
見えていた世界を再び回して、景色を変えた。ゆっくりと停止していたものが、再び加速する。
見える世界は、こうも簡単に崩れ、またうまれおちていく。
夏の残影 千鶴 @Cthulhu_noir
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