第9話 祥媛 一

 祥月命日より十数日が経った頃。

 季節は肌寒く冬の訪れを感じる季節となっていた。


 いつもなら起こしに来る芙蓉が目覚めの時刻となっても訪れなかったことに玲秋は首を傾げる。

 玲秋自身はいつも起こされるより前に起床しているため困ることはないが、それにしても遅い。

 寝台から起き上がり寝巻き姿のまま部屋を出る。


「芙蓉?」


 呼びかけてみるが返事はない。

 だが、建物の入口付近で話し声が聞こえてくる。

 目覚めの刻から来客とは珍しい。

 訪れた者が珠玉の官女かもしれないと思い、玲秋は上から羽織を着て入口に向かった。


「芙蓉。どうしました?」

「小主」


 入口前に立っていた芙蓉が驚いた様子で振り返る。

 その表情は何処か嬉しそうな、それでいて申し訳なさそうな感情が浮かんでいた。

 訪問者を見て驚いた。

 扉の前には滅多に訪れることがない宦官がいたからだ。

 彼の隣には歳をとった女性が毅然と立っていた。 

 玲秋に気がつくと彼女は微笑んだ。笑い皺がありながら、どこか若さを感じさせる笑顔だった。


「このような早朝に申し訳ありません。何分、多忙なものですから」


 僅かに声が高い宦官が慌ただしい様子で玲秋に対し頭を下げる。玲秋が断るより早く顔を上げ、話を続けた。

 従来であれば失礼な作法であるが玲秋は気にしなかった。


「本日より徐倢伃の官女、芙蓉は趙昭儀に仕える運びとなりました。代わりの官女として祥媛しょうえんをご紹介いたします。祥媛、挨拶を」


 祥媛と呼ばれた女性は宦官の態度が気に入らないのか一瞬だけ男を侮蔑したかと思いきや、玲秋に向けて先ほどの笑みを浮かべ、手を前に揃え膝を折り頭を下げた。

 臣下として最上級の挨拶作法だった。

 明らかに宦官へ見せつけている。


「徐倢伃に拝謁賜ります。姓はおう、字は祥媛と申します。今より徐倢伃にお仕えし、誠心誠意をもって忠臣となることをお約束申し上げます」

「許します」


 玲秋は膝を折って礼をする祥媛の肩に手を取り彼女を立ち上がらせた。背の丈は玲秋より僅かに低いだけで目を合わせやすかった。


「皇帝のご高配に御礼申し上げます。芙蓉」

「は、はい!」

「今まで本当にありがとう。趙昭儀の元でも器量良い貴女ならば活躍が出来ることでしょう」

「あ……ありがとうございます!」


 芙蓉は慌てふためいた様子で頭を下げた後、宦官と共に屋敷を去って行った。

 まだ若い芙蓉には質素で皇帝からの寵愛も受けない玲秋の元は内心不満も多かっただろう。次の主が寵愛された妃であるならば官女として勤める彼女の待遇も良くなる。

 ただ、待遇が良くなる分諍いも増えるのだが、そこまで玲秋が気に掛けるところではない。

 芙蓉には芙蓉の戦いがあるように、玲秋もまた勝利しなければならない戦いがあるのだ。

 

(以前はもう少し後に芙蓉が離れたのだけれども……それに)


 玲秋はそっと祥媛を見た。

 以前は芙蓉が離れた後、新しい官女など付かなかった。

 だから、祥媛という人物を玲秋は知らない。

 祥媛は穏やかに微笑みながら「お食事とお着替えを致しましょう」と玲秋を建物の中に誘導した。

 導かれるまま部屋に戻ると、まず着替えが始まる。

 初めて紀泊軒に訪れたというのに、祥媛の手際は鮮やかだった。住み慣れた芙蓉以上に支度着を準備し、つかえることなく着替えを済ます。

 支度が終わる頃、丁度よく朝食が運ばれる。

 これもまた手際良く祥媛は卓に乗せ、玲秋に声を掛ける。


「……祥媛は以前どなたかにお仕えしていたのかしら?」

 

 あまりにも出来すぎる。

 茶を淹れ運んできた祥媛に尋ねてみればすんなりと返事があった。


「左様にございます」

「どなたであったのか聞いてもいい?」

「安州州牧にございますよ。州牧がお生まれになった頃は乳母としてもお世話をしておりましたが、以降は官女として側仕えしておりました」

「安州……州牧……」


 茶を飲む手が止まった。

 今の安州を取り纏める州牧といって思い出すのは、紫の瞳。

 紫釉第三皇子であった。


 玲秋は顔を上げる。

 相変わらず祥媛は微笑んでいたが。


「州牧のご命令により参りました。老体ではございますが、武力も知力も、若い男衆には負けておりませんよ」


 


 食事を終えた後、祥媛から竹簡を渡された。

 宦官に気付かれぬよう持ち運んできたらしい。

 紐を解いて読んでみれば送り主の名は記されていないものの、紫釉が書いたものであることがわかった。

 

『約束は違えない。如何なる時も相談に乗る故に貴女からの文を待つ。文を書いたならば祥媛へ。誰と知られることはなく私の元に届くだろう。嫌疑をかけられぬよう、私からの竹簡は祥媛に燃やすよう伝えている。また文を送る』


 淡々とした文面は、以前と何も変わらなかった。

 竹簡の文字を指でなぞり、玲秋は懐かしむ。

 

 過去に戻る前の頃、時折送られてくる紫釉の手紙がささやかな楽しみだったあの頃。


 それはどうやら今回も同じらしい。

 玲秋はほんのりと微笑みながら卓の上に墨と竹簡を用意し、筆を走らせる。

 まずは謝礼と挨拶から。

 

 食事を終えた後の静かな朝の時間。

 墨の香りに包まれた、玲秋にとって幸福なひとときだった。

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