第3話
昔から、両手いっぱいに才能を抱えて、みんなの信頼を預かって、どんなことも軽々とこなしてしまう。僕が、全力を尽くしてもできなかったことさえ、軽々と。
追いつけない。悔しい。嫉妬さえする。
しかし、なのか。だから、なのか。僕は、そんな兄さんに憧れてもいた。憧れて、その背中を追って、努力して、でもいつも届かなくて。
その度に、僕は劣等感に苛まれた。何度も挫けそうになった。悔しい。追いつきたい。追い越したい。
気付けば、今日も、またその背中を追いかけている。
「なーんか暗い顔してんな。体調悪い?」
ナツァグが、急に顔をのぞき込んできた。意識が引き戻される。ナランは慌てて首を振って、病弱だと憐れみを向けられないよう否定した。
「そう、ならいいけど。どっちにしろ、休んどくなら今日のうちだぞ。明日からは、ここに立ち寄った分の遅れを、取り戻さなきゃいけないからな。一気にアルタンツェツェグ帝国まで行くぜ」
アルタンツェツェグ帝国とは、集落から最も近い国の一つだった。ナランは、そこに家畜泥棒がいると予測し、最初の目的地に定めていたのだ。
そのナランが訂正する。
「正確には、その国境沿いに向かってるんだけどね。あそこは、皇帝がしっかり実権を握っている大国だけど、辺境までは、さすがにその統制力も行き届かない。つまり、治安が悪くなりやすいんだ。泥棒なら、その混沌に身を隠している可能性がある」
「ああ、そういうことか! なるほど……」
ナツァグは、改めて理由を理解したようだった。何度もうなずき、納得と感嘆のうなりを上げる。
ほら、僕だってできるじゃないか。まったく役に立てないわけじゃない。この知識と頭脳が、僕の自信になってくれる。
だからさ、と、自分に言い聞かせるナラン。
もう少しだけ、頑張ってみようよ。早く兄さんに追い付けるように。早く氏族の男として認められるように。認められて、遊牧民としてしか生きられない人生が、嫌になってしまわないように――
◆
二人はその日も、愛馬を駆って犯人を探し続けていた。
「ソリル、もう少し頑張れるか」
名前を呼ばれた愛馬が、ひづめを鳴らして大地を蹴る。
「ソリル」というのは、遊牧民の言葉で「流星」を意味する。愛馬はその由来の通り、ひらめくような速さで、二人をこの辺境まで誘ってきたのだ。
とはいえ。
「ここまで急いできたぶん、かなり速力が落ちてきてるね。そろそろ休ませないと」
ナランが、労るようにソリルの首元をなでる。その首元も苦しげに上下し、いかにも疲れ切っているのが見てとれた。ナツァグも、それくらいはとっくに気付いていた。
「でも水場を出てから、犯人どころか、まだ手掛かり一つ見つけられてねぇ。きっと俺らの努力が足らないんだ。氏族のみんなは、今も残った家畜だけで必死に生活してるのに……やっぱり先を急ごうぜ」
そう言って、荒野を進み続けるナツァグ。ナランは彼を止められなかった。それは単に、自分の意見を否定され、気圧されたからではない。彼には、ナツァグの言葉が痛いほどに分かったのだ。
早く、盗まれた家畜たちを救いたい。早く、僕らを育ててくれた氏族に恩返しがしたい。
優しくて正義感の強い兄さんなら、僕の何倍もそう思っているはずだ。そうして、進展のない現状に、焦りを増幅させてしまった――ソリルに無茶を強いるほどに。
「どうした!?」
突如、ソリルの身体が傾きはじめた。膝から崩れ落ちるようでもあった。鞍が揺れる。バランスを崩す。風景が上下反転する。
落ちる!
ナランは思わず目をつぶった。直後、温かい何かに全身を包まれ、静かに地面に転がる。
目を開けると、彼はナツァグの腕の中にいた。慌てて飛び起きる。そうか、兄さんが僕を庇ってくれたんだ。
「うう、痛ってぇ……お前ちょっと太ったな?」
ナツァグが頭をさする。次いでむくりと起き上がった。平然と汚れを払うあたり、幸い骨折は免れたようだ。胸をなで下ろす。
が、それも束の間、ナランは慄然とする。
「ソリルは!?」
二人が一斉に目を向ける。そこには、力尽きて座り込み、ゼーゼーと正常でない呼吸をする駿馬がいた。
「ソリル!」
ナツァグが叫ぶ。
しまった、全部俺が焦ったせいだ。家畜は口がきけないんだから、飼い主が冷静になって、気を配らなくちゃいけないのに。きっとナランは、そこまで分かって俺に忠告してくれたのに。
二人がソリルに駆け寄る。すぐさま馬具を外し、積み荷を下ろし、ひたすらその世話に心を砕いた。少しでも苦痛を取り除けるよう、ひたすら考えをめぐらせせた。
「ナラン、次は水を飲ませてやってくれないか」
ソリルの汗を拭きながら、ナツァグが呼びかける。ナランは返事をするのも惜しんで、荷物に飛びついた。
そこで、彼の動きが止まる。
「兄さん――」
ナランは、水のタンクを掲げて見せた。軽々と、片手で掲げて見せた。
つい先日、持ち上げられないと思い知ったものにもかかわらず。
それはつまり、もう中身がないということ。つい先日汲んだばかりの水は、おそらく、すべて大地に垂れ流されてしまったということ。
二人は言葉を失った。清潔な水がない?
じゃあソリルの飲み水は。自分たちの飲み水は。料理をする水は。身体を洗う水は。
「俺、この前の水場まで汲みに行く!」
ナツァグは、ナランからタンクを奪うと、返事も聞かず走っていってしまった。
「ちょっと!」
ナランは反射的に止めようとした。けれど、ここは水に乏しい荒野だ。早急に走っていくべきなのは、彼だってよく分かっていた。
冬の澄んだ朝空に、短髪の青年が吸われていく。ナランは、それを見つめるしかなかった。しかししばらくそうしていたあと、最後には背を向け、託されたソリルのもとへ向かっていった。
◆
幸運なことに、一行は、ほんの一時間前に水場を発ったばかりだった。おかげで、ナツァグはほどなくそこにたどり着いた。すぐに水を汲み直す。やっぱり冬場の水仕事は辛いな。手先に吹きかけた息は、いつもより白かった。
寒く乾燥したこの地域は、木の一本さえ芽吹くことを許さない。あるのは、ろくに背を伸ばすこともできない雑草と、家畜を頼りに細々と暮らす遊牧民のみ。厳しい冬が迫る今、生き物はいっそう姿を消していた。この冷たい風に、生命の熱をかすめ取られて。
残酷な風は、今日も荒野を吹き抜けている。
残酷な風は、今日も荒野を吹き抜けている。ナツァグはその時、それを体感した。冷たい風が心を吹き抜けていくような、そんな心地がした。
「ソリルが、いなくなった……?」
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