食卓、そして
冷蔵庫に入れてあった、食品保存容器の中のカレーを鍋に移して火にかける。たちまちキッチンがカレーの香りで満たされた。
「良い匂いだね、お腹が減ってきたよ」
「はーい、もう少し待ってくださいね」
足が早いじゃがいもは別茹ででカレーに加えて、サラダの用意をする。スープは簡単にお湯を注ぐ物だ。
「手際がいいね、普段から料理してるの?」
「えと、はい、そうですね。よく、たまに」
本当はたまにも料理はしていないけど、一夜漬けの効果はあったようです、お母さん。
それにしても七瀬さんは、さっきからリビングをウロウロしていて落ち着かない様子なんだけど。
「七瀬さん、テレビでも観ていていいんですよ?」
「あ、あーいやはは、なんか葉月ちゃんに家事を任せて僕だけのんびりとは出来ないと言うか、落ち着かなくて……あ、コーヒーでも淹れようか、インスタントだけど」
「え、片手じゃ無理ですよ。私やりますから」
まずインスタントコーヒーの蓋を開けるのが大変そうだ。
「大丈夫だよ、左手は動かしてはダメとは言われたけど、動かない訳じゃないから」
それは動かしてはいけない理由があるからお医者さんに言われているんです。と言おうとしたけど遅かった。既に怪我をした左手に瓶が握られ、右手でキュッと開けた途端に、
「痛っ!」
「わっ、七瀬さんっ」
咄嗟に瓶ごと七瀬さんの左手を掴んでしまった。
「あいっつつ」
「うわっ!ごめんなさいっ!」
なんとか蓋が半開きの瓶は落とさずに済んだ。けど、
「大丈夫ですか、大丈夫ですかっ」
「大丈夫だよ、ごめんごめん」
「もーっ、七瀬さんはっ、まだ傷を縫ったばかりですよ?!」
傷口が開いてしまったらどうするの?!なかなか治らないし服が血だらけになっちゃうし、ピアノも、弾けないし。
「ちょっと痛んだだけだよ、大丈夫だから。料理の邪魔してごめんね?葉月ちゃん」
苦笑しながら私の頭に手を置いて、ぽんぽんする七瀬さん。普通なら嬉しい筈の宥め方なのだけど、私の今の気持ちは違った。
「……なんだか子供扱いですね、七瀬さん。私の呼び方も初めからちゃん付けだし」
「えっ……」
七瀬さんの手がピタリと止まった。戸惑いの表情を浮かべて。
言ってしまってからはっとなった。今このタイミングで言うような事じゃなかった。昼間の南雲さんとの事もあってか、同じ目線で見られている気がしなくて、思わず不満を口にしてしまった。
「いえっ、あの、ごめんなさい。忘れてください、すぐ、すぐにお夕飯出来ますから、そ、その、座って待っていて……ください」
「う、うん……わかった」
七瀬さんはキッチンから出て、ダイニングテーブルに着いてテレビのスイッチを入れた。今は静かなのは居た堪れない気分になるから良かった。多分、七瀬さんも同じ気持ちでテレビに頼ったのだろう。
でも、さっきの私の言葉が気になるのか、いや、気にならないわけがない。ちらちらとこっちを見ているのが分かる。
あーもう、失敗した。まるで既に付き合っている彼女のような発言じゃないか。子供扱いする彼氏に抗議する年下彼女……まだ告白もしていないのに。受け入れて貰っていないのに。
程なくして夕食が出来上がった。七瀬さんにはそのまま座っていてもらい、配膳は私がやった。片腕で生活するのは本当に大変そうだ。無理矢理だったけどお手伝いする事をお願いして良かったと思う。何をするにも辛そうにしている七瀬さんを想像すると涙が出てきそうだ。
「いただきます」
「いただきます」
二人での食事が始まった。夕飯は私も一緒に頂く事になっている。
「うん、おいしいよ。えと、葉月……さん?」
「い、今まで通りでいいですからっ、さっきのは忘れてください」
急にさん付けも違和感が凄いし、なんか七瀬さんとの距離が離れてしまった感じすらする。
「いや忘れろと言われても……困ったな、君の事を子供だなんて思った事は無いし、呼び方も親しみを込めたつもりなんだけど」
そう言ってパクリとカレーを口に運ぶ七瀬さん。そして、
「そもそも僕ら二つしか違わないんだよ?それに子供か大人かって言えば僕も子供なんだし」
「そう、ですけど……」
私もパクリ。うん、おいしい。
「ひょっとしてだけど、あのファストフード店での事を気にしてる?……ホントおいしいな……」
「気にならないと言えば、ウソになる、です……このカレー、何種類かルーをブレンドしてるんです」
「なるほど、調合は君のお母さん直伝なの?……てかあの娘の言った事は気にしないほうがいいんじゃないかな、高校生が大人とかいうのはどう考えてもおかしいよ」
「だ、だって受験したわけじゃないし……あ、あとスパイスも何種類か使ってます。お母さんの研究結果です」
「まあ、受験を経験したら多少意識も変わるかもしれないけど、彼女のあの言い方はどうかと思うな……このカレーは桜井家の定番なんだね?今度レシピ教えて欲しいな」
「そ、それはっ、食べたい時は言ってください、私が作りますからっ……あの、制服を着た小学生ていうのはちょっとショックでした」
「本当?嬉しいな〜、週一で食べたいかも。……そうだよね、それはさすがに中学生を前に言い過ぎだと思うんだ」
「はい週一ですねっ、勿論大丈夫です!任せてください!」
「本気でお願いしちゃうよ?大丈夫?」
「勿論ですっ……あの、実は今日たまたまスーパーで南雲さんに会って」
「えっ、それで、何か言われたの?」
「えと、まあ、子供扱いされちゃった、かなぁ……」
「またあの人は……気にしちゃ駄目だよ?からかっているだけだからね?」
「はい、でもそこじゃなくて帰り際に彼女が私に言ったんです」
「何?何か嫌な事?」
「……ちゃんと言わなきゃねって」
「ん?ちゃんと?どういう事?」
ついに……切り出してしまった。このまま言ってしまっていいの?食事中だけどいいの?彼が好きならちゃんと言わなきゃ。南雲さんの言葉はそういう意味な筈だ。言わなきゃ伝わらない、言葉にして彼に……!
