第6話


 ナツァグは真っ先に、その音声を聞き間違いだと思った。


 あいつは、人より観察眼も鋭い。俺が感じた皇族の恐ろしさぐらい、とっくに気付いているはずだ。黄金の花を選ぶ理由なんて、どこにも――


「兄さんには分からないよ。遊牧民として活躍できる人間には、そうじゃない僕の気持ちなんて分からない」 


 絞り出すような声だった。聞き間違いなんかじゃなかった。耐えに耐えてきた感情が決壊してきたような、胸を突く声だった。


「僕にとってはね、遊牧民の暮らしは苦痛なんだよ。毎日嫌いなことばかりやらされて、みんなに迷惑をかけることしかできない。けど、どうあがいても、まるで底辺から抜け出せないんだ。隣にはこんな兄さんがいるから、なおさら比べられて、頼りなく思われて……!」


 その瞬間、ナランの瞳が怒りに染まった。野生の獣のようだった。


 すると、彼は突然ナツァグに殴りかかった。武器を手に取るでもなく、むやみやたらに振りかぶる。拳とともに激情をぶつける。意味のない八つ当たりだった。


 ただ、ナツァグにとっては大きな意味があった。普段理性的なナランが、これほどまでに冷静さを失った姿など見たことがない。いかに負の感情をため込んでいたのかを、見せつけられているようだった。


 だから俺は、あえて攻撃を避けなかった。軽くあしらおうという気にはなれなかった。小さな拳を全身で受け止める。痛かった。細っこいナランの攻撃など屁でもないはずなのに、確かに、痛かった。


「これは、ようやく巡ってきたチャンスなんだ。皇族として政務を執れば、机に向かう機会が増えれば、僕にだって活躍できる場がきっとある。やっと僕らしく生きられるんだよ!」


 むちゃくちゃに腕を振り回しながら、ナランは喚き続けた。いつになく強い意志だった。


 こいつは、新たな人生に、黄金の花に光を見たんだ。


 不意に、ナツァグはナランを抱きしめた。拳もろとも、熱く両腕で包み込む。ナランは、突然のことに身体をこわばらせるしかなかった。


「分かったよ。どうせお前のことだ、全部分かってるんだろ。黄金の花を選べば、いつまた権力闘争に巻き込まれてもおかしくないことも、それでも一人で生き抜いていくしかないことも――俺は、お前を尊重するよ」


 ナランは、はっとナツァグを見上げた。振り上げた腕を静かに下ろす。そうしてあいつは、一丁前に覚悟を決めた顔をしやがって、俺からそっと身を離した。


 第二妃を見据えるナツァグ。


「話がついた。ナランは帝国側に託す。ただし、俺はあんたにはついていけない。ソリルも他の家畜たちも、ここできっちり返してもらうぞ」


 彼の強気な態度に、兵士の目つきがにわかに鋭くなった。静まり返った空間に、乾いた北風が吹く。文字通り、冷たい沈黙だった。



 凍てつく場の中で、最終決定権はおのずと第二妃に移行した。事の行く末は、すべて彼女に左右されるのだ。視線を一身に浴びた彼女は、少し考えた後、呑気にも笑う。


「いいでしょう。手元に来るのがナランだけであろうと、こちらとしては問題ありませんから」


 ナツァグは拍子抜けした。まさか、こんなにもあっさりと話が済むとは。第二妃も母親ならば、息子は二人とも連れ帰りたいと言って聞かないだろうと思っていた。


 どうしてだろう。


 不気味な疑念が膨れ上がってくる。どうして、息子一人だけで満足したんだ。その薄情さはどこからくるんだ。第二妃は、家畜で俺らを誘き寄せるだけでなく、さらなる思惑を腹に隠しているのか……?



「ではナツァグに関しては、今後も私の部下が監視を続けるということで。家畜はあの馬車に積んであります。去るのなら、早く持っていきなさい」


 監視……放浪する俺ら遊牧民の所在を知り、的確に家畜を盗めたのはそのためか。


 顔をしかめるナツァグ。第二妃が指差した先には、檻にいっぱい詰め込まれた家畜たちがいた。さらに顔をしかめる。彼は、すぐさまソリルを連れて檻に向かった。



「さあおいで、ナラン皇子。あら、手に握っているのは勲章ですか?よくお気付きになりましたね」


 そう言われ、改めて手に持つ勲章を見つめるナラン。純金製の勲章はやたらギラついていて、彼は思わず目を細めた。手招きをする第二妃の姿が目に映る。ナランは催促されるまま、どんどん行列の奥へと消えていく。




 ナツァグもまた、檻へと向かう足をさらに速めた。ソリルに鞍をつけてまたがる。そうして、完全に背を向け合う兄弟。正反対の二人の距離は、一歩、また一歩と遠ざかっていく。



























「ナラン!!」


 突然、ナツァグが叫び出した。背後を振り返る。訴えるようにナランを見つめる。


 耐えきれなかった。やっぱり、ナランと生き別れになんかなりたくない。一人で後宮になんか行かせたくない。なぜだか分からないけれど、隣にあいつがいない未来だけは、どうしても拒絶してしまうんだ。


 ナランは、そんな兄の本心に気付いてしまった。呼び止められたまま動けなくなる。覚悟が揺らぐ。決断がまた振り出しに戻る。


 彼は、頭を振って思考を切り替えた。


 今ここで、もう一度覚悟を決めなくてはいけない。故郷を捨て、氏族と絶交する覚悟を。その一方で、黄金の花には、無視できない疑念が生まれていた。



「おかあさん……」


 第二妃を見上げるナラン。その疑念は、第二妃にしか晴らせないものだった。


「今回のことを企てたのは、純粋に僕らに会いたかったからなんだよね? 第一妃と同じように、僕らのどちらかを飾りの皇太子にして、自分が権力を握りたいなんて理由じゃ、ないよね?」


 もしそれが本当なら、黄金の花を選んだところで、僕は傀儡になることしかできない。それでは政務を執れない。自分らしく活躍できない。新天地への一縷の希望さえ叶わない。


 第二妃が隠している真の目的。それに対する疑念は、すなわち、黄金の花を選ぶことへの疑念だった。



 ナランとともに、ナツァグも息を呑んで答えを待つ。第二妃は、目を泳がせた。直後、慌てたように視線を逸す。目は口ほどに物を言う。


 それが、すべての答えだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る