第2話
「俺にやらせてください」
差し込む天窓の光に向かって、花咲くように手を挙げるナツァグ。その瞬間、会議場は感嘆と拍手に包まれた。
「異論はないようだな。確かに、次期氏族長ならば力量に申し分あるまい。きっと無事に帰って来れるだろう……ナランは、この決定に納得してくれるか?」
ナツァグの唯一の肉親であるナランに、重ねて問う氏族長。彼は、忙しく瞬きを繰り返し、ぽつりぽつりとつぶやいた。
「正直、まだ不安な気持ちは残ってる。けど兄さんの性格なら、戦士を買って出るのは分かってた。それにこの先、僕が何と言おうと、引き下がる気がないのも分かってる」
ナランは一度言葉を切り、表情に心のざわめきをにじませた。まさしく、ナツァグを呼びに来た時と、同じように。
「結局、何もかも予想通りになっちゃうんだ」
ナツァグはハッとした。まさか、お前はあの時から、今の状況を読んでいたというのか。これから俺がどんな行動するかだって、見事に図星を指してきた。
こいつには、俺にはない才能がある。
「ナランも連れていけないか」
そんなアイデアが、ふと浮かんだ。口からこぼれ出たようだった。男たちは一様に目を丸くする。
「無茶だナツァグ。身体の弱いナランに、長旅なんてさせられるか」
「そうだよ。ナランはまともに武器も握れないんだろ? もし家畜泥棒と、乱闘にでもなったらどうする」
真っ先にあがったのは、ナランを心配しての反対意見だった。みんなが不安がるのも無理はない。けど俺は、こいつに、戦士に選ばれるだけの力があると思ったんだ。
ナランに目を向けるナツァグ。渦中の本人は、論争にじっと耳を傾けて、ひたすら思案をめぐらせていた。床の一点、しかし、遥か事の行く末を見つめて。
「僕、行くよ」
不意に放たれた一言は、とうとう男たちを絶句させた。
「はっきり言って、僕は武術も乗馬もからっきしで、みんなから頼られる兄さんとは正反対だ。でも正反対だからこそ、上手く互いの弱点を補い合えるとも思う。それが、互いをよく知る兄弟なら、なおさら。メリットは大きいよ」
整然としたナランの主張に、ちらほらとだが、納得の色を示しはじめる者が出てきた。何より男たちは、いつになく固い意志を宿した彼の瞳に気が付いた。そうして、ナランが覚悟を決めようとしていることに気が付いた。
今まさに羽化しようとする少年を、軽んじて挫く者は、少なくともこの氏族にはいなかった。
「行ってこい、ナラン。周りにいくら心配されても、自分のことは自分で決ればいい。それぐらいの責任はもう持てるはずだ。どうかナツァグを支えてやってくれ」
男たちの激励を代弁するかのように、氏族長がナランを抱きしめる。次いで、片腕をナツァグにも伸ばし、二人を胸の中に埋める。二人は突然の抱擁に慌てつつも、熱いほどの愛を全身で感じていた。
それから、一夜が明けた早朝のこと。急いで支度を終えた二人は、濃い霧の中に旅立っていった。
◆
林立する木々を縫って、二つの影が駆け抜けていく。前者はウサギ。後者はナツァグ。彼は今、狩りの真っ最中であった。
大きく蛇行して逃げるウサギ。追っ手を撒くための習性だ。負けじとナツァグも、落ち葉を蹴り上げて食らいつく。それでも距離は埋まらない。
そうか、落ち葉を蹴るのがダメなんだ。ウサギは耳がいいから、音で動きを予測されてしまう。
ナツァグは慌てて速度を落とした。つんのめる。一歩足が出る。そのまま助走に入る。跳躍する。
右手が太い木の枝を掴んだ。一回転して、軽々と枝の上に降り立つ。こうやって木の上を移動すれば、音もなく獲物に近づけるはずだ。ナツァグは活路を見出した。
急に足音がなくなって戸惑うウサギ。足を止め、辺りを見渡す。
あの人間の姿は見当たらない。やたら足の速い青年だったが、なんとか逃げ切れたみたいだな。
ウサギは、刹那警戒を解いた。
そこに、ナツァグが舞い降りる。
「……ごめんな」
無事にウサギを仕留めた彼が、思わず呟く。そして、深く、深く頭を下げた。命への陳謝と感謝を、心の中で述べながら。
ナツァグは長い間そうした後、最後に、氏族伝統の敬礼を捧げた。
◆
ウサギ一羽だけを狩って、ナツァグは今夜の野営地に戻った。そこは、わずかだが水が湧き出る泉のほとり。この水場のおかげで、辺りには雑木が生い茂り、小型なら生き物の姿も見受けられた。いわゆるオアシスというやつである。
家畜奪還の旅に出て数日。今日は、二人もその恩恵をあずかりに立ち寄ったのだ。
「これ、積んどけって言ったのに」
第一声、ナツァグが眉をひそめる。目線の先には、地面に置かれたままのタンクがあった。それに新しい水を汲んで、馬に積んでおくのは、ナランの仕事になっていた……はずだが。
「読書もいいけど、まずはやること終わらせろよ」
ナランは、先刻から一人本に夢中になっていた。
周りには目もくれず、それはそれは楽しそうにページを繰る。この様子じゃ、さっきの俺の声なんて、まるで聞こえてないんだろうな。
こういう時、ナランは驚異的な集中力を見せる。俺にはない才能の一つだ。ただ、遊牧民には要らない才能でもある。教養では人も家畜も養えないのだから当然だ。
結果、ナランが頼りなく思われるのも仕方がないわけだが、俺にはそれが、つくづくもったいない事に見えた。
パン、と本を閉じる音がして、ナランが顔を上げる。どうやら、ちょうど一冊読み終えたらしい。
「あっ兄さん、おかえり」
今さらかよ!
ナツァグは呆れ返った。まさか、俺がずっと目の前にいたことすら気付かなかったのか。
その通りのナランは、ナツァグがあれこれ考え込んでいたことなど知るはずもなく、淡々と続ける。
「帰って早々で悪いんだけど、あのタンクを運んでくれない? 湧き水を補給したら、今度は重くて持ち上げられなくなっちゃったんだ」
早くも水汲みの件が解決した。なんだ、そういうことだったのか。ナランは決して、自分の仕事を放り出したわけではなかったのだ。
「それなら早く言えよ!」
ナツァグが豪快に笑い出す。そうして、ナランの髪をくしゃくしゃかき回すと、軽々とタンクを持ち上げた。片手は狩ったウサギで塞がっているから、むろんもう一方の手だけで、だ。
両手に荷物を抱え、どんどん遠ざかっていく背中。それを見て、ナランの表情がふと歪んだ。
やっぱり、兄さんなんか大っ嫌いだ。
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