第13話 天の祭祀 三

 南部の郊外、錦州は第一皇子の巽壽そんじゅが州牧を勤めていた。

 南は汪大国内で最も豊かにして経済の中心地と言われるため、代々時期皇帝となる皇太子が州牧を勤める。

 巽壽が成人の儀の際、皇帝徐欣に与えられてから十年は経つ。


 毎年天の祭祀は錦州牧である巽壽が主導して執り行った。

 例年派手さを増す祭祀だが、その割に儀式の成果は上がらない。

 祭祀にはいくつもの儀礼があった。

 災害を取り除くための儀礼、豊作を願う儀礼、疫病を追い払う儀礼、天地創造者たる神々への儀礼、戦や疫病により亡くなった者への鎮魂儀礼、祖先への感謝を示す儀礼と多岐に渡った。

 全てを執り行うに数日を要する。

 まず、祈りを行う方角や時刻、祈願する神も異なる。

 祝詞の数も数多にあるため司祭を担う皇帝の手元には書き写した紙がある。

 今より早朝から晩にかけて何度となく祈りを捧げる。


 まず始めは天地創造たる神々への儀礼が行われた。

 これは三刻ほど要する儀礼で、作法に倣い壇上前で祝詞を告げては跪拝の礼を送る習わしである。

 汪国が神として崇める対象は様々であるが、大体にして東王公と西王母の名を呼ぶことが多い。それは、現世で命果てた者も皆全て仙人となり、東王公と西王母に属し仕えると考えられていたからだ。

 祈りを捧げる間、参列する妃嬪や兵もみな跪拝して待つ。

 起立の声があがれば立ち上がり揃って拱手きょうしゅする。

 大勢が儀礼に参列する中で、遠く末席から子供の泣き声が微かに聞こえてくる。

 珠玉公主に加え、皇帝の血族である子供達だ。

 子供には長く退屈な儀式であるため、儀礼の妨げにならないよう端で参加をしているのだ。

 いくら子守の役目を受けているとはいえ、二十七世婦の玲秋が抜け出すことも出来ない。

 

 玲秋は祈る。

 どうか東王公、西王母の慈悲を賜れるのであれば。

 あの、小さな子供達の未来が消えるような未来を取り除けるように。


(そのためならば、どんな尽力も果たします)


 玲秋は無力だ。いくら未来に何が起きるか分かっていようとも動けるような立場にない。

 末端の無力な妃に何が出来るというのか分からない。

 それでも戻ってきた身。帰ってきた過去。


(どうかお救いくださいませ……)


 玲秋は儀礼の間、ひたすらに祈り続けた。

 



