第19話 閑話 紫釉 二
あの日の後悔を、紫釉は決して忘れることはない。
紫釉が父を弑逆した日から二日後のことだった。
「郊外に向けて凱旋を……?」
「ええ。民に紫釉皇帝の存在を知らせる必要がございましょう。少人数の反乱を治めて頂くだけで、威光を示すだけで結構です。出来ればその地に褒美を与えるのも良いでしょう。ですが第一皇子や皇帝に媚びていた役人にはそれ相応の処罰を与える姿も見せるべきでしょう」
紹将軍の言葉に紫釉は耳を疑った。
城を落としてまだ二日目で郊外に行けと言われれば疑うのも無理はない。
つい先日鳳柳城を攻め落とし、父の政権を奪ったばかりだった。未だ城の内部は混乱していたが、紹将軍の采配は手際良く、彼が信頼している家臣により正常さを損なわずにいられた。
紫釉とて無能ではないが、それ以上に紹が有能すぎた。年齢も一回り違う彼と紫釉では経験も能力も大きな差があることは事実だった。
紫釉より何歩も先を進む将軍に必死で追いつくよう翔けている現状である。
しかし、そんな紫釉でも紹将軍の言葉に疑念を抱いたのだ。今、皇帝となった紫釉を鳳柳城から離す理由が、どうしても納得ができなかった。
まるで紫釉を追い払いたいようにさえ思えたのだ。
「将軍の言葉を疑うわけではないが、城を落としてすぐに行うことは良策と思えない」
「仰ることはごもっともです。ですが今こそ紫釉様のお姿を民の目に焼きつけなければならない。腐敗した父王を絶ち、神龍の如く天から舞い降りるような英雄譚を民に知らしめたいのです」
紹の言葉を聞けば納得のいく理由もある。
だが、紫釉にはどうしても気掛かりがある。
一斉に冷宮に幽閉された後宮の妃嬪達の、玲秋と珠玉のことだった。
紫釉としてはすぐにでも二人を牢から救い出したかったが未だ内政が混乱する中で私情に動いてはならないときつく忠告されているため駆け付けることができないでいた。
ならばせめて待遇を他と変えてほしいと紹には伝えており、それは承諾してくれていた。
「公主と徐倢伃のことにございましょう?」
紹将軍が他には聞こえないよう耳打ちする。
紫釉は城を落とす前、紹のことを信じ玲秋と珠玉との関係を伝えていた。命の恩人であり妹の面倒を見てくれる良き女性なのだと。
いずれ国が落ち着いた後、玲秋が望んでくれるのであれば妻にしたいとさえ会話の中で漏らしたこともある。
その事を穏やかに聞き、時には背中を押してくれるような答えさえ与えてくれた紹のことを紫釉は信じてしまった。
それがまず、一つ目の大きな過ちだったのだ。
紹に協力を仰ぎ共に父王を討った。常に互いの意見を交わし合い、時には叡智ある紹に憧れ師として仰ぐ気持ちが芽生えたのはいつだったか。
実の兄以上に紫釉を導いてくれた紹のことを信じてしまったのだ。
彼が何故国を裏切るに至ったのか、愚かにも紫釉は考えもしなかったのだ。
凱旋を終え城に戻った紫釉は、全ての事を終えた後宮の前で膝を地に付け茫然とその景色を見つめていた。
冷宮はもぬけの殻となり、幾重にも処刑された痕跡が残されていた。
腐臭を抑えるため土を掘り遺体を埋めたのであろう。至るところに掘った跡がある。
地が赤黒く染められた惨たらしい光景に吐きさえ覚えた。
「玲秋……玲秋は!」
いっそ意識を忘却させたい光景の中を紫釉は走り出した。
後宮の処遇を統括し管理していたのは紹だ。
紫釉は何度も彼に告げていた。
玲秋と妹の珠玉には手を出さないで欲しい、と。
今は混乱の最中で救い出すことが困難であることは分かっていた。だが、事が落ち着いたら玲秋の身分を変えようと手配をしていたのだ。
