カレー


これは夢なの?私は……てっきり……言葉が、出ない。


「へ、返事を、聞かせてほしい」

「はい……はい、おねがい、します」


やっとそれだけ言った。その言葉を聞いた七瀬さんの表情はスッと和らぐ。そして、天井を見上げて目を閉じ、心底安心したように、


「よかった……よかった〜、断られたらどうしようかと……」


その安堵した表情を、私はまるで他人事のようにぼうっと眺めていた。そうか、告白されたのか。私が七瀬さんから……



そう思った時、ある感情が沸々と湧きあがってきた。


私は今の今まで泣いていた筈だ。絶対に振られたと思ってこの後の事が全て暗く、重苦しいものになるのだと絶望を感じていた筈だ。なのに……何故この人はこんな表情かおをしているの?


「七瀬さん!」


叫ぶなり彼の両手を振り払う。


「いつっ、な、何?どうしたの」

「一人で安心してるなんてひどい!さっきまでの私の!私の、苦しさが分かってるんですか!」


何この人は一人で満足してるの?!私の告白を横取りして悲しい思いをさせて泣かせておいてー!!


「七瀬さんの!!!っ、バカーーーーーーッ!!」


「うわーっ?!ちょっ!葉月ちゃんっ、危ないっ、腕振り回さないでっ!ピアノあるから!」

「私よりピアノの心配ですか!バカーー!!」

「ちがっ!け、怪我するからって!痛てっ!殴らないでって、葉月ちゃん!」


怒りに任せて七瀬さんの胸元をポカポカと叩く私。相手が怪我人だということも忘れて。


「バカッ!バカッ!バカッ!バカッ!バカーーッ!」

「は、葉月ちゃん!やめろって!っこの」

「バ、むぐっ!」


ジタバタする私の動きが力強く封じられた。正面から抱き締められたのだ。


「放してっ!」

「放さない!」


私の怒りはまだ治らない。彼の胸をぐいぐい押して離れようともがくけど逃れられない。細身でもやっぱり男の人の力は強くて、ちょっと頼もしく感じた。でも怒ってますから!


