遊牧民と黄金の花
花田神楽
第1話
十数頭もの馬の群れが、血走った目で爆走する。ここは、見渡す限りの大平原。灌木一つない荒涼とした草地を、彼らは土埃を上げて走っていた。
なぜなら、跡をつけてくる一頭の駿馬がいたから。その馬は、立派な手綱を躍らせ、背中に屈強な青年を乗せていた。
青年が軽く腹を蹴る。駿馬はすぐそれに気付き、阿吽の呼吸でスピードを上げた。瞬く間に、先頭で群れを率いる荒馬のもとへ。すると青年は、その鼻先に手を差し出した。
「ほら、いい子だから戻っておいで。放牧されていた間に、俺の顔も忘れちまったか?」
猫なで声で話しかける彼。荒馬は反応を示さず、それどころか、敵意をあらわにして蹴りかかってきた。
「うわっ」
青年が紙一重でかわす。が、バランスを崩して、鞍から滑り落ちてしまった。とっさに鞍の縁を掴む。かろうじて落馬は免れた。彼は身体を持ち上げると、走り続ける駿馬の上で、すぐさま姿勢を立て直した。
馬の群れは、遥か先に進んでしまっている。彼は最高速力で追いかけた。距離を詰める。一群の最後尾につく。並ぶ。追い越す。先頭の荒馬の姿を捉える。
順調なのは、そこまでだった。青年は途端、一切前に進めなくなってしまったのだ。進めば荒馬が怯え、興奮し、攻撃をしかけてくる。まして主人を思い出す様子など、まるでなかった。
くそっ、かなり野生化しているな。
青年は少し迷ったあと、意を決して、なんと駿馬の手綱から手を離してしまった。そのまま鞍を蹴り、荒馬に飛びつき、無理矢理その胴にまたがる。
荒馬はすぐに、青年を振り落とそうと躍起になった。おかげで足が止まり、狙い通り、群れ全体も前進をやめる。
前足を上げ、後ろ足を上げ、踊り狂う荒馬にしがみつく青年。彼は、その恵まれた体格を存分に活かした。
すると心なしか、荒馬が大人しくなっていくように感じる。それは、単に力尽きただけなのか。あるいは、俺に心を開きはじめてくれたのか。
青年はありったけの力を振り絞り、強く、しかし優しく、荒馬の首を抱きしめ続けた。
「ナツァグが帰ってきたよ!」
色あせた秋の荒野に、純白のテント群が浮かび上がる。青年が自分の集落を見つけた途端、向こうでも、彼の姿を認めて騒ぎ出したのが分かった。
家畜の餌やりや乳搾りの手を止めて、氏族の仲間が走り寄ってくる。
「おかえり若長。ここにいる馬たちで最後?」
「ああ。放牧していた家畜はみんな、健康な状態で帰ってきたよ」
周囲が一様に、ほっと胸を撫で下ろしたのが分かった。あんなことがあった直後だから、家畜がみんなそろって帰ってきたのが、いつも以上に嬉しいんだろう。
「ナツァグも無事でよかった。お前さんみたいなお偉方に、馬追い作業なんて任せちまって悪かったな」
「いいんだ、俺は現場に出てる方が性に合ってる。それにこういう時こそ、一人一人ができることをして、みんなで踏ん張っていかねぇと。そうだろ?」
そうだそうだ、とナツァグを取り巻く人々から、口々に賛同する声が上がる。あんな危機にさらされてなお、氏族の人たちは、あくまで前向きに乗り越えていこうとするんだ。次期氏族長ナツァグは、この氏族を代表できることをいっそう誇らしく思った。
「兄さん」
その時、不意に人混みをかき分けて、小柄で色白の少年が現れた。
「氏族長が呼んでる。すぐ来て」
小さくも鋭い声が耳に届く。と同時に、いつも以上に気弱な表情が目に映った。ナツァグはそこに、彼の心のざわめきを見て取った。
「……ナラン、今行く。誰か馬たちを頼む」
周囲に馬の群れを預けると、遊牧民の兄弟ナツァグとナランは、共に駆け出していった。
◆
氏族長が暮らすテントは、他の世帯のそれより一際大きかった。話し合いなどで人が集まれるようにするためだ。おかげで普段がらんとした部屋も、今日ばかりは、渋い顔の男たちでひしめき合っている。
扉を開け放つと、胸焼けしそうな陰気が流れ出してきた。
「ナツァグ、ナラン、こちらへ」
テントの奥から、穏やかで澄んだ一声が掛かった。二人の育ての親にして、現氏族長のゾリグであった。
無骨な男たちの間をぬって、二人が彼の前にしゃがみ込む。そうして、二本指をトントンと額に当てる氏族特有の敬礼を一つ。彼がナツァグに目を向けた。
「馬たちの回収、ご苦労だった。状況はどうだ」
「はい。つい先程、すべての家畜の回収を終え、その無事を確認したところです――やはり盗まれたのは、集落の近くで飼っていたものだけでした」
それは、数日前の早朝のこと。牧草地に囲い込んでいた羊や馬が、一夜にして姿を消す事件が起きた。
詳しい調査の結果、柵の一部が人為的に壊され、家畜たちは盗まれたのだと判明した。家畜は、遊牧民にとってまさに生活の根幹。氏族の間には衝撃が走った。すぐに会議が開かれ、被害の全容を知るために家畜を集めるなど、今は大慌てで対処にあたっている真っ最中だった。
「……となると、最終的に家畜全体の約三分の一が奪われたというわけだな。被害が拡大していなかったことは不幸中の幸いだが、それでも大きすぎる損失だ。到底買い足して穴埋めできる数ではない。かといって、残った家畜だけで来たる冬を越せるとも思えない」
さすがの氏族長も、この現状には表情を曇らせた。口を固く結び、黒曜石の目を泳がせ、それから、意思を固めたように顔を上げる。
「男たちに命じる。これより、少数精鋭の部隊を選出し、盗まれた家畜たちを奪還せよ。場合によっては、武力衝突もやむを得ん」
その判断に、異を唱える者はいなかった。遊牧民であれば誰もが、もはや犯さざるを得ない危険だと分かっていた。けれども、氏族のために危険をかえりみず、戦士に名乗り出る者もまたいなかった。
ただ一人を除いては。
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