珠玉だってそうだ。彼女の母方の協力を仰ぎ、父の子という汚名よりも周賢妃の子として落ち着いた地位を得るよう取り計らっていた。
あと少しだった。
あと、もう少し彼女達に苦労をさせてしまうが。
必ず救い出すと、己自身に誓っていたのだ。
しかし紫釉が見た光景は地獄そのものだった。
将軍を問い詰め、彼によって父王の墓所まで案内された。
生前から用意を進めていた父の墓所は広く、見張りは土塊で作られた兵の像のみである。
そこに、固く閉ざされた扉があった。
扉は厳重に固定され隙間なく埋め尽くされていた。土壌に岩まで置いて固定されていた。
紫釉は感情を殺し、守衛兵に取り除くよう命じた。
扉が開くまでに数刻の時間を要した。
その間、紫釉と紹は無言で立ち尽くしていた。言葉を発することはなく、互いに黙り作業が終わるのを待っていた。
扉が開いたという兵の声を聞き、紫釉は静かに扉に向かって歩き出した。
扉前に居た兵が、異臭により顔を歪めその場から離れるが、紫釉は表情を変えることなく扉の中に進んだ。
一切の光がない暗闇の中に、複数の女達の遺体が転がっていた。
冷えた霊室の中とはいえ数日放置された遺体から漏れる腐臭に背後の兵が嘔吐する。
大勢の遺体の中の少し離れた部屋の片隅に、一人の女性が小さな子供を抱き締めている姿を見つけた。
紫釉は迷いなく進む。
膝に乗せた小さな少女をあやした姿のまま、まるで眠るように抱き寄せ死んでいた。
屈んで骸の髪に触れる。
骸は髪に触れただけでずるりと揺れ崩れ落ちた。
窶れ変わり果てた女性の首筋には、大きな傷跡があった。
「………あ………あああああ!!」
慟哭が響いた。
悲痛なまでの叫び声が墓所の中に響く。
一人の男性の泣き叫ぶ声。
あまりにも痛ましく、狂わんばかりの叫びは終わることもなく。
ひたすらに響き渡った。
扉の外では紹が待っていた。
珠玉の骸は家臣に持たせ、紫釉は玲秋を抱きながら扉の前へと戻ってきた。
憔悴した顔に希望はない。前髪で隠れた瞳には絶望が映し出されていた。
「……………………何故、殺した」
声は泣き叫んだことで掠れていた。
愛おしそうに玲秋の髪を撫でながら、また一歩と紫釉は近づいた。
「答えろ。
劉偉は紹の字だった。親しいと呼べる間柄となった紫釉は時折彼の事を字で呼んでいた。
紹は表情を変えずに紫釉を見つめていた。
「…………貴方も徐欣の子だからです」
「父と同じように女で国を滅ぼすと考えたか」
紫釉は薄ら嗤う。
そして、帯刀していた刀を取り出し紹の首に向けて振り上げた。
紹は避けきれず胸から首にかけて傷が走る。衣服すら容易く切れ、瞬く間に鮮血が滴り落ちる。
「其方の考えは正しい」
玲秋を抱き寄せながら紫釉は血が付着した刀を振り下ろし、傷を負いよろめく紹に向けて突き付けた。
「今、この時より私は国を滅ぼしたいと願う」
そうして刃は容易く紹の首を刎ねた。
後悔は山の如くある。
守れると過信した己を責めた。
一度は警戒していたものの、それでも紹を信頼してしまった事を責めた。
紹の心を深く知ろうとしなかった過去を責めた。
もう二度と玲秋に苦しい思いをさせないと誓った己を責めた。
(守れなかった)
(守りたいのに)
(貴女がいなければ…………何の意味もないというのに)
紫釉の後悔が汪国を血に染めた頃。
時が戻された。
(次こそは)
間違えない。
そう、紫釉が胸に抱くまでに。
一体どれほどの血が流れたのか。
それは紫釉のみが知る過去の出来事である。
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