不安


何がどうなったの?


「七瀬さん、これ、何が……七瀬さん?」


起きあがろうとしない七瀬さん。そこで初めて彼の異変に気付いた。


制服のあちこちが擦り切れ、特に左腕は真っ黒にブレザーの袖が染まっていた。


「七瀬さん?!七瀬さん!」

「……ああ、大丈夫。怪我は無い?葉月ちゃん」


そう言う七瀬さんは、額に汗を浮かべて痛みに耐えている様な表情だった。


「私は大丈夫です、それより七瀬さんっ、怪我が」

「そう、良かった。怪我が無くて」


私の事より自分はどうなの?慌てて周りを見渡す。大通りの向こう側、私達が元居た場所には呆然と佇む和泉君が。その隣でどこかに電話をしている南雲さんの姿を見つけた。


「きゅ、救急車、救急車をっ……」


立ちあがろうとする私の手が掴まれた。見ると、七瀬さんが私をじっと見ている。玉の汗を額に浮かべ、片方の瞼は半分閉じたり開いたりと、どう見ても激痛に耐えている表情だった。


「葉月ちゃん、さっき……あれは、違うからね」

「え……?何……」


聞き返そうとしたけど、そこでサイレンの音が聞こえてきた。誰かが通報してくれたようだ。


「早っ、そう言えばここ消防近いんだった」


南雲さんと和泉君もこちら側へ渡って来た。南雲さんが救急車を呼んでくれたらしい。和泉君は少し離れて見ている。つかつかと私達の元へやってきた南雲さんは落ち着いた口調で私に問いかける。


「葉月さん、怪我はない?」

「あ、……はい。大丈夫です」

「そう、良かった。でも、怜君はちょっとやっちゃったかな。動かないで。すぐ救急車来るから」


流石にこんな時にふざけたりはしない南雲さんが冷静に言う。私も気が動転しているので普通に答えてしまった。

この人が七瀬さんに寄り添っていたのに……


「あ、あの、南雲さん。私がこんな風にしてしまったんですか?」


彼女は、ん?と少し眉を上げて、


「そうと言えばそうだけど、あなたは悪くないよ」


クイと、顎を横転している車の方へしゃくる。


「あのおバカが猛スピードで確認せずに曲がろうとした所に葉月さんに気づいて、急ブレーキをかけたんだろうね。反対車線まで滑って行った挙句に対向車とぶつかって、あの有様だよ。それでも、咄嗟に怜君が庇わなかったらヤバかったね」


嫌悪感も露わに、目撃した事故のあらましを教えてくれた。

車が私にぶつかる寸前に、飛び込んできた七瀬さんに助けられたと言う事らしい。


丁度、運転手と思われる若い男性が逆さになった車の窓から這い出てくる所だった。話の通り、少し離れた場所に横が傷だらけのもう一台の車が停まっている。


私が悪い訳じゃない。と、聞かされたけど、七瀬さんは怪我をしている。あの車だって私が横断しなければ事故を起こさずに済んだ筈だ。


「七瀬さん、ごめんなさい、……ごめんなさい」


ぽたぽたと涙が溢れてくる。七瀬さんに、怪我をさせてしまった。


「ぜ、全然!大丈夫だから!葉月ち……あぐっ」


無理に起きて腕を押さえて呻く七瀬さん。その痛がり様に私は慌てる。


「な、七瀬さんっ七瀬さんっ!」

「落ち着いて!怜君は動かないで!」


南雲さんに嗜められて二人共黙り込む。そこへ、救急車が到着した。


ストレッチャーに乗せられて七瀬さんが運び込まれる。救急隊員の人がこちらに話掛けてきた。


「患者さんに同行される方は居ますか?」


一緒に病院へと言う事だろう。私は彼が心配で仕方がなかったのだけど、こういう時にどうすれば良いかわからなくておどおどしていたら、


「この娘が付き添います。お願いします」

「え……」


南雲さんが私の背中を押しながら救急隊員に答えた。


「分かりました、では中へ」

「は、はいっ」


乗り込もうとする私に南雲さんが話し掛けてきた。


「葉月さん」

「はい?」


彼女は少し眉を下げて、


「……ごめんね」

「え、……」


急に謝られ、何故?何が?と思考を働かせる暇を与えないかのように南雲さんはやや強く口調を変えて、


「さ、行って行って。警察には私が話しておくから。あなたもどこ打ってるかわからないんだからちゃんと診てもらってね。って、あ、彼はいいの?」


そう言われて思い出した。和泉君と一緒に居た事を。南雲さんがそこの君、おいでーと彼を呼ぶとすぐに走って来た。


でも、何か言葉を発する訳でもなく、ただ立ち竦む彼に私は言った。


「和泉君、ごめんなさい。私、行くね」

「あ……」


彼は何か言おうとした様に口を開いたが、それより早く私を乗せた救急車の扉はバタンと、閉まった。丁度パトカーが到着したのと同時だった。



事故現場から車で十分も掛からずに、この辺りでは一番大きな総合病院へ到着した。普段なら平日の昼間でも混雑する街の中心地なのだけど、救急車はサイレンを鳴らしながらノンストップで走ってきた。


