第7話

「ああ、そうなんだ……」


 声を震わせるナラン。勲章を握る手もわなわなと震える。彼は花の紋章を見つめると、それを、静かに地面に落とした。


 黄金の花を捨てた瞬間だった。


 ナツァグの頬が上気する。ソリルを走らせる。ナランに手を伸ばす。


「来い!!」


 ナランは、強く強くその手を握り返した。ナツァグが馬上に引き上げる。休む間もなく、第二妃から追っ手がかかった。スピードを上げる。風を切って逃走する。


 ナツァグは、後方に向かって弓矢を構えた。狙うは家畜たちの檻の南京錠。ひいては家畜たちの奪還。目一杯弦を引き絞る。


「待って」


 ぽつんと雫が滴ったような、澄んだ声が聞こえた。ナランだった。


「その弓矢、帝国軍の短弓でしょ?だったらいつもの長弓と違って、放った矢は直進するよ」


 短く息を呑むナツァグ。完全に失念していた。慌てて構えを解き、改めて狙いを定める。


 ナランには、いつも助けられてばかりだな。頼りないのは俺だって同じだ。正反対のお前がいないと、背中合わせで戦ってくれないと、きっとここまで旅してこれなかった。


 矢を放つ。弦がしなる。矢が空間を裂く。


「ありがとな!」


 今まで俺の背中を守ってくれて。これからも守ると決めてくれて。兄弟につらつらと思いを伝えるのは照れくさいから、その一言に、全部込めさせてくれよ。


 キンッと甲高い音がして、南京鍵は射抜かれた。檻から家畜たちが溢れてくる。


 ナランが指笛を吹いた。従順な家畜たちは、帝国の行列を割って後を追ってくる。白いもこもこの羊の川だ。


 その川は、追っ手たちを呑み込んだ。囲い込み、押し流し、見事なまでに彼らの行く手を阻んでゆく。


 可愛い顔してよくやるよ。


 ナツァグがふっと笑みをこぼす。白い歯を見せて肩を揺らす。そうすると、もう笑いは止まらなくなった。さらにはナランにまで伝染してしまう。



 雲一つない空に、乾いた笑い声が突き抜ける。少年たちの無垢な声は、それから長い間、澄んだ冬の草原にたゆたっていた。



 ◆



「ただいま!」


 見慣れたテント群を見つけ、ぶんぶんと手を振るナツァグ。二人は、第二妃の追っ手に警戒しつつも、無事に氏族のもとへとたどり着いた。


「おかえりナツァグ! あれ、ナランはどこ?」

「いたいた、あそこにいるぞ! あいつも立派になったなぁ」


 次々に現れては、口々に騒ぎ出す氏族民たち。そんな人影のうち、数人が背を向けて消えていった。氏族長を呼びにいったのだろう。ナツァグもナランを急き立てて、家畜たちとともに駆け出す。


 お互い手が触れるところまで歩み寄ると、氏族民は、再会の抱擁で迎えてくれた。労いに感謝に称賛と、数えきれないほどの温かい言葉をもらう。身体も心も、ぽかぽかと満たされていくのが分った。それは、第二妃との再会では、決して味わえなかったものだった。



「……帰って、きたのか」


 二人の耳に、骨の髄まで染みついた声が届いた。振り返る。笑みが溢れる。人垣の奥には、氏族長が立っていた。


「義父さん!」


 二人は、脊髄に命じられるように飛び出した。身が軽くなって、疲れが吹き飛んでいくような気さえする。


 しかし氏族長の顔に浮かんでいたのは、喜びでも慈愛でもなかった。それは、強いて言うなら、信じられないと言わんばかりの驚きだった。


「どうしたの……?」


 ナランが、不思議そうに顔をのぞき込む。氏族長は、なんでもないよ、と言うように、にこっと笑って首を横に振った。


 けれどもその平然さは、装っただけの硝子のメッキ。次の瞬間には亀裂が入る。声を詰まらせる。唇を震わせ、今にも泣き出しそうな顔になる。


 そうして氏族長は、誰よりも温かく、強く、二人を抱きしめた。



「……もう、一生会えないと思っていた。第二妃に抗ってまで、よくぞ戻ってきてくれた」


 その瞬間、ナツァグとナランは、氏族長は自分たちのすべてを知っているのだと悟った。自分たちがが皇族であることも、第二妃に誘い出され、二者択一の選択に揺らいだのも、すべて。


