第4話
身体がこわばる。血の気が引いていく。どうして、どうしてそんなことになったんだ。
ナツァグがその話を聞かされたのは、ナランと合流してすぐのこと。彼は動転した様子で経緯を語りはじめた。
それは、今しがたの出来事だった。度重なるトラブルに見舞われ、ナランはすぐにその対処にあたった。
途端に目が回る忙しさになった。彼は焦った。かかりきりになった。そうして、ソリルから目を離してしまった。
彼にその後の記憶はない。例の高い集中力によって、対処に没頭していたからだ。気付いた時には、もう、ソリルはどこにもいなかった。
どうしよう、どうしよう、どうしよう。
大量の家畜を盗まれたうえに、貴重な駿馬を、家族(ゲル・ブル)の一員を手放してしまった。大失態だ。弁解のしようもない。
早くソリルを見つけなくては。今頃、道に迷っているのかもしれない。怪我をしているかもしれない。無事だろうか。心配でたまらない。
ごめん、氏族のみんな。俺らが必ず連れて帰るから、もう少しだけ待っていて。
止めどなく感情が溢れ出し、唇を固く結ぶナツァグ。対してナランは、終始落ち着き払っていた。感情を持っていないかのようにさえ見えた。
「客観的に考えて、疲れ切ったソリルが、自ら逃げていったとは思えない。今回も盗まれたというのが、一番可能性が高いんじゃないかな。けどここまで被害が相次いだとなると……もしかして、同一犯の犯行? 僕らを狙ってきているのか?」
ナランの台詞が、だんだん独り言に変わっていく。最後には黙り込んでしまう彼。周りが見えなくなっているのが分かった。
ほら、またこれだ。他者のことなどとうに忘れ、推理に夢中になっている。
ナツァグは、ギリリと犬歯を剥き出した。
「お前、よく平気な顔をしていられるな」
突如怒気を向けられ、肩を震わせるナラン。怯えながらナツァグを見上げる。
「なんで、こんな時まで冷静でいられるんだよ。ちょっとはソリルの身が心配にならないのか。氏族に申し訳ないとは思わないのか。被害だなんて、他人事みたいに語ってんじゃねぇ」
ナランが、驚いたように反論する。
「そんなわけないでしょ。ソリルや氏族のためを思うからこそ、早く見つけようと、必死に頭を動かしてるんじゃないか。それぐらい、少し冷静になれば分かるはずだ。問題があるのは、むしろ兄さんの方なんじゃないのか?」
「はあ!? 元はといえばお前が悪いんだろ。そもそも、お前がタンクの蓋をちゃんと締めていたら、俺はここを離れずに済んだんだ。そしたら強盗でもなんでも、返り討ちにしてやったのに」
口喧嘩の末、しまいには過去を掘り返しはじめるナツァグ。ナランは、この言い合いに実りがないことを悟った。ナツァグの声を聞き流し、次第に推理の方に頭を切り替えていく。あるいは、辺りを見渡して、犯人の手がかりを探していく。
その行動には、ナツァグをそっとしておくことで、落ち着きを取り戻してほしいという願いもあった。けれども本人は、ただ無視されたとだけ感じてしまった。
さらに怒り出すナツァグ。ナランの考えとは裏腹に、彼の感情はどんどん昂っていく。荒れていく。尖っていく。
そして彼は、のちに悔やむこととなるその一言を、口走ってしまったのだ。
「こんな役立たずなんかに、仕事を任せるんじゃなかった」
ピキッと、亀裂が入る音がした。ナランの心が傷付く音が、ナツァグにまで聞こえた気がした。おそるおそる顔をのぞき込む。ナランの表情は、暗くてよく見えない。
彼は、ひたすらに沈黙を貫いていた。デキる兄に役立たずと吐き捨てられ、今、何を思っているのか。真意の程は分からない。けれど、底なしの闇に突き落とされた気分だったであろうことは、凍てつく沈黙が教えてくれた。
長い長い間をおいて、不意に、ナランが口を開く。