「放してってばっ!」

「放したら暴れるだろっ!」

「大声出しますよ!」

「もう叫んでるだろ!それにこの部屋は防音室だ!」

「女の子をこんな部屋へ連れ込んでいきなり抱きしめるなんて最低!放して!」

「放したら暴れないと約束してくれ」

「殴ります」

「じゃあこのまま暮らすのか……あのさ、悪かったよ。謝るから許してくれ」

「う〜、私の告白を横取りしたくせにっ」

「だから謝るよ、ごめん!葉月ちゃん!許して!」

「……」


告白して謝る事になってしまった七瀬さん。私の心もだんだん落ち着いてきた。ふぅ〜と息を吐いて、


「わかりました。許します」

「ありがとう」


力を抜いた七瀬さんの両腕が離れて解放された。そしてその隙だらけの胸に飛び込んで抱き締める私。


「……君、今放せと言ったよね?」

「はい、放してもらいました」


ぎゅっと力を込めて抱き締める。


「なるほど、攻守入れ替えかい?」

「はい」


怒ってはいたけど嫌いになるわけない。大好きな人から告白してくれたのだ。あれ?おかしいなぁ、なんで怒っていたのかもう忘れた。幸せ過ぎて。


「でも、もう僕は受け身に回るつもりはないよ」


そう言ってまた抱き締めてくれた。この人と抱き合う日が訪れるなんて夢みたいだ。私は彼の胸に顔を埋めて訊いた。


「本当に私の恋人になってくれますか?」

「勿論だよ、君こそどうなんだい?」

「大好きです。七瀬さん」

「僕もだよ。葉月ちゃん」


お互いに、抱き締める腕に力を込めた。


「叩いてごめんなさい」

「そうだね、痛かったよ。てか葉月ちゃん、思ってたより激しい性格なんだね」

「ごっ、ごめんなさいっ」


たまにやってしまう。妄想が暴走して声に出てしまったり、感情がたかぶって体が勝手に反応したり。凛に気を付けろと言われているけど、正直、凛に言われるのは心外だ。


「反省の気持ちを態度で示してほしいな」

「え?」


私の背中にあった彼の手は、両肩に添えられて少し体を離した。

見つめ合う私と彼。彼の言葉の意味する所は解った。静かに彼の端正な顔が近づく。


高鳴る鼓動。心臓が、口から飛び出てきそう。少し震えながらもゆっくりと、目を閉じた。


目を瞑っていても彼の息遣いでだんだんと近づく気配を感じた。もうすぐ、もうすぐ、私の初めての……


わずかに唇同士が触れたか触れていないかの瞬間、


「ハイハイ、そろそろいいかな?二人共」


「「わっ!!」」

凄い勢いで離れる私達。同時に部屋の入り口を見た。


「心配になってちょっと様子見に来てみたけど、なるほど。やっぱりそう言う事になっていた訳ね」

「母さん?!なんで……?!」

「あわわ……」


いつの間にか、七瀬さんのお母さんがピアノ部屋の入り口に立っていた。


「桜井さんの大事な一人娘と、ウチのバカ息子が一つ屋根の下に居るんだ。心配しない訳無いだろう?怜」

「むぐっ、いや、でも僕は葉月ちゃんを……」

「すみませんっ!七瀬さんのお母さん!」


何か弁解しようとする七瀬さんを遮って彼女に頭を下げる。下げたまま、


「お、お手伝いをお願いしたのにこんな所を見せてしまってごめんなさいっ!で、でも私は、彼、れ、怜、さんの事が」

「いいから、葉月さん。謝らないでいいのよ?」

「……はい?わっ」


気配を感じなかったのに、いつの間にか目の前に居た彼のお母さんの胸にふわりと抱かれていた。


「あ、あの」

「ありがとう、この我儘息子の彼女になってくれたんでしょう?」

「あっ、その、はい?」


怒られるどころか感謝された。そんなに我儘なの?さっきの告白横取りで片鱗は見た気がしたけど。


「母さん……いつから聞いてたの」

「僕から言わなくちゃいけない。から?」

「うぐぁ……」


頭を抱える七瀬さん。開幕から聞かれていたようです。凄く恥ずかしいです。


「良かったわ〜、ピアノにしか興味が無い変態息子かと思っていたのに、こぉーんなに可愛い彼女が出来るなんて」

「一人息子を変態呼ばわりする親もどうかと思うよ?」


優しく私の頭を撫でながら、笑顔で息子を罵るお母様。


「言い足りないわよ、アホ息子。お父さん騙してピアノ買わせて部屋まで増築させて」

「うっ……騙すとかひどくない?」

「母親舐めんなよ?アンタが芸大なんかに興味が無いのはお見通しだよ」

「あ……ははは……そうすか」


がっくりと肩を落とす自称策士さん。バレバレでしたね。


「挙句、女の子をこんなに泣かせてお前、それでも男か」

「返す言葉もありません……」


何故かお説教が始まってしまった。七瀬さんが少し気の毒になってきた。


「あ、あの、お母様?そんなに叱らないでください。私も悪かった所あるし……」

「お母様なんて堅苦しいのはダメ。普通にお母さんて呼んで?はづちゃん」

「うにっ?!」


ぎゅーっと抱き締められる。苦しいですお母様。はづちゃんなんて呼ばれ方初めてです。て言うかこの人普段こういう感じなの?!


「僕と態度が違い過ぎない?」

「私は女の子が欲しかったのよ。男に生まれた事実を呪いなさい」

「ヒドイ……」


もう可哀想だからやめてあげて?


「はづちゃん?本当にこんなのでいいの?この子一人っ子だからお父さんが甘やかして我儘なのよ?」

「母さんいい加減にしてくれる?てか、あのタイミングで割り込むとか正気なの?」

「あのタイミングだからよ。考え直すチャンスを作ったのよ」

「母さんは僕と葉月ちゃんの交際に反対なの?」


何故か著しく低評価な七瀬さんよりここは、私からお母さんに話さなくては!


