デュエット


七瀬さんのピアノに賭ける情熱の話が終わって、例のピアノ部屋へ案内された。


廊下から一段上がって、その離れの入り口の厚手の扉を開ける。


「床も補強してるから一段高いんだよ」


中は割と広い部屋なんだと思う。というのも、どっかり設置されたグランドピアノが大きくて、部屋の広さが実感できないのだ。


内装は白を基調としていて清潔感がある。この間、外からは見えなかったけどピアノの向こう側、小さな窓がある壁側にはアンティーク調のソファーとローテーブルが設えられ、窓が無い北側の壁には天井まで届く造り付けの棚があって、色々な雑貨や写真立てがディスプレイされている。下の方の棚には楽譜と思われる本がびっしりと並べられていた。


「うわーグランドピアノ、綺麗」


感嘆の声を上げる凛。実際、側で見ると真っ黒なピアノはピカピカに磨かれていて、鏡のように私達を映し出していた。

私は隣に立つ七瀬さんを見上げて、


「本当に綺麗ですね、このピアノ」

「暇さえあれば弾いているか磨いているかのどっちかだね」


ついーっと、くもり一つ無い鍵盤の蓋の上に指を這わせながらそんな事を言う彼に、私はちょっと意地悪を言ってみる。


「ふふっ、学校の勉強はしないんですか?」

「それはそれで勿論、やってるよ。この部屋は防音だから静かに勉強できるよ。自分の部屋に行くのは着替える時と寝る時くらいかな?」


そう言って笑う七瀬さんに私も笑顔を返す。そこへ凛がふいに、


「そう言えば七瀬さんてどこの学校なんですか?」

「え?ああ、近いよ。K高だから」


K高の名前に凛と奥村君が揃って反応した。


「えっ?!K高ですか、頭イイんですね!」


そうだった、凛達には高校の話はしていなかった。私も凛も奥村君も、三人ともK高志望だ。


「私たち皆んなK高第一志望なんです!七瀬さん!」

「そうだったの?それは嬉しいね」


あくまで志望なんだけど、まるで入学が決まってるかのような凛のテンション。実際この娘は優秀だ。最近では奥村君も成績を上げていると聞く。

そろそろ本気で頑張らないと私、危ないかも。


「葉月ちゃんも教えてくれればいいのに。来年楽しみだなぁ」

「あの、自信なくて……もし落ちたりしたらと思うと」


凛なら多分心配ないだろう。でも、私は合格して同じ高校行きます!とはとても言えなかった。成績が悪い訳ではない。K高が狙える位置には居る筈だ、今の所は。でも自信があるかと問われたら大丈夫、とは言えない。なんとなく勉強に身が入らないと言うか……五月病?三年生になった今頃?いやいや、学校は嫌いじゃないし、部活も楽しい。なんだろう、急に……目の前にいる人が好きになっちゃうし。


「まあ、こればかりは大丈夫だよ、とは軽はずみに言えないなぁ」


そう言う七瀬さん。それはそうだよね。上辺だけの応援なんか誰も聞きたくない。そんな事を考えていたらいきなり凛が、


「あ、づっきー。七瀬さんに勉強見て貰えば?」

「な!そんな事……」


突然何を言いだすのこの娘は!勿論そうなれば彼と一緒に居られる時間が増えて嬉しいけど、バイトとか自分の勉強もあるだろうし……


「葉月ちゃんさえ良ければいいよ?」

「ええっ!いいんですか?!」


二度びっくり!そんな簡単に言っちゃっていいの?!


「バイトが無い時なら構わないよ、僕も葉月ちゃんに合格して欲しいからね」


あっさり了承してくれた七瀬さん。突然の事にあわあわして上手く言葉が返せないでいると、


「良かったね!づっきー、現役K高生に勉強教えて貰えるよ!」

「大山さんと奥村君は?大丈夫?」


二人に訊く七瀬さん。ああっ、出来れば二人きりがいいですっ!って思ってしまう私は嫌な子?


「はいっ、大丈夫です!伊蕗と二人で頑張ってますから」

「うえっ?!り、凛?!」


奥村君の腕にぎゅ、としがみつく凛。赤い顔で奥村君が慌てている。……いいなぁ、それ。


「あはは、余計なお世話だったね。それで、」


くるっと私に向き直る。ちゃんと、ちゃんと返事しないと!


