第10話 祥媛 二
紫釉への文を書き終えて、すぐに祥媛に渡した。
従来後宮で文を送る場合には必ず送り先や内容を確認されるのだが、紫釉が記した内容から察するに官吏の隙をついて文を渡せるようだ。
念のため「どのようなことを書けばよいか」と祥媛に尋ねたところ、「どのようなことでも構いませんよ」と言われたので、つまりはそういうことなのだろう。
先日の非礼を詫び、そして祥媛という素晴らしい官女を手配してくれたことへの感謝を書いた。
それから珠玉のことも書いた。
以前もこうして珠玉の様子を記していた。官吏に見られる手前、玲秋の私情な思いを伝えるようなことはせず、ひたすらに珠玉のことを書いていたが、どうやら今回も変わらないみたいだ。
書き終えた後、玲秋は珠玉の居る明翠軒への謁見を頼むよう祥媛へ伝えれば、どうやら紫釉への文を書いている間に手配済みだったようで、すぐに支度をさせられた。
明翠軒は後宮の東側に建てられている。かつては珠玉の母、周賢妃が主の屋敷だった。
主がいない今、主人は珠玉となっているもののまだ幼いため皇后が後見人となってくれている。
けれど皇后も病に伏せっているため明翠軒に訪れることはない。訪ねてくるのは皇后の配下である官吏や女官だけだった。
幼子の甘える先は必然的に玲秋になった。
玲秋は珠玉が生まれた時から傍にいた。
産後、体調を崩した周賢妃に代わり珠玉をあやし、周賢妃の代わりに愛情を注いだ。
『玲秋。珠玉のことをよろしく頼みます』
やつれ、細くなった指先で赤子の髪を撫でながら周賢妃は玲秋に言った。
それが周賢妃の遺言だった。
涙を拭うこともせず玲秋は永遠の眠りにつく周賢妃に誓ったのだ。周賢妃の願いを必ず遂げてみせる、と。
「徐倢伃が参りました。拝謁願い申し上げます」
「少々お待ちください」
明翠軒まで祥媛と共に歩いて向かった玲秋は扉の前で待つ間、明翠軒に咲く
そんな季節になってきたのかと玲秋は空を見上げる。
肌寒くなり、着込む衣の数も増えた。
間もなく雪も降り始める時期になる。
「どうぞ」
門から一人の官女が現れ、玲秋と祥媛を案内する。
玲秋は少しだけ首を傾げた。
明翠軒に暮らす官女の姿は全て覚えた玲秋だったが、今目の前で案内する女性を見たことがなかったからだ。
すらりとした長身の女性。余計な贅肉はなく、どこか武人のような佇まいさえ感じる。
玲秋の視線に気づいたらしい、女性は優雅に微笑んできた。
その笑顔に何故か既視感があった。
「れいしょ!」
女性に向けていた視線は、幼い子供の声によりすぐに正面を向いた。
女官に抱き上げられた珠玉が玲秋に向けて手を伸ばしていた。
今日はサラサラとした髪を左右に二つ団子状にして結んでいる。随分と髪が伸びてきた。
「公主。おはようございます」
従来ならたとえ小さな子供であろうとも慣例の挨拶をするべきだが、以前そうして挨拶をしている間すら惜しくて珠玉が泣きだしてからは、玲秋と珠玉の間に挨拶はなくなった。
珠玉にとって最大の敬意は玲秋に抱き締められることなのだ。
「公主は本日朝食を全てお召し上がりになりましたよ」
「本当ですか」
「ええ。
「近頃果物ばかりお召し上がりになると聞いていたものですから」
抱き上げた幼子の顔を覗き込んでみたら、まだほんの少しだけ口端に食べ残しがくっついていた。指でそっと汚れを拭う。
「さあ。今日は何を致しましょうか。お歌にしましょうか」
顔を覗いて聞いてみれば満面の笑みを浮かべ笑い出した。
「れいしょあしょぼ」
「ええ、遊びましょうね」
まだ言葉も単語を並べるだけの小さな公主を抱き上げながら玲秋は明翠軒の中庭へ向かったのだった。
暫くの間一緒に遊び、昼食の時間となるといつも一緒に食事を摂る。
食事を済ませると午睡を取る。
玲秋は眠くなって頭をコクリコクリと揺らしだす玲秋を抱いて彼女の寝台へ連れていく。
寝台に横になる公主を優しく撫でている間に幼子は眠りにつく。
ここまでが玲秋の日課だった。
午睡を終えた後の珠玉は教育係に言葉や歌を習う。勿論まだ二歳のため勉学というよりはお遊戯に近い。それでも今の間から教育は始まるのだ。
玲秋は眠る珠玉を優しく見つめてから音を立てず寝台から離れた。
待っていたらしい女官に礼をし、建物の入口へ向かった。
外では祥媛が待っていたが、一人ではなかった。
先ほど案内してくれた背丈の高い女性と一緒だった。
「小主」
祥媛が玲秋に気付きこちらに向かってきた。隣を女性も歩く。
正面に立ち止まると祥媛が女性に視線を向けた。
「ご紹介いたします。私の娘、余夏でございます」
「翁 余夏と申します。徐倢伃にご拝謁申し上げます」
「娘……」
そうか。
彼女の笑顔に既視感があったのは、祥媛の笑顔に似ていたからか。
「娘は女の身ではございますが武術剣術に長けておりますため、
祥媛の話から分かったのは。
余夏もまた、紫釉による手配であるということだった。
(約束を違えないというのは……本当なのですね)
紫釉の文に書かれた言葉を思い出す。
今の彼ならば、信じてもいいのだろうか。
そんな期待を、どこか縋るように想いながら玲秋は祥媛と余夏を見つめた。
日は南に昇り、あとは沈むだけ。
けれどどうかこの想いは沈むことなく、永遠に昇り続けていたら。
そんなことを願わずにはいられなかった。
幾日が過ぎた後、紫釉からまた竹簡が届いた。
すっかり暮らしに慣れた様子の祥媛が何処からともなく竹簡を渡してくる。
玲秋には一体どうやって受け取りをしているのか分からない。
少しばかり逸る気持ちを抑えながら文を読んだ。
目線が、とある一文に留まった。
『天の祭祀には理由をつけて参加しないでほしい』と。
天の祭祀。
皇帝が年に二度、冬と夏の季節に祀る神や祖先の儀式。
郊外で行われ、特に冬の儀式は新たな年を迎える汪国では絶対の祭典である。
何よりこの天の祭祀で。
かつて玲秋は紫釉の身代わりとなって首に傷を負った。
その祭祀に参加をしないでほしいと願う紫釉の気持ちが、玲秋には疑問となって残り続けたのだった。
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