そして、軽い擦り傷程度で済んだ私は今、病院の待合室で一人座っている。

数年前に建てられた新しい病院はとても綺麗で大きい。ドラマで出てくるような開放的な待合室に隣接するカフェには、有名なコーヒーショップが出店している。


少し落ち着いた私はお母さんに連絡をした。すぐにこちらへ向かうと言って通話を切った。多分、渋滞に巻き込まれながら、到着までは救急車の三倍は時間が掛かるだろう。


待っている間、七瀬さんと和泉君、そして南雲さんの事を考えていた。

あの時、やっと勇気を出して和泉君にお話出来ると思ったのに、こんな事になってしまった。

何故あのタイミングだったのだろうと思うと運命と言う物を呪ってしまう。

向かい合い、ともすれば恋人同士にも見えたかも知れないあの時の私と和泉君。そんな場面を更に恋人同士のような七瀬さんと南雲さんに目撃され、私も腕を組んだ二人を見てしまった。

取り乱した私は、和泉君に大事な返事を返す事ができず、交通事故を起こして七瀬さんに怪我を負わせてしまった。

痛みに耐えながらも私を心配してくれた七瀬さん。左腕の血が酷かった。大丈夫かな……


「はっ!……腕!」


そこで気付いた。ピアノ。七瀬さんの腕の怪我はちゃんと治るだろうか。

またあの素敵な演奏が出来るようになるだろうか。


私の……せいで。


また、涙が溢れてきた。ぽたぽたと、制服のスカートに染みを作っていく。


「うう……っく、……ひぐっ」


ふいに隣に誰かが腰を下ろした。同時にふわっと頭に温かい何かが触れた感触。


「葉月、大丈夫?どこか痛い?」


お母さんが優しく頭を撫でてくれていた。顔を見た瞬間、お母さんに抱きついていた。


「うう……お母さん、お母さん……ぐずっ、えぐっ」

「不安だったのねぇ、大丈夫だよ〜」


背中をとんとんされていると、次第に落ち着いてきた。


「どう?落ち着いた?」

「……うん、ありがとうお母さん」


二人で並んで座った。私が落ち着いたのを見計らって訊く。


「どうしたの、何があったの?」

「えと、その……」


「あの……」


背後からの声に二人で振り返る。そこにはお母さんと同年代と思われる綺麗な女性が立っていた。

ネイビーのスカートスーツをピシリと着こなし、綺麗な黒髪をサイドに纏めた出立ち。

顔を見てすぐに七瀬さんのお母さんだとわかった。


すかさず立ち上がり、深々と頭を下げる私。


「な、七瀬さんのお母さんですかっ、あの、私……」

「ええ、存じております。桜井葉月さんでしょう?」

「は、はい……」


彼女の話によると、病院から連絡を受けて、警察に連絡。事情を聞いたそうだ。

私の事は七瀬さんにからよく話されていたそうだ。恥ずかしい。


「あの、私のせいで七瀬さんが怪我をして……ごめんなさい!」


頭を下げたのだけど、


「警察の方から話は伺ってます。あなたは悪くないのよ?葉月さん」

「でも、私を庇って怪我を……」

「あなたは大丈夫なのでしょう?後で怜を褒めてあげないと」


そう言って微笑む彼女。それ以上、私には言葉が無かった。


「あの、七瀬さん。私は娘から連絡を受けてつい今しがた到着したばかりで事情がわかりません。その、うちの娘が何をしたのでしょうか」


お母さんが七瀬さんに事情を訊く。


「はい。掻い摘んで申し上げますと、横断歩道を渡ろうとしていた葉月さんを、前方不注意の右折車が跳ねそうになって、そこをうちの息子が助けたそうです」

「は……はあ……その時に怪我をされた、と」

「そのようです。幸い、大事には至らなかったようでなによりでした」


病院と警察から事情を聴いている七瀬さんのお母さんは落ち着いていた。


「あ、あのっ、七瀬さんの怪我は、腕の怪我は大丈夫なんですかっ、またピアノは弾けますかっ!」


七瀬さんのお母さんの落ち着きとは反対に、私は彼の怪我と、その後遺症が心配だった。私の勢いに彼女は少し驚いた様に眉を上げてすぐに元の優しい表情へと戻り、


「この後病院の先生から説明があるから詳しい怪我の状態の事はまだ分からないけれど、少なくとも後遺症が残るような深い傷では無いようよ?だから安心してね?葉月さん」

「そう……ですか」


柔らかい笑顔で安心してね、と言われた私は急に力が抜けてフラついてしまった。ちょっと葉月、大丈夫?とお母さんに支えられてソファーに座らされた。







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