 天の祭祀から三日が経った。

 今は皇帝と宰相、諸侯らだけが参列する儀礼だったため、玲秋は珠玉の遊び相手になっていた。

 慣れない場所、慣れない儀式に慣れない気候もあって珠玉の体調は良くなかった。

 なるべく部屋から出ず甘味を食べゆっくりと過ごした。

 役目を終えた玲秋が自身の天幕に戻るところで足を止めた。

 人の気配があったからだ。

 気配の先に歩く人は、数人の官女と宦官、そして衛兵を従え優雅に歩いていた。

 歩くだけで花の香がふわりと漂った。

 玲秋は頭を下げる。


 彼女こそ皇帝徐欣が最も寵愛する妃、趙昭儀だった。


 彼女の隣には数人の妃も並んで歩いていた。

 クスクスと小鳥のように笑いながらこちらを見る。


「あら。貴女は……?」

「趙昭儀はご存知ないでしょう。紀泊軒の持ち主ですよ?」

「あの隅にある襤褸ぼろな屋敷に人が住んでいたの……名乗りなさい」


 玲秋はゆっくりと頭を上げ、趙昭儀を見つめた。


「徐倢伃にございます。趙昭儀、張充容、斎美人に拝謁申し上げます」

「…………」


 嘲笑っていた女二人の笑い声が止まった。

 滅多に顔を合わせず珠玉公主の子守しかしていない玲秋の丁寧な作法と冷静さに押し負けたのだ。

 所詮田舎出の小娘と嗤いの対象にしかしていなかった女が、悔しい顔を見せることなく言葉をかわしたことが気に入らなかった。

 一人がフン、と鼻を鳴らしたかと思えば玲秋に近づき睨みつける。


「頭を下げなさい。趙昭儀は皇帝陛下の寵愛を最も受ける尊きお方です。貴女のような方が並んで立つなど失礼に値する。お分かり?」


 張充容の思惑に気が付いた斎もまた、玲秋の前に出て言葉を続けた。


「県丞の娘風情が超昭儀の前に立てると思っているの?」

「…………」


 ここまで言われれば玲秋にも分かる。

 彼女達は、玲秋に跪拝をさせたいのだ。

 確かに妃としての立場も出自も趙昭儀が上であることは事実。けれど跪拝を求めるほどには立場の差は大きくない。

 彼女達の言う通りに行動すれば、遠目から見ている者にも玲秋が彼女達に対して格下であり、服従する者だと認識するだろう。

 けれど歯向かったところで返ってくるのは針の筵。

 悪質な嫌がらせが増えることも間違いない。


(そうね……この時期だったわ)


 天の祭祀を終えてから一層、趙昭儀の後宮での振る舞いが大きく出始めていたのは以前も同じだった。

 そして今もまた同じことを繰り返している。

 不思議なことに、今のような出来事は過去では行われていなかった。多少ずつではあるものの、過去とは違う道を進んでいるのかもしれない。


(とりあえず今の状況から逃げ出さなければならない)


 玲秋は周囲を見渡した後、趙昭儀ら三人を見据えてから穏やかに微笑み、小さく膝を折った。

 

「皇帝からの寵愛を得られる皆様がたに敬意申し上げます。皆様ならいずれ陛下の御子を授かり、汪国に大きな礎を築き上げて下さることを信じております」


 玲秋は三名全てにおいて敬意を示した。

 寵愛を受けている趙昭儀だけではなく、他の二人に対しても同様に膝を折り頭を下げたのだ。

 決して、趙昭儀に属したわけではない。その意思を更に伝えるためにもう一度口を開く。


「わたくしが陛下との夜伽に選ばれないことは事実にございます。趙昭儀、張充容、斎美人……皆様は陛下より寵愛を頂ける素晴らしい方々。他の妃嬪がたに比べれば私など些末なもの。どうか、皆様に御子が授かりますよう神に祈願致します。どうぞ健やかにお過ごしくださいませ」


 敬意を表すのであれば、それは皇帝に。

 服従するのであれば、妃である全ての女に。

 それが玲秋の答えだ。


「…………分かればいい、わ」

「ええ……このような方と話していては縁起も良くありません。参りましょう、趙昭儀」


 何処か気まずさを含む声色で張充容、斎美人は趙昭儀に声を掛ける。

 玲秋の言葉は玲秋以外全ての妃が対等に尊敬すべき相手であると言っている。それが、皇帝の御子を授かる可能性を秘めているからだと。

 たとえ今趙昭儀に媚びる二人の妃とて、御子を授かれば立場が逆転するかもしれない。

 そう示唆するような言葉から二人は離れたかったのだ。

 まるで身の内を明かされるような気分だったのだろう。

 促され移動する際、趙昭儀が玲秋を一瞥した。

 灼熱の炎によって燃え果てるような紅蓮色の瞳と血のように鮮やかな紅色の唇。

 その唇がゆっくりと上がり微笑んだ。


「それでは失礼致しますわね、倢伃」


 声色まで人を惑わせるほど甘い。

 玲秋は変わらず頭を下げたまま、三人が通り過ぎるのを待っていた。

 ようやく姿が見えなくなったかなと顔を上げたところでふと、何処からか視線を感じる。


「…………?」


 けれど人のいる気配はない。

 先ほどの険悪な雰囲気が功を成したのか、近くにいた人は蜘蛛の子を散らすように去って行った。

 だから今、この場にいるのは玲秋だけのはずなのに。


「面白い方ね、徐倢伃って」


 女性の透き通る声が聞こえてきた。

 先ほどの趙昭儀の声が蠱惑する甘美な声色であるとすれば、今の声は涼やかな風鈴のような声色。


 玲秋は驚いた。

 現れた女性はしょう賢妃。

 亡くなられた珠玉公主の母君の跡に賢妃となった女性であり。

 大将軍、紹将軍の実の姉でもあり。


 そして、この先命を落とすこととなる。

 悲劇の妃でもあった。

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