「近くに、この金貨が落ちてたんだ。紛れもない犯人の痕跡だよ」
ナランは虚ろな目をしていながら、その理由は一切明かさなかった。胸中とはまったく異なる推理を、淡々と述べはじめる。異様な姿だった。
「ここに描かれているのは、黄金の花(アルタンツェツェグ)の紋章だ。しかもこの金貨、よく見ると、皇族から直々に賜った勲章らしいね。断じて道端に転がっているような品じゃない。どう考えても、犯人があえて僕らに痕跡を残したとしか思えないよ」
「じ、じゃあ犯人は、自分たちがアルタンツェツェグ帝国の者だと、ヒントを与えているのか? どうして居場所を教えるような真似を?」
ナツァグは矢継ぎ早に尋ねた。必死に声を上げた。そうでもしなければ、場の空気に押し潰されてしまいそうだった。
「そこなんだ。犯人は別に、ソリルや他の家畜たちを手に入れたいわけじゃない。盗みはあくまで手段に過ぎなくて、きっと真の目的がその先にあるんだよ。個人的には、家畜を追ってきた側に狙いがあるんじゃないかと思ってる。僕らを誘き寄せるために、家畜たちを奪ったと考えれば辻褄が合うからね」
「でもそんな、俺らになんの用があって」
「それは……」
ナランがうつむいたのが分かった。その瞬間、ナツァグは、しまった、と思った。
「いいや、分かんなくても仕方ねぇよな。ナランはよくやったよ」
ナツァグは、ナランの背を叩いて鼓舞した。あからさまな称賛だった。無言でナツァグの手を払うナラン。
「ともかく、犯人の居場所が分かった。まだ今なら追いつける。犯人の思惑なんか知ったこっちゃねぇ。俺らはただ、ゲル・ブルを取り戻すだけだ」
勢いよく荷物を持ち上げ、早くも出発しようとするナツァグ。そんな彼の耳元を、季節外れの羽虫が掠めていった。
◆
二人は、アルタンツェツェグ帝国へと急いでいた。大きく手を振り、頬を赤らめ、凍った土をえぐるように前進する。国境は、もう目と鼻の先だ。
そんな時、前方に何やら豪勢な行列が見えてきた。きらびやかな馬車、金細工の装飾、鎧を着込んだ兵士たち。その豪華さは、色あせた荒野の背景とはまるで油と水のようだった。
不審に思って近づいてみる。ナランも、訝しげな様子で後をついてきた。その瞬間、ナツァグの目に、行列に紛れるソリルの姿が映った。
「そうか、お前らが犯人か……!」
ナツァグは弾かれるように飛び出した。荷物を放り出し、勢いそのままに、兵士の列に突っ込んでいく。
まず一人、背後からげんこつを食らわせる。不意を打たれて撃沈する兵士。その男は、どうやら弓兵のようだった。ちゃっかり弓矢一式を拝借するナツァグ。
休む間もなく、ナツァグが元いた場所に矢が突き刺さった。周囲の兵士が異変に気付いたのだ。腰帯から短刀を抜いて応戦する。
彼が奇襲をかけたのは、偶然にも、遠距離攻撃タイプの弓兵部隊が並ぶ箇所だった。おかげで近接戦に持ち込まれた今、軽装で小回りのきくナツァグの方が有利となった。着実にソリルの元へと進んでいく彼。
そしてついに、その手綱を掴んだ。途端、嬉しそうにすり寄ってくるソリル。ナランもナツァグに追いついて、ソリルの窮屈そうな拘束具を外しはじめた。
「動くな」
首に、冷たい何かが当てられた。背筋が粟立つ。辺りを見れば、四方八方から向けられた槍。二人と一頭は、いつの間にか兵士に取り囲まれてしまっていた。
「いったい何事ですか」
不意に、甲高い声が響いた。俺らの襲撃に気付いたのだろう。行列を率いる頭目が、犯人の親玉が、とうとう姿を現した。
それは女性であった。しかも華奢で、おしとやかで、華麗なドレスを着こなすような貴婦人だった。
だがその顔を見た瞬間、ナツァグが、つぶやく。
「母さん……」
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