第4話 誘惑
阿久津健志には辛い思い出がある。それは、大学に入って初めてできた彼女である夏樹結衣との思い出。
『ね、僕たちそろそろ付き合って半年も経つけどさ、そろそろ……ね?』
阿久津健志はラブホテルの前に止まって、真剣な眼差しを結衣ちゃんに向ける。だが、彼女は覚め切った表情で
『私、健志以外に付き合ってる男がいるからさ、残念だけど、別れましょう』
『え?結衣ちゃん?な、何を言ってるの?冗談でしょ?』
『冗談じゃないの。健志、あんた、つまらないんだよね』
『ええええええ!?』
『成績も普通、性格も普通、まあ、見た目は私が色々言ったから多少はマシになったと思うけど、付き合うメリットがないんだよね』
『……つまり、結衣ちゃんは浮気をしてたってこと?』
『ああ、そうよ。』
『ひ、ひどい。僕は……結衣ちゃんのことずっと……プレゼントもいっぱいしたし、ご飯もいっぱい奢ってあげたし……他にも……』
『本当、みっともない顔ね。健志、あんたは男として魅力がないのよ』
『……』
『じゃね〜今後大学で私見ても、話かけないで』
蔑んだ目、馬鹿にしくさった表情。阿久津健志はあの時の彼女が発した言葉、見せた態度を全て覚えている。初めて付き合った彼女に浮気されたことがトラウマとなって、女性と接するときにはいつもバリアを張るようになったわけだが……
そんなトラウマの元凶たる結衣ちゃんとオシャレなカフェに入って、二人で飲み物をちびちび飲んでいる。
「それにしても、健志って雰囲気だいぶ変わったね」
「あ、あはは……そんなことないよ。僕は変わってない」
「そんなことある!だって、見間違えるほどだったもん」
「そ、それは照れるね……」
阿久津健志はぎこちなく苦笑いを浮かべては、また飲み物に口をつける。
「健志は最近何して過ごすの?社会人?」
「会社は辞めて事業やってるんだ」
「え、ええ?事業!?」
事業という単語は出た途端、急に立ち上がり前のめりになって、阿久津健志を見る。ついでに、阿久津健志がつけている腕時計、服のブランドなどをチェックした。
「た、大したことないから!」
「大したことなの!だって、健志、大学時代には全然事業やるような人には見えなかったから!」
「そ、そうだったかな……あはは……ところで結衣ちゃんこそ何やっている?やっぱり社会人?」
「まあ、今は辞めて転職活動って感じかな」
「なるほどね……」
阿久津健志は早くこの場所から離れたかった。自分の心に深い傷を負わせた相手と長居したいと思うMはそういないだろう。
「僕、そろそろ行くね」
「ちょ、ちょっと!」
「うん?」
「私ね……実はずっと健志に伝えたいことがあったの……」
「伝えたいこと?」
「うん。私ね、あのとき、健志に対して、ひどいこと言ったなと思って……」
「あ、あれは……いいよ別に……もう済んだことだし、蒸し返してもしょうがないというか……」
「やっぱり、健志は優しいね……昔から何も変わっていない」
「ははは……言ったでしょ?僕は変わってないって……んじゃ、僕はそろそろ……」
「待って!」
「うん?」
「あの時の続き……やってみない?」
「もしもし、あ、はい、原稿の件ですね、まだ誤字と脱字が多いので、ある程度修正を加えてから送ります!はい。じゃ失礼します!」
出版社からかかってきた電話に出た阿久津健志は短く話してから電話を切った。そんな彼の様子を見てほくそ笑む結衣ちゃん。
「ねえ、健志って本とか出しているの?」
「ま、まあ。そんな感じかな?」
「それがメイン?」
「ううん。これは一部だよ」
「ふーん、なるほどね……」
やがて、阿久津健志と結衣ちゃんはラブホテルに到着した。顔を顰める彼に結衣ちゃんは近づいて話かける。
「ねえ、実は、私……ずっと後悔していたんだ……」
「な、何を?」
「健志をふったこと……だから、健志みたいなつまらないけど優しい男をずっと探していたの。だから、だから……図々しいのはわかるけど、また……前みたいに仲直りできるかな?」
「……」
「ここに入って、あの時できなかったことをして、また二人で幸せな毎日を送ろうね……」
物憂げな表情を浮かべる健志に体をくっつけてくる結衣ちゃん。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます