Salviofficinalis
§ § §
一ヶ月前。
王宮の大広間。
白い列柱に金の装飾。壁面に描かれているのは、涼しい顔に似合わない鍛えた腕から、巨大な十字剣を振り下ろす男。
聖ゲオルギウス。壁画の彼は、悪しき竜を退治している。
ゲオルギウスはこの国の創始者。竜に支配されていた国を解放したことで知られる。
建国と同時に神として祀られた聖ゲオルギウス。知謀に長け、頑健な肉体で悪しきものを滅殺する、聖なる存在。彼は騎士団を設立し、周囲の国を圧倒したと言う。その功績もまた称えられ、騎士団は彼を模した偶像と旗を掲げている。
退治された竜は国境沿いの塔に封じられたという。その塔は聖なる塔として崇められ、信仰の対象となった。
竜が封じられて数年後。聖なる塔には竜達が集ってきた。人々は思った。聖ゲオルギウスに竜が屈服したのだと。
以来国を守る守護として竜達は塔に住み着き、国境を守っている。
放物線を描く天井には竜ではなく、色とりどりの羽根をもった天使が舞う。いや、天使ではなく、愛の使いか。
頭上中央には豪奢な赤い硝子のシャンデリア。
その橙の光が夜を華やかに明るく染める。
地上には金の絨毯が敷き詰められ、その上で踊る人々。
今日は皆、特別にめかし込んでいる。継承権第一位、第二王子の主催パーティーだ。皆、次期王に顔を売ろうと必死に手土産を用意し、印象に残ろうと必死だ。
赤毛の令嬢はダンスの相手を待っていた。
深紅で何処かシックな雰囲気のある美しいドレス。シャンデリアにその立ち姿は煌めいているのに、パーティが始まって以来ずっと壁の花。
彼女のダンスの相手こそ、パーティの主催者。しかし、彼女が孤立していることに、違和感を覚え始めた参加者がちらちら彼女を窺った。
周囲がひそひそと邪推する声は、彼女の耳にも届いている。それを誤魔化すように彼女は飲み物を取りに行く。セージ入りのグラッパではなく、シャンパンを選んで手に取ると、男に呼び止められた。
「ごめんなさい。良く聞こえなかったわ」
シャンパングラスを傾けて、赤毛の令嬢。
男は茶色の髪で、少しガッチリとした体格だ。無骨そうな表情筋は働いていない。だが、目は力強く令嬢を睨み付けていた。
「貴様の悪事はお見通しだと言ったのだ、この毒婦が」
男が令嬢に詰め寄る。
その勢いに令嬢は思わず半歩さがった。面識のない男に詰め寄られる覚えはない。
名前は知っている。貴族の嗜みとして、また未来の王妃として。爵位の低いものでも有力なものは全て覚えている。
アーロ・レピスト。騎士として父親が優秀で男爵位を与えられ、息子もその血を継いだ。息子の方が優秀で、次期騎士団長に相応しい実力を持つといわれている。
彼の言う悪事。それにも心当たりはない。令嬢は公爵家であり、王家の血を引いていることからも貴族の手本となるべきである。
たかだか男爵位の男が公爵令嬢を呼び止め罵ったことは、非常な無礼だ。
しかし、周囲がそれを止めない理由がある。
リュ-ディアは呪われた公爵令嬢と呼ばれている。
本来王族の血を引く彼女自身も受け継ぐはずの金の髪。彼女の髪は忌み嫌われる赤。それは、公爵令嬢でありながら彼女の血筋の悪さを象徴するものと吊し上げられ、変わった瞳と共に呪いの象徴、悪役令嬢と囁かれている。
パーティの出席者はそれもあって、不躾な好奇の眼で彼女らを静観した。
「貴方。私が誰だかわかっているの?そのような口の聞き方、ただで済むと思っているのですか。わきまえなさい」
「悪人に礼節など必要ない。わきまえるのはお前だ」
アーロは強い口調を崩さない。彼女は眉をひそめる。
「気分が悪いわ。失礼させていただきます」
シャンパンを給仕の盆に返し、彼女は男を背に歩き出す。その背に向けて、男は声を張り上げた。
「リュ-ディア・キルシ・ヴェテライネン。逃げるのか」
敬称もつけない男の声など、彼女は聞く必要もないとヒールで床を叩き鳴らす。
「第二王子殿下を待っているなら無駄だ。ラストダンスを期待していても、お前は殿下とは踊れない」
王子。かり出されたその存在に彼女が振り返ると、無骨なアーロが、勝ち誇ったような顔で笑った。
「どういうことですの?」
「殿下は今、彼女を介抱している」
「彼女?」
「アマリア・フルメヴァーラ嬢。貴様の奸計をくぐり抜けた、強く美しい人だ」
アーロの強い口調には、侮蔑と崇敬が入り混じっている。侮蔑は勿論リューディアに。
彼はそのアマリアという女に心酔しているようだった。
リューディアは思案する。
アマリアという名前は知らないが、フルメヴァーラ家は子爵だったか。辺境に近いところに位置した農業地の多い地域だ。肥沃というほどの土地柄ではないが、他に特産がないので寒冷地に強い果物を育てている。
「お前は第二王子の婚約者から外された。殿下はアマリアを選んだのだ」
「そんなはずないわ。私は陛下に殿下を任されたのですよ。彼女は子爵でしょうに」
「いいや、婚約は解消だ」
二人の間に入り込んだ闖入者。それに合わせ、人々がさざ波のように道を開けていく。
金の髪を靡かせた王子。濁った空の色の瞳は怒りに震揺らめいている。
クスター・ラウリ・オヴァスカイネン。
この国の、第二王子であり、第一位王位継承者。
その後方には女性と男性。二人を従えて、王子はつかつかと大広間を横切り、リューディアの前に立った。
「クスター様」
「お前ごときが、我が名を呼ぶな」
王子は冷たい目をリューディアに向ける。
「リュ-ディア・キルシ・ヴェテライネン。貴様の悪行、俺が知らないとでも思うのか。貴様との婚約、破棄させてもらう」
クスターは堂々と腕を振り上げ、リューディアを指差した。
パーティーの参加者に動揺が走る。
リューディアは違和感を覚える。
王子の後ろの男女。ピンクの髪の女の方だ。女は黒髪の男にしなだれかかっている。足元は覚束なく、千鳥足なのにヒールを履いている。そして顔色は青いように見えるのに、唇の赤さで毒々しさを覚える。
そのドレスは、王子のドレスコードに合わせた紫色。裾にラインストーンが煌めいている豪奢なつくりで、とても子爵令嬢ごときが買えそうにない意匠のデザインだ。
「多くの貴族令嬢を脅し貶め、あまつさえ友人を追い詰めて殺した鬼女め。とうとう彼女まで殺そうとするとは…」
王子が一片の曇りもなく告げて、ざわめきが波打つように大きなものになる。
「どうやって」
リューディアは呆れて王子に返す。
顔も知らない女をどう殺そうというのか。そう訊いたつもりだが、言葉が足りないのは自覚していた。
「毒殺だ」
案の定、王子の答えは唐変木だ。彼女はこめかみを押さえた。
「証拠もないのに、殿下は何処でそれをお知りになりましたの」
「彼女の飲んだグラスには、お前の家の紋章があった」
「知りませんわ」
「お前が殺そうとしたのだろう。間抜けにも証拠を残してな」
王子は苛立ちを隠そうともしない。
なぜわざ公爵家の紋章のついたグラスで犯行に及ばねばならないのか。リューディアは頭が痛んだ。
「そんな、リューディア様がまるで犯人みたいな言い方はやめてください、殿下。私は平気ですから」
王子の後ろで、ピンクの髪の女アマリアが叫ぶ。
リューディアは公爵令嬢だ。滅多なことでもない限り、その足元は磐石のはずだ。こんないわれもない噂など撥ね飛ばせる。
しかし、王子にこのように詰め寄られることは想定にない。
そして、被害者であるアマリアが声高に叫んだことで、ざわめきは急速に広まった。
「アマリア、無理はするな」
「全然平気です。私、こんなことでへこたれませんから」
彼女は健気に、儚げな微笑みを返す。ポロリと、目尻から涙が綺麗に伝った。
「泣くな。俺が何とかする」
「そうだ。あんな卑怯なやつに気を使うな。ほっといたらいいんだ、アマリアは優しすぎる」
「僕らはいつも君の味方だよ。あんな人の味方なんて誰もいない」
王子が励まし、アーロが鼓舞し、黒髪眼鏡のアハトが
寄り添った。
惜しげなくアマリアの目尻から涙が溢れる。両手で顔を覆った後、彼女は涙をぬぐう。
アマリアはすっきりとした面持ちで、小鳥のようなかわいらしい澄んだ声を出した。
「皆。…うん、私は負けたりしないわ。だって、皆がいるもの。あの人はこんなことでしか私に対抗できないのだもの」
凛としたアマリアに、王子達は一瞬見惚れる。
「そうだよ」
「俺が悪いやつを倒してやる」
「お前は少しは頭を使え」
アーロが握りこぶしを作ると、王子から容赦のない突っ込み。いつもの光景にアマリアはふふ、と笑みを溢した。
「そうよ。あー君が突っ走るから、クスター様が慌てて追いかけたんだよ」
「アマリア、様は要らないといっただろう」
「ごめんなさい、つい癖で。わかったわクスター」
「可愛いな、アマリアは」
王子はアマリアの髪を何度も撫でた。頬が朱に染まるアマリア。王子達はリューディアをそっちのけで盛り上がる。
広間にいた人々は、その異様な光景に圧倒されつつあった。
「お嬢様、こちらへ」
その騒動に紛れて、執事がリューディアの手を引いた。
執事が見物人の数人に目配せすると、彼らが顔を見合わせ、黙って小さな道を開く。小さく開いた人の間を潜り抜けてその場から離れ、広間を閉じる。
それから回廊を走り出したときに、四人はリューディアがいないことに気づいたらしい。
大きな怒号のようなものが聞こえた。
「リューディア様!ここは引き受けますので、早く馬車へ!裏門でルークが待機しております」
執事は後方を窺いながら、リュ-ディアに前を走らせる。
「引き受ける?」
「公爵家のグラスが使われたとなると、お家も安泰ではありません。急ぎ戻って旦那様に報告を。あの女が未来の王妃ならば、隣国の親戚を頼るのがいいでしょう」
一人で行けと言う執事に、彼女は聞き返す。執事は今後の方針を早口で捲し立てた。
まるで最期の言葉のように。得たいの知れない不安が彼女を苛む。
「スチュアード、一緒にいきましょう」
「この老人の足では、すぐ追い付かれます。多少の足止めならお役に立つでしょう」
執事の瞳には、覚悟が宿っている。
それが何の覚悟なのかわからないほど、彼女は子供ではない。
「だめよ、貴方をおいていけない」
「ヴェテライネン家で、お嬢様にお仕えできて幸せでした。しかしお嬢様。勝ち気が過ぎるのはいけませんぞ」
「スチュアード、待って」
執事はリューディアを気遣い、優しく肩を押して扉の外に出した。そして内側から鍵を掛けた。
彼の行動を無駄に出来ない。リューディアは走った。
スチュアードが案内した隠し通路。二部屋先の扉を潜り、螺旋階段を降りれば裏門だ。
一部屋を突っ切ると、話し声がした。
隣に誰かいるらしい。男の声と女の声。
だが、立ち止まるわけにはいかない。
「なあ、さっき広間で…見たんだが。……ヴェテライネン公爵って君の親戚じゃないのか?」
「まあ、そんなことが」
「あのこ、君からはあまりいい話を聞かないから。面倒なことになりそうだよ」
聞き取りにくかった声は、近づくにしたがって明瞭になっていく。
うんざりしたような男の声が、少し大袈裟に響く。
「確かにリューディアにはいじめっこだものねぇ。そういうことがあってもおかしくないわ。あのこ、そう可愛くもないのに高飛車だから、貧民の心を煽っちゃうのよね」
「違いない」
はは、と男は軽薄に笑った。
扉を開いた彼女は、硬直する。
「エステリ。貴方」
「あ、リューディア…」
エステリ・カリタ・キヴィラハティ。特別親しいわけでもないが幼馴染みに近い、リューディアの従姉妹だ。
従姉妹のその言葉に、彼女は居たたまれなくなって、彼らに背を向けた。急いで部屋を突っ切り、螺旋階段を駆け降りていく。
(いまは、泣きたい。誰もいないところで)
虚しくて悲しくて。信じているものを喪い、周囲には裏切られ、彼女の心は傷ついていた。
「待って」
追いかけてくる声に、彼女は辟易した。
従姉妹だ。必死でふりきろうとするが、彼女は男を連れてきていた。
男の足とドレスにヒールの女の足では、分がわるすぎる。そうでなくても足の遅い彼女は従姉妹を振りきるのが難しいだろうと予測していたのに。振りきれない。
追い付いてきた男に進行方向を邪魔された。
だが、男は使いはしりのようなものだ。従姉妹に頼まれて進路妨害しただけ。前に出ればリューディアが止まると思っていた男は、彼女が横を通り抜けるのを、油断した顔で見送った。
相変わらず待てと制止の声が彼女を攻め立てた。近づいている。もう、真後ろにいるとわかっていた。
「止まって、リュー。貴方は誤解している。私はリュ-をどうこう思ってるつもりはないのよ」
相手は無遠慮に、彼女の愛称を呼んだ。
彼女は振り返る。
振り返った反動で、涙がポロポロとこぼれ落ちた。
「待ってどうなるの。私に心がないと、傷つかないとでも思っているのでしょう?貴方は何も思ってないのに、追いかけてこないで」
悔しいと、思った。
人前で泣くまいと走っていたのに、泣かされたみたいになってしまった。
彼女が泣けば、相手はそれをみてほくそ笑んでいる。笑っている。
その証拠に、従姉妹の顔に悲壮さはない。
いつもの冗談でしょ、とでも言いたげな微妙な顔をしている。
相手は慚愧の思いなどない。
自分を貶めても何も感じない。ただ、自分が悪い位置に立たされるのが嫌で、保身のために追いかけてきた。
自分が悪いことをしていないと、こちらに認めさせるために。自分が恨まれないように、誤魔化すため、正当化するため、自己満足のためだ。
謝るつもりなど毛頭ない。そもそも謝ることをしていないというのが透けて見えた。
謝るとしてもその場を取り繕うためだけだ。
卑怯で欺瞞に満ちた、姑息な。
「リュー、ひどいわ」
もう、この女の言葉に騙されるほど、自分は馬鹿ではない。
ただ、彼女の軋む思いは少なくとも従姉妹の足を止めた。
従姉妹は誤魔化せないと感じたのか、傷付いたのか。リューディアをひどい女と、構う価値もないと見下げたのかどうか知らない。
どちらにせよ言い訳が無駄なことは悟ったらしい。
リューディアはボロボロだった。
汗だくになり、靴擦れを起こし、そして心を抉られ、漸く。
「ルーク!」
裏門に飛び出た彼女は、そこに御者の姿を見つけることはできなかった。
程なくして、彼女は衛生兵に捕まり、竜の棲む神聖な塔へと移送された。
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