「ずっと隠していてすまなかった。実は私も、お前たちが生みの親と会えるようアシストしていたんだ。家畜を盗まれたとき、これは第二妃の仕業なのだと察した。家畜奪還を名目にお前たちを派遣せよ、という私への密命なのだと。それ以来、お前たちと別れる覚悟は決めていたよ。だから今目の前にいてくれることが、信じられなくて、嬉しくて――」


 氏族長が、粉雪をつまむかのように二人の手を取る。それは、二人の存在を確かめるようでも、そのまま手を握ってもいいか迷うようでもあった。


 自信なさげな表情のまま、氏族長が二人の顔をのぞき込む。


「氏族に戻るという決断に至るまで、いろんな葛藤があったのだろう。本当に、遊牧民を選んだことに後悔はないか?」


 ナツァグは即座にうなずいた。だが視線は、自然とナランの方に滑っていく。ナツァグには、決別したくないというエゴのために、ナランを引き止めてしまった負い目があった。


 それにつられるように、氏族長もナランに目を向ける。一気に注目を浴びたナランは、しかし、もうまごつくことはなかった。堂々と自分の気持ちを表現する。


「正直なところ、後悔してない、とはちょっと言えない。第二妃には失望したけど、だからといって、遊牧民の暮らしが好きになったわけじゃない」


 でもね、とナランは続ける。


「兄さんと旅をする中で、一つ大事なことに気付けたんだ。正反対な僕ら兄弟は、お互いを補完する存在でもあったってこと。僕には、兄さんを支える力がある。それは僕にしかないものだ。僕だけの存在価値だ。兄さんはそれを認めてくれた。皇子なら誰でも構わないと言った第二妃とは違う。だから、そういう部分は、その――」


 感謝してる、の一言が言えないシャイボーイ。そこまで知っていながら、ナツァグは肘でナランをつつく。この冷やかしもまた、照れ隠しなのであった。



 そんな様子を眺めながら、笑みをこぼす氏族長。彼は二人から手を離すと、立ち上がり、今度はナランの頭をくしゃっとなでた。


「お前の気持ちはよーく分かった。好きなだけ迷うといい。ただし、お前の人生の決断に『氏族のため』なんて理由をつけるんじゃないぞ。それを考えるのは私の仕事だ。もし気が変わったときは、そうだな、白馬にでもまたがって、妃の前まで送り届けてやろうか」


 喉の奥で静かに笑って、ナランの頭から手を離す氏族長。そのまま振り返ることなく、湯呑みを洗いに外に出る。うららかな日差し包まれる背中は、いつも広い。



 俺は、あんな大人になれるんだろうか。



 ナツァグが自問する。今度ナランが黄金の花を選んだとき、俺は氏族長みたいに受け入れられるだろうか。笑っていられるだろうか。いや、きっとそうしなきゃいけないんだ。二度目の覚悟を決めたナランには、たぶん、もう迷いはない。


 だからこそ、今はただ――


「ナラン、荷物の片付けと挨拶回り、どっちやる?」

「片付け」

「オッケー。じゃあ、湯呑み洗うのも頼んだ」


 ナランに背に回して、背中合わせになって、光の中へ飛び出していくナツァグ。


 これからは、ナランのコンプレックスを、俺への怨恨をちゃんと受け止めよう。いつ終幕を迎えるか分からない日々を、丁寧に愛しんで暮らしていこう。


 太陽の温もりを肌で感じながら、ナツァグは、そう誓いを立てた。

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