「あの、お母さん」

「ん?なぁに、はづちゃん?」


彼女の腕の中で少し考えてから口を開いた。


「えと、なな、怜さんのお家での事は分かりませんけど、私には、とても優しくて、頼りになる素敵な人です……私は怜さんが大好きです」


本人を前にして凄く恥ずかしいけど、思っている事をお母さんに伝えた。


「葉月ちゃん……」


私のストレートな言葉にさすがの七瀬さんも顔が赤い。多分、私も真っ赤だろう。


「かっ、……かわいいっ」

「むにゅっ?!」


私の頭を胸に抱き込むお母さん。


「あ〜かわいいわぁ〜、怜とは付き合わなくてもいいから私の娘になって?」

「なんて事言うんだ、この親は……てか、母さん。放してあげなよ」

「む〜、む〜〜っ」

「あ、ごめんね」

「ぷはっ……」


お母さんの胸が、低反発まくらのように私の顔にフィットしていて、危うく窒息する所だった。


「まあ、あなた達の交際は反対してないわよ。したらもうはづちゃんウチに来てくれないじゃない。私が心配しているのは怜」

「は?僕?」

「アンタちゃんとはづちゃんの勉強見てやるんだよ?イチャイチャしてばっかりで受験失敗させたら許さないよ」


お母さんの目がギラリと光る!コワイ。


「当たり前だろ。僕の成績知ってるだろ?」

「K高主席くらいでいい気になるな。もっと上狙えたのにケリやがったツケは払ってもらうよ?」

「だって近かったし……」

「なんだって?」

「いえ!わかりました!」


直立不動の七瀬さん。でも待って、え?K高校主席で満足しないお母さん凄い!どれだけ優秀なの?!て言うか私大丈夫?凄いスパルタ指導とか無い?!


七瀬親子の凄さを垣間見た瞬間だった。因みにお母様は私の志望校は知らなかったようだ。そりゃそうなんだけど、息子と同じ高校だと知るや否や、更に鬼気迫る勢いで自分の息子を脅迫し始めた。本当にやめて?七瀬さん可愛そう……



お母さんはその後もう一度、私をぎゅっと抱き締めてから仕事へと戻って行った。


「凄く厳しいお母さんですね」

「僕にはね」


苦笑する七瀬さん。それだけ愛されてるって事にしておこう。


「まあ、僕も色々我儘を通してきたから仕方がないよ。それにしてもえらく気に入られたね。はづちゃん?」

「それ恥ずかしいんですけど……ん?」


足元にフサフサしたものが。開けっぱなしのドアからチャムが入り込んで来ていた。


「あ、チャムだ。よしよし」

「にぅ〜」


頭を撫でてあげると変な鳴き声を出すチャム。目を細めてゴロゴロ喉を鳴らしていると言う事は嫌ではないらしい。


「抱っこしても大丈夫だよ」

「え、怒られないかな」

「母さんには牙を剥いて威嚇するけど、葉月ちゃんにはもう懐いてるよ。すり寄ってくるし」


そう言ってチャムの前足の付け根とお尻に手を添えて、ヒョイと持ち上げた。


「にょあぅ」

「ほーらお姉さんが抱っこしてくれるぞ」


ほらっと渡されたチャム。猫を抱っこするのは初めてだ。


「あうっ、結構重い」

「五キロあるからね。そうそう、尻尾ごとお尻を支えて」

「こうですか?あ、なんか安定しましむぅっ?!」


チャムを抱っこしたまま突然、私の口が塞がれた。――彼の唇で。


「んんっ、んっ……」


目の前に大好きな人の顔がある。夢を見ているような感覚に襲われた。凄く……心地よい夢。


「にゃあ〜お」


チャムが鳴いているような気がする。とても遠い所で。

瞼を開いているのか、それとも閉じているのかすら分からない。


ふわふわふわふわ――お願い、この夢覚めないで……


――やがて彼の唇が離れて行く。長くもあり瞬く間でもあった時間が終わってしまった。


「……ふあ……な、なせさん」

「好きだよ、葉月ちゃん」


優しく微笑んで七瀬さんは言う、けど、


「不意打ちはズルいです。初めて、なのに」


そうだ、人生初のキスは心の準備が欲しかった。


「チャムを抱えていれば避けられないと思って」

「避けるわけ、ないじゃないですか。もうっ」

「ふふっ、僕も改まると恥ずかしいからさ。それで、記念すべき初キスの感想は?」


怒っているのか嬉しいのか曖昧な表情であろう私は、もう少しロマンチックな表現をすれば良いのに、自己主張の強いお夕飯のせいで、こんな言葉しか出て来なかった。


「……カレー風味でした」



















 

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