違うから


七瀬さんのシャツのボタンをなんとか留めて、急いで部屋を出た。心臓が高鳴って破裂しそうなくらい恥ずかしい思いをした。

でも多分、もう一仕事ある筈だ。バッグを肩に掛けた七瀬さんが部屋から出てきた。


「おまたせ。ありがとう葉月ちゃん」

「あ、いえ……あの、ネクタイが」


やっぱり。昨日お母さんが言っていた。


『片手でネクタイは無理だから葉月が結んであげてね。好感度アップよ!妻力アップよ!さー練習練習!』


妻力って……兎に角、そんな訳でお父さんのネクタイを黙って借りて、お母さんを相手に練習した。その成果を発揮する機会がやってきた!が、


「大丈夫だよ、ネクタイは必須じゃないから」


って言われてしまった。しかし、せっかく練習したのに、ここで引き下がるわけには行かない。何よりネクタイを締めた七瀬さんはカッコいいのだ!


「ダメです!私がやりますから!」

「え、そう?それじゃあ……」


素直に言うことを聞いてくれた。手渡されたネクタイを七瀬さんの首へ……回して……ち、近い。顔が近い!一瞬だけど七瀬さんの首に抱きつくような格好になってすごく恥ずかしい。目の前に相手の顔があって、流石に七瀬さんも視線のやり場に困ったのか横を見たり上を見たりして私を見ないのが更に恥ずかしさを煽るし、手元がおぼつかなくなる。

顔がすごく熱いけど、何とかネクタイを結び、締めた。

ほら……カッコいい。

少し苦笑しながらありがとうとお礼を言われて、ようやく朝食となった。


「あの、大丈夫ですか?一人で食べられますか?」

「大丈夫だよ、葉月ちゃん。片手で食べられるメニューにしてくれたんだろう?ありがとうね」


その通りで、トーストは片手で食べられるし、おかずはフォーク又は箸で、スープはカップに入れた。


「昨日怪我したばかりなのに学校行けるんですか?靴履けますか?お昼食べられますか?付いて行きましょうか?」

「あはは……心配してくれるのは嬉しいけど、これから君も学校だよ?」

「……そうでした」

「テスト勉強大丈夫?」

「うう……がんばります」


試験まで後三日。昨日は無理だったけど、今日は夕飯を用意しにお邪魔した時に勉強を見てもらえる予定だ。


「でも、七瀬さんもテストがあるんじゃ……」

「僕は大丈夫だよ、こう見えて優秀なんだよ?入学式で総代やったからね」

「ええっ?!」


新入生総代?!と言う事は?


「入試トップ……!」

「まあ、入試がトップだっただけだけどね」

「いやいやいや」


何言ってるの七瀬さん?!K高でトップとか凄すぎなんですけど!多分、中学時代もほぼ成績上位だった筈だ。


「すごいんですね、七瀬さん。かっこ良くて頭も良くて」

「いや、見た目は兎も角、勉強とピアノばかりやってたからね。あ、見た目と言えば今年の新入生総代は女子でさ、凄く可愛いって男子が騒いでたよ」


どんな人だろう。気になる。七瀬さんが気になる人がいるとファストフード店で言っていたのを思い出した。


「そうなんですか、外も中も良いなんて羨ましいな……あの、七瀬さんが気になる人って言っていたのは……」

「え!いやいや違うよ、確かに綺麗な娘だけど彼氏いるらしいし」

「……ふぅんそうですか」


なら彼氏がいなかったら?どうなんですか?と思わず言ってしまいそうになった。


「あの、本当だよ?同じ一年生でさ、上級生の女子も騒ぐくらいのカッコいい男子でね」

「別に疑ってはいませんし、私がどうこう言うような事でも無いですし」

「そう、だね。……えと、昨日の、あの時一緒にいた男子は……ひょっとして彼――」


「違います!」


やっぱりそういう風に見られていた。私は七瀬さんの言葉に被せるように否定した。


「彼はただのクラスメイトです。帰りが同じ方向だったから一緒にいただけです」


半分本当の半分嘘で説明する。早口になってしまうのは、そこに告白の事実があった事を隠しているからだ。


「そう……その、あの時、急に走り出したのはどうしてなの?」

「!……それは……」


見てしまったショックと見られてしまったショック。でもそれを七瀬さんに話すのは……今は無理。出来ない。


だって、それを話してしまったら……


「ごめん、無理に話さなくていいからね」

「はい……ごめんなさい」

「いや、謝らないでいいから」


七瀬さんに怪我を負わせてしまった原因を作ったのは私。その訳を話せないのは心苦しい。

でもここで、全てを話して告白してしまうのはダメだと思う。和泉君に返事が出来ていない、今の宙ぶらりんな状態での告白はあり得ない。それでは和泉君が本当に保険みたいになってしまう。私にしかわからない事だけど、そういうのは自分で自分が許せない。だから、今はダメ。


