ベートーヴェン


彼の後に付いて敷地に踏み入り、庭に案内された。

四つ置いてある椅子の一つには先客が居た。


「この子は天気が良いと、よくここで昼寝してるんだよ」

「ふふ、可愛いですね」


チャムと呼ばれていたその猫は、椅子の座面でまんまるになっていた。

彼がチャムの隣に椅子の一つを移動して、


「ここなら丁度テラス窓の前だからよく見えるよ」

「ありがとうございます。えと、お兄さん」


何と呼んだら良いのかわからず、取り敢えずそうお礼を言って腰を下ろす。


「そうか、お互い名前知らないんだよね、確かに君より少しお兄さんではあると思うけど」

「あ、そうですね、私は桜井 葉月さくらい はづきです。中三です」


覗き見のお詫びに私から名乗る事にした。このくらいの個人情報なら大丈夫だろう。多分。


「葉月ちゃんね。僕の名前はルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン、宜しくね?」


ぱちっとウィンクする彼。


「ウソですよね?!」

「ごめん、嘘。なごんだ?」

「引きました……」


流れる様に嘘情報を口にする自称ベートーヴェン。

正直に本名を名乗ってしまった事を少し後悔した。

でもすぐに、


「ごめんね?お客さんの前で演奏なんてなかなか機会が無いからね。ちょっと調子に乗っちゃったかな」


あははー、と笑う自称偉大な作曲家。


「いえ……」

「僕の本当の名前は七瀬 怜ななせ れい、高校二年生だよ」

「今度は本当ですか?」


この爽やかな笑顔が、今ひとつ信用出来なくなり掛けていた。ジト目を向けて確認する。


「今度は本当。ほら、学生証見て?」


そう言って白いシャツの胸ポケットから手帳を出して見せてくれた。


「あ、K高なんですね!すごい」


K高校は県内では上位の進学校だ。その自由な校風と、可愛い制服で人気があり、偏差値も高い。私の志望校でもある。


「別に凄くはないさ。毎年百人以上入学してるんだし」

「その中に入れない人もたくさんいますけど?」


しれっと優等生発言する七瀬さんに思わず当たってしまった。


「ああ、そうか葉月ちゃんは受験生か。ごめん、配慮が足りなかったね」

「あ、いえ、私こそごめんなさい。なんか不安で」

「僕もそんな感じだったよ。周りが皆んな勉強に力を入れ始めるからね。自分が今、どの辺りの成績なのか常に不安だったよ」

「うう……」


更に不安を煽るような事を言う七瀬さん。私は項垂れてしまう。


「あっ!ごめんっ!またやっちゃった僕!」


あたふたしだした七瀬さん。その慌てぶりが、さっき迄の余裕を感じさせる年上男性の雰囲気とのギャップでつい吹き出してしまった。


「ぷふっ、いえ大丈夫です。七瀬さん、気にしないで?」


私の様子に少し驚いた表情を見せて、すぐにまた人懐こい笑顔に戻る七瀬さん。楽しい人だなぁ……


「そうだ、演奏前にちょっと待ってて」

「はい?」


そう言うなり家に戻ってしまった。取り残された私と一匹。

すやすや眠るチャムに顔を寄せて、よく観察してみる。

耳を澄ますと、小さな寝息が聞こえる。

すー、すー、ぐる、すー……

あー可愛い、撫でたい。起きちゃうかな?大丈夫かな?

そーっと手を伸ばしてこんもりしたお腹にふわっと触ってみる。


「うぬ、にゅ〜」


変な声を出して、椅子の上でぐーっと伸びをするチャム。

座面から体が半分出て今にも落ちそうになる。


「あっ、あっ、落ちちゃうよ」


慌てて椅子から落ちないように、伸びた後ろ足に両手をそえた。


「ふん〜」


でも何事も無かったかのように足を畳んで、またまんまるになって眠りに落ちたチャム。


「はぁ〜……」


落ちなくて良かった、と安堵のため息をいた時、


「葉月ちゃん?どうしたの?」

「あ……」


トレーを持った七瀬さんが立っていた。

その時の私はチャムの前で両膝を突いて、両手の平をチャムに向けた変なポーズ。途端に顔が熱くなった。


「なんでもないですっ」


急いで椅子に座り直す私。あー変なとこ見られたー。


「そう?あ、これよかったら飲みながら聴いてね」


持ってきたトレーにはお洒落なティーセットが乗っていた。ビスケット付きで。


「あ、ありがとうございます」

「それじゃごゆっくり。準備するね」

「はいっ」


ニコッと笑ってまた家の中へ入る七瀬さん。


なんかドキドキしてきた。これってすごく贅沢な事なんじゃ?