「どう?葉月ちゃん。塾より詳しく教える自信はあるよ?」

「は、はいっ、是非お、お願いしますっ!」


ぺこと頭を下げてお願いした。


「了解した。二人で頑張ろう」

「はいっ」


七瀬さんの背後でまだ奥村君にくっついたままの凛が、良い笑顔で私にピースサインを送っていた。ありがとう、凛。嬉しいけど心臓に悪いからびっくりさせ過ぎないで?


「さーて、今日は三人もお客様がいるから頑張っちゃうよ〜」


腕まくりの仕草で気合いをアピールする七瀬さんに、わーっと三人共拍手を送る。


「では、今日は僕の演奏の為にお越し頂きありがとうございます。どうか最後まで楽しんで行ってくださいね」


そう挨拶して丁寧にお辞儀をする七瀬さん。

私達はソファーに座って何故か背筋を伸ばす。私は二回目だけど、凛と奥村君は心なしか緊張しているような気がする。それくらいピアノに向かう七瀬さんの表情は真剣で、……心奪われる。


そして静かに、演奏会は始まった。



前回同様にベートーヴェンの「月光」から始まり、続いて部屋中が震える音でショパンの「幻想即興曲」、でも次の、私が大好きな曲は披露されずに別の曲をその後三曲ほど演奏してくれた。


そこまで弾き終わり、おもむろに七瀬さんは立ち上がる。

隣に目をやると、涙ぐんだ凛とぽかんと口を開いたままの奥村君。正直言って私も感動している。オープンな庭で聴いた前回よりもピアノの部屋ここで聴く方が、訴求力と言うか臨場感と言うか、圧倒的な音楽おとに捩じ伏せられた感覚に心が震えるのだ。


「今のはベートーヴェンの「悲愴」です。最後に……」


私達の元に歩み寄った七瀬さんは、私の目の前に女性のような綺麗な手を差し出して思いもよらぬ事を言った。


「桜井葉月さん」

「は、はいっ?!」

「僕と連弾をお願いします」


れん、だん?え、なに?


「一緒に弾こう、葉月ちゃん」

「え……でもピアノなんて弾け……」


小学生の頃、鍵盤付きハーモニカをいじったくらいの素人に突然一緒にグランドピアノを弾けなんて……


「大丈夫、僕に任せて」


そう言って穏やかに微笑む七瀬さんに逆らえず、その手を取った。


一人ではそこそこ幅のある、二人では狭い長方形の椅子に座る。二人で。

目の前には白と黒の鍵盤がずらりと並んで私には何が何だかわからない。けど、隣を見ると優しい笑顔の七瀬さんが居て、なんだか安心した。


「葉月ちゃん、両手の人差し指を出して」

「こう、ですか?」


ぴん、と握った両手から人差し指だけ伸ばす。


「そのままここと、ここを一定のリズムで弾いてみて」

「は、はい」


言われたまま、数ある鍵盤の中の二つを一定の間隔で弾いてみる。


「そう、そのまま弾いていてね」


そう言うなりバンッ!と、右側に座る七瀬さんが弾き出した。

びっくりしたけどなんとか一定の間隔を保って鍵盤を叩く。その間にも七瀬さんは流れるように激しく、または優しく、軽やかに、時には私の腕を跨いで左端まで腕を伸ばして私に合わせて曲を奏でてゆく。

七瀬さんが近くに感じる。隣に居るから近いのだけど、もっと……言ってしまうと、二人で溶け合ったような……


夢の中に居るような感覚でひたすら手を、指を動かす私の両手に七瀬さんの手が重なって……


バァーン!


演奏が終わった。夢から覚めた私は呆けているであろう顔を隣へ向ける。


「葉月ちゃん、ありがとう。楽しかったね」

「……はい、とても……」


七瀬さんは椅子から立ち上がり、私の手を取って、


「さあ、お客様に挨拶しよう」

「はい」


手を取り合って凛と奥村君の前に立つ。凛はぼろぼろ泣いていた。奥村君も何か堪えるような表情でこちらを見ている。そんな顔をされると私まで感極まってくるけど、ここはなんとか我慢した。夢の案内人、七瀬さんと共に二人の友人に挨拶せねば。


「素敵なお客様、今日はありがとうございました」


手を取ったまま、ボウ・アンド・スクレープでお辞儀をする七瀬さん。なら私も、とスカートを左手で摘んで右足を引くカーテシーで凛と奥村君にご挨拶。小さな頃、絵本で見た王子様とお姫様のように。


観客の二人から拍手が送られた。それはしばらくの間続いた。


手、大丈夫?と、七瀬さんに心配されていたけど。

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