「兎に角七瀬さん、時間が無いから食べちゃってください」

「ああ、そうだね」


気まずい方向に話が向かっていたのを軌道修正しようとして七瀬さんを急かす。私は、家で早い朝食を済ませていたので七瀬さんが食事中に片付けに掛かった。


「空いたお皿下げますね」

「うん、ありがとう。その格好、可愛いね」

「あ、ありがとうございます。エヘヘ」


割烹着姿を褒められた。お母さん、成功したよ。


七瀬さんの朝食と片付けが終わり、登校時間になった。私の通う中学校とK高校は、方向が違うので七瀬家の玄関先で別れる事になる。


「いってらっしゃい、七瀬さん」

「うん、行ってきます」


これがやりたかった。私も登校なんだけど、旦那様を送り出す若奥様的なやり取りは、女子なら一度は夢見る筈だ。きっと。多分。


「葉月ちゃん、大通り気をつけてね」

「はい、夕方またお邪魔しますね」

「うん、悪いけどお願いします」


にっこり笑って丁寧に言う七瀬さん。昨日は見られなかったその笑顔に私は嬉しくなって、小さく手を振ってから反対方向へ歩き出した。と、


「葉月ちゃん!」


既に二人共歩き出して距離を空けていたけど、はっきりと聞こえる声量で七瀬さんは私を呼び止めた。


「はいっ、なんですかー?」


こちらも慣れない声量で返した。

七瀬さんは少し下を向いてから、こちらへ顔を向けて、


「美琴さ……南雲さんは、……違うから!」

「え……」


言ってすぐに踵を返して歩いて行ってしまった七瀬さん。

……南雲さん?違う?何故か名前呼びを言い直した七瀬さんは何が言いたかったの?南雲さんは恋人ではない?気になる人ではない?

私に都合の良い解釈をすればそうなるけど、どうなのだろう。事故の時の南雲さんの言葉「ごめんね」の意味をもう一度考える。


「あ、学校。行かなきゃ」


小さくなった七瀬さんの後ろ姿を見ながら独りごちて、学校へ向かって歩き出した。



学校に着いて昇降口で上履きに履き替え、教室へ向かおうとした所で、待っていたのか偶然なのか和泉君がいた。


「おはよう、桜井」

「あ、和泉君おはよう」

「良かった、元気そうで。怪我無かった?」

「う、うん」


私は返事をしながら教室へ向かって歩き出す。ここは昇降口で、まだ大勢の生徒が登校して来ている。そんな中で和泉君と向かい合って話しているは目立っているなんてものじゃない、皆んな好奇の視線を向けてくる。


「昨日はごめんね、放ったらかしにしちゃって」

「気にしてない、と言えば嘘になるけどあの状況じゃ仕方が無いよ」


隣で一緒に教室へ向かう和泉君に、昨日の事を謝った。いきなり大声を出して、駆け出した挙句に事故を起こして現場に置き去りにしたのだ。彼には悪い事をした自覚がある。


「今日は一緒に帰ってくれる?桜井」

「あの……あまり大きな声でそういう事言わないで欲しいな……」

「ん?……あー」


廊下で立ち話する生徒達が、皆んなこちらを気にしている。男女問わずチラチラ見て、コソコソ話して。女子の中にはあからさまに私を睨みつけている娘もいた。


「俺は気にしないけど?むしろ皆んなに知って欲しいくらいだ。俺が桜井の事をす――」

「わー!わー!」


彼の顔の前で両手を振って、大声で続きの言葉をかき消した。


「も、もうっ!それは私だけが知っていればいいでしょう?なにも周知しなくてもっ!」

「桜井に変な虫が付かないように俺が守らなきゃね」

「だーかーら!そういうセリフだってばっ!」


ニコニコ笑顔で周りなど気にしないで、と言うか完全に周りにアピールするように話す和泉君。私は彼が、次に何を言い出すのか気が気じゃない。仕方なく彼の手を引いて廊下の隅へ移動した。その行為だけでも周りから小さく声が上がる。


「えと、和泉君。今は無理だけど後でちゃんと返事をするから、その、言いふらすような事は……」


これ以上目立つのは良くない。彼にも私にも。だって私は彼を振らなくてはならないから。そのつもりだから。


「……ごめん、困らせるつもりは無いんだよ、ちょっと新入生歓迎会の男子連中の反応に焦っちゃって」

「だからと言って私は物じゃ無いし、早い者勝ちみたいな行動は……ちょっと嫌だな」

「……わかった。ホントごめん」

「うん……」


そして、やっと教室へ入った。














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