第5話

 ナランは息を呑んだ。

 

 今、兄さんはなんと言った。母さん?家畜泥棒の正体が母親だと?いったいどういうことだ。つぶやいた本人も驚いているみたいだけど、まさか、そんなこと――


「信じられねぇよな。俺も、よく顔を見なきゃ思い出せなかった。ナランに至っては、幼すぎて記憶がないかもしれない。でも間違いないんだ。なんでこんな所にいるのかは、さっぱりだけど」


 ナツァグにも、まだ分からないことが多々あるようだった。ナランとともに、そこで口をつぐんでしまう。対して、ただ一人、貴婦人だけは微笑んでいた。


「覚えていただいているようで嬉しいですわ、ナツァグ。けれども二人には、はじめからこちらの事情を話す必要がありそうですね」


 兵士に目配せをする貴婦人。すると、二人と一頭を囲む鉄壁は、いとも簡単に消え失せた。兄弟の前まで歩み寄る貴婦人。


「私の話を、聞いていただけますか?」


 それは、帝国の歴史物語だった。




 アルタンツェツェグ帝国現皇帝、ヴラディスラフ一世。彼には当時、二人の妃と三人の皇子がいた。慣習により、先に第一皇子を産んだ者が第一妃、後に第二、第三皇子を産んだ者が第二妃と呼ばれている。


 第一皇子は、産まれてまもなく、嫡男として順当に皇太子となった。おのずと第一妃も、皇太子の生母として権力を持つようになった。


 しかし、その立場も安泰ではなかった。皇太子はひどく病弱だったために、跡取りとしては心許ないという意見が強まってきたのだ。中には、いっそ他の皇子に位を譲ってはどうかと進言する者も出てきた。


 それを受けて、第一妃は、ただただ自分の権力の失墜を恐れた。皇太子の生母でなくなれば、今の権力はおろか、将来息子が皇帝になったときに得られるはずだった権力まで失うことになる。


 彼女は息子の地位を守ろうとした。血眼になって守ろうとした。そのために、残る皇子の後宮追放をもくろんだ。


 その日から、第二、第三皇子への攻撃は始まった。目に見えてエスカレートする、物理攻撃を含めた嫌がらせの数々。このままでは、皇子たちの命すら危ない。第二妃は覚悟を決めた。


 皇子たちを逃そう。遠く遠く、第一妃の手が届かない国境の外まで。結果彼女の思うつぼだったとしても、もはや知ったことではない。我が子が幸せに生きていられるのなら、それ以外は、何も――


 それからほどなくした、さる雪の日のこと。第二、第三皇子は、とある遊牧民の氏族に引き渡された。表向きには、旅行先で突然行方をくらませたと偽って。以来、消えた二人の皇子は、生死不明という扱いになっている。




「ここまで話せば分かりますね、ナツァグ第二皇子、ナラン第三皇子。あなたたちは、アルタンツェツェグの正当なる皇位継承者なのです」


 俺たちの手を取って、熱く語りかける貴婦人。いや、正確には第二妃か。この女性が母親で皇妃だというのは、頭では理解したけれど、やっぱりまだ実感は湧かない。


 第二妃は続ける。


「そして先日、また一つ歴史が動きました。ついに皇太子が死んだのです。第一妃など、もう恐るるに足りない。やっと、やっと、あなたたちと後宮で暮らせる日がきました」


 彼女は、微笑みを崩さずに朗々と語った。ナツァグは目を張った。


 おかしい。どこか感覚が狂っている。人ならば普通、訃報を伝えるとき、こんなに嬉しそうな顔はできないはずだ。


「さあ、私と一緒に帰りましょう」


 第二妃は、二人にそれぞれ手を差しのべた。



 遊牧民と黄金の花。俺ら兄弟は、どちらか一方の身分でしか生きられない。しかもそれを、今この場で選ばなくてはいけない。一方を選べば、もう一方は捨てるしかない。一度選べば、もう取り返しはつかない。


 さらに第二妃は熱弁する。


「帝国では幾千幾万の民が、皇子の帰還を待ち望んでいます。高貴な血は、高貴な場所で、正統に受け継いでいかねばなりません。国のために、民のために、永遠に続く未来のために、私たちはあなたたちが必要なのです」


 畳みかける彼女に対し、ナツァグは、ただひたすらに思った。


 息が詰まる、と。


 第二妃は、俺にずっしりと重荷を乗せてくる。皇族という地位や血統からくる重荷だ。普段は荷物を背負うぐらい苦じゃないはずなのに、これでは身体が壊れてしまいそうだ。黄金の花には、悪寒さえする。


 とはいえ、皇族は血の繋がった本物の家族だ。密かにずっと会いたいと願っていた。だから今、それが叶って嬉しい。とても有意義な時間だったよ。


 俺が一緒に生きたいのは、氏族の方なんだって、ちゃんと判ったから。


 短く息を吸うナツァグ。口を開く。


「一緒に行くよ、お母さん。いずれ帝国を支えられるよう、精一杯頑張るね」


 ナツァグの言葉を遮って、彼とは正反対の台詞が聞こえた。


 声の主は、ナランであった。

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