だって私だけの為だけにピアノを演奏してくれるんだよ?

わーどうしよう、どんな風に聴いたらいいの?ブラボーとか言うの?正座した方がいい?


ぐるぐる考えても仕方がない。取り敢えずお茶を頂こう。

ポットからティーカップへお茶を注ぐ。紅茶の上品な香りが鼻孔をくすぐる。


「あ、おいしい」


暖かい紅茶が喉を潤す。そう言えば驚いたり慌てたりして喉が渇いていた。


「おまたせ、葉月ちゃん」


カップから顔を上げると、さっきと同じ真っ白なシャツとグレーのスラックス姿の七瀬さんが、ピアノが置いてある部屋の開け放ったテラス窓の所に立っていた。ただ、さっき迄と違う所が彼の髪だ。

下ろしていた前髪をアップにして後ろへ流していた。それが整った顔立ちをより精悍に見せていて、私は息を呑んだ。


「あ、これ?気分気分。ピアニストぽくない?」


髪の毛を指差してニッと笑う七瀬さん。

私はほうけながらコクコクと細かく首肯する事しか出来なかった。


「では、これから素敵なお客様の為に、一生懸命演奏させて頂きます。どうか最後までお付き合い下さい」


胸に手を当て、腰を折ってお辞儀をする七瀬さん。

我に返ってぱちぱちと拍手を送る私。


部屋のほぼ中央に鎮座するグランドピアノの椅子に座り、背筋を伸ばして目を閉じる七瀬さん。

私からは、彼とピアノは真横から見る形になっていた。


緊張する。私は聴くだけなのにドキドキする。それはこれから演奏が始まるからなのか、それともさっきまでと雰囲気が全く違う七瀬さんの佇まいに対してなのか。


すっと瞼を開いて両手を鍵盤の上へ伸ばす。

ゆっくり鍵盤を撫でるように演奏が始まった。静かな曲。これは私も聴いた事がある。クラシックなんて全然わからないけど、好きな曲。確かベートーヴェンの……


目を閉じて聞き入ってしまう。居眠りじゃないからね、七瀬さん。


五分程の演奏が終わった。拍手をしようと手を上げかけると、すぐにまた別の曲の演奏が始まった。慌てて手を下ろす、危なかった。


そしてこれも聴いた記憶がある。多分誰もが聴いた事がある曲。音楽の授業で。

凄い速さで鍵盤を流れる七瀬さんの細くて長い指に見惚れてしまう。


次の曲、綺麗なメロディ。でも初めて聴く曲。

段々と音が華やかさを増していく。

曲の終盤、華やかさと力強さがクライマックスを迎えた時、私は感動して涙が溢れそうになった。けど、なんか恥ずかしいのでなんとか我慢した。


静かに演奏が終わった。正味十五分から二十分くらいの演奏だったのに、私には映画一本観終えたような狂った時間感覚と、泣きたくなるような感動が残った。


七瀬さんが立ち上がって私の方を見る。


「如何でしたか?お気に召したでしょうか、素敵なお客様」


微笑む七瀬さん。額には薄ら汗が浮かんでいた。

今までクラシックの演奏会なんて小学校の体育館で地元の楽団が演奏するものしか観た事が無かった。

それはそれで良いものだったのだけど、今日のこれは、


全然違った。


「七瀬さん、ごめんなさい。私はクラシックに詳しく無くて。でも、凄く、凄く、心に響きました。感動しました。ありがとうございます」


そう言って立ち上がって、惜しみない拍手をこの素敵なピアニストに送った。


「ありがとうございました」


右腕を胸の前に、左腕を伸ばして右足を引いた、ボウ・アンド・スクレープでお辞儀をする七瀬さん。

そのスマートな所作が様になっていて、私はぼうっと見惚れながら拍手を続けた。目は彼に釘付けで。


あんまり拍手が続いた為、手が痛くなるからもういいよ?って心配された。


その後、二人で庭のお茶会を楽しんだ。

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