「か、彼……に、彼、に……」
「え?カレー?おいしかったよ?だから週一でお願いしたいなって」
「あ、いえ!違くて!」
一生懸命彼に言わなきゃ言わなきゃと、思っていたら声に出てしまっていた。
「七瀬さん!あの!……あの……私……」
「うん、なに?」
「そ、その……私は……な、七瀬さん、が……」
この先が緊張で言えない……と、
「葉月ちゃん」
「はい?!」
七瀬さんに呼ばれてうわずった返事になってしまった。彼はニコッと微笑んで、
「ごちそうさま。おいしかったよ」
「……はい」
そう言って自分の皿を持って立ち上がる七瀬さん。
これは……私の様子と言葉で察していたのか。そして、その上で話を打ち切るような七瀬さんの態度。
つまり、そういう事……か。
「ごちそうさまでした……」
私も席を立って片付けを始めた。シンクの前に立ち、洗った食器の洗剤を水で流す。無心で洗い物を片付ける。何かを考えたら泣いてしまうから。
この後、勉強の予定だけど無理。申し訳ないけどお断りしよう。
洗い物の最中、七瀬さんはリビングのソファーでじっと座っていた。テレビもつけずに。
「あの、洗い物終わりました」
「ああ、ありがとう。助かるよ」
「いえ、……その、この後」
折角勉強を教えてもらえるのに今日は無理だ。今すぐにでも涙が溢れそうになる。やっぱり私は恋愛対象として見られていなかったんだ。ただの、近所の年下の女の子だったんだ。
「葉月ちゃん」
「……はぃ」
ダメ、もう泣きそう。帰りたい。もしかしたらもう泣いているかもしれない。頭ぐしゃぐしゃだ。
「ちょっと来て」
「あ……」
手を掴まれて、歩き出す七瀬さん。行き先は、ピアノの部屋だった。
ここで何をするの?ピアノを弾くの?……そうか、弾けないんだった。
ピアノの傍で握っていた手が離れた。私は俯き、七瀬さんが話し出すのを待っている。多分、ここではっきりとごめんって言われるのだろう。そう思うと我慢出来なくなって、涙が頬を伝った。
私は七瀬さんが背を向けている隙に、袖で目元を擦ってなるべく彼に悟られないようにするのだけど、一旦泣き始めたら悲しくて涙が止まらなくなった。
今日、私は私を好きだと言ってくれた男の子を振った。正直言うと、その時は一つ肩の荷が降りた気がして少しホッとしていた。でもこれから、今度は私が七瀬さんに振られるのかと思うと、あの時の和泉君の気持ちが解る気がした。
こんなにも、苦しくて、悲しい。
口元を押さえて嗚咽が漏れるのを我慢すればする程、その分涙が溢れてくる。手の甲を伝ってぽたぽたと床に落ちる涙。だめ、もう立っていられない……
「ふ……うっ……う……んっ……?」
ふわっと、両肩を優しく支えられた。
「さっきはごめん、葉月ちゃん。泣かせるつもりはなかったんだ」
「うっ、うえぇぇ……」
崩れ落ちそうになる体を、七瀬さんはしっかりと両手で支えてくれた。……両手、で?
七瀬さんは怪我をした腕のサポートを外していた。
「ぐずっ、ななぜざんっ、うでっ、腕……」
「本当は受験が終わってからなんて思ってた。勉強に影響して同じ高校に行けなくなるなんて嫌だから」
「え、え、ぐす、……え?」
七瀬さんは何を言っているの?
「……なんていうのは嘘だ。本当の本当は」
ぎゅっと彼の両手に力が入る。
「僕に勇気が無かったからだ。女の子に告白なんてピアノと勉強ばかりしてきた僕にはハードルが高すぎて」
「七瀬……さん?」
今気付いた。普段の彼からは想像出来ないけど、顔が赤い。え、でもそれって……
「でも今日、背中を押されたよ。と言うか尻を叩かれたと言うべきか」
「七瀬さん、何の事……っ」
七瀬さんがまるでピアノを弾く前の、あの真剣な眼差しで私を見ている。
「その上、君から言わせるわけにはいかない。これは、僕から言わなくちゃいけない。でないと、情けない自分が許せなくなるから」
「……」
呆然と彼の瞳を見つめる私に彼は、彼から、
「葉月ちゃん。君が好きだ。初めて会った時から」
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