かぎしっぽ

上野 からり

鍵尻尾とピアノの旋律


猫がついて来る。


お母さんにお使いを頼まれて、近所のドラッグストアへ買い物に行った帰り、その猫に会った。

野良では無いらしい。グリーンの首輪を付けていたからだ。


中学三年生の五月の連休。文化部の私は部活は休みなんだけど、呑気に遊んでいる気分にもなれず、かと言って高校受験の為の勉強にも身が入らずで、宙ぶらりんな気分で過ごしていた。

仲の良い友達は連休中はバーベキューに行くとか言ってたな。まあ、あのは優秀だから大丈夫だろうけど。


そんな事を考えながら歩く。出会った猫と共に。

首輪にぶら下げた小さな鈴が、その子が歩くリズムに合わせてチリンチリンと可愛く鳴っている。

何処の猫だろう?逃げ出してきたのかな?


この柄は……確かさばトラだったかな?茶色のシマシマなら茶トラ、グレーのシマシマなら鯖トラだったと思う。確かにあの美味しい魚の鯖によく似た色だった。

体型はお世辞にもスリムとは言えなくて、むっちりしていた。顔もまんまるで愛嬌がある。


一番の特徴は尻尾しっぽ


その子の尻尾は真っ直ぐに長いものではなくて、短くて先がカクッと曲がっていた。

カギ尻尾って聞いたことがある。幸運を運んでくれるとか幸せを引っ掛けてくれるとかなんとか。


言い伝えは兎も角、見た目が可愛い。尻尾の先が、体毛でまんまるに見えるのだ。その短いまんまる尻尾をぴんと立てて、ぽってりしたお腹を振りながら私の後をついて来ていた。


私は一旦歩みを止めてみた。するとその子は私の足元まで来て、足に擦り寄ってきた。そして足の間を行ったり来たり、すりすりすりすり。

しゃがんで丸い頭を撫でてあげると、気持ち良さそうに目を細めて、喉をゴロゴロ鳴らし始めた。

とても可愛いのだけど、


「むぅ、困ったな」


ここは住宅街だからまだ大丈夫かも知れないけど、家に帰るにはこの先の大通りを横切らなくてはならなかった。

このままこの子がついて来てしまっては危ない。


「どうしよう、キミはどこの家の子なの?」


こんなに人に馴れているのだ。野良ではない筈だ。体も汚れていないし毛並みも艶がある。

どうしようか悩んでいると、ふと耳に何かの音色が聴こえてきた。


「ピアノ?」


住宅街の何処かの家でピアノを弾いているらしい。

猫の頭を撫でながらさて、どうしたものかと考えようとするのだけど、ピアノが奏でるメロディが気になって考えがまとまらない。

決して音が大きいとか激しいとかでは無くて、とても、

とても耳に優しく、静かな曲調にふらふらと吸い寄せられて音のする方へ歩いて行った。猫も足元をついて来ている。


その家はすぐに見つかった。綺麗な庭、落ち着いたネイビーブルーの外観。

門扉の前を通り過ぎるふりをして中にチラリと目をやると、一階の窓に人影が見えた。人が出入りできる大きなテラス窓は開け放たれていたけど、白いレースのカーテンが引かれて、はっきりとその人物が目えるわけではない。でも風に揺れるカーテンの向こうでゆっくりと、両手が動いているのがわかる。この人が音の主。


近づいて、家と道路を隔てるフェンスから顔を出して中を伺う。これでは不審者だ。


でも、このゆったり流れる旋律に心を奪われた私は窓を凝視する。どんな人が弾いているんだろう?上品なご婦人?それともダンディなおじ様?


ピタリ、と演奏が止まった。あ……あれ?窓の向こうの人の顔がこっちを見ているような?


やばっ!すかさずフェンスの下に身を隠す。

ドキドキする……覗き見がバレれた?のかな?それよりここに留まっているのは……


「あの、どなた?」

「ひっ……」


恐る恐る声の主へ顔を向けて、


「ごめんなさいっ!の、覗くつもりは無くてっ、いえ、覗いたんですけどっ、そのっ、あのっ、ピピピアノの音が、その……」


全力で頭を下げながら弁解していた。


「ああ、おかえり。チャム」

「にゃおん」


顔を上げると、カギ尻尾の猫はピアノの家へ入って行った。


「……」

「……」


ピアノの人、かどうかはわからないけど、二人きりになった。気まずい。

しかも私は頭を下げたおかしな格好で固まっていた。


「えーと、なんかよくわからないけど、取り敢えず頭下げるのやめて貰っていい?」

「は、はいっ!」


がばっと直立する。そこで初めて、その人の顔を……よく……見た。


「ウチ、見てたみたいだけど、何か御用だったかな?」


何か言ってるようだけど、耳に入って来ない。だって……


「あの、大丈夫?君?」

「はっ!あ、あ、あのあのっ!ごめんなさいっ」


深々と頭を下げる私に、


「――っ」


ガチガチの両肩に何かが触れた感触。

この人の手がゆっくりと、私の上半身を起こす。


すごく……あたたかい手。恥ずかしい。


「あのね?君、頭を下げてばかりで話ができないんじゃ逃げてるのと変わらないよ?」

「……あ」


おずおずと、正面に立つ人に目を向ける。


「落ち着いた?」


ニッコリ微笑むピアノの人。少し落ち着いた私はまともな謝罪に入る。


「はい……すみませんでした。……その、取り乱して」

「ああ、ごめんね?少し言い方が良くなかったかな、僕がいじめてるみたいになっちゃったかなぁ」


まいったなぁ、と、頬を掻くピアノの人。

すごく優しくて、……格好良い人。


「えと、その、ね、猫が、私の後を付いてきて」

「チャムが?あーそうか、なるほど?で、ウチを見ていたのは?」


ニコリと笑顔で訊かれたくない事を訊かれた。


「それは!……ピアノの音が聞こえてきて、気になって」

「うんうん」


私の言い訳に笑顔で相槌を打つ彼。


「その、……綺麗な曲だったからつい、えと、ど、どんな人が弾いてるのか気になって……ごめんなさい」


もう一度ぺこと頭を下げてすぐ起こす。また怒られそうで。


「そう、ありがとう」

「え?」


お礼?覗き見にお礼?


「いや、僕の演奏を褒めて貰ったからね、だから、ありがとう」

「いっ、いえ……」


やっぱりピアノを弾いていたのはこの人。

ニコニコ笑顔を向けられて顔が熱くなる。多分今、私の顔は赤い。


「ところで君、時間ある?」

「はい?」

「あ、ごめん。いきなりナンパみたいだったね、ははは」


ややバツが悪そうな表情で彼は言う。


「ピアノ、もう少し聴いていかない?観客が居ると僕も演奏に身が入るからね」


少し早口で彼は、演奏会の提案をした。


「えと、でもしょ……初対面の人のおうちに上がるのは……」


優しそうな人に見えるけど、流石に初対面の男の人の家にノコノコ上がり込むのは良くない。


「うん、それはそうだよね。そこで、こちらをご覧ください」


そう言ってフェンスの向こう側を指差す。長身の彼はひょいと腕を伸ばすけど、私には見えない。

仕方がないのでまた、フェンスに手を掛けて背伸びをする覗き見スタイルになる。


辛うじて目だけはフェンスの高さを越えて、家の庭が見えた。

先程見た窓の外、手入れされた庭は一面芝生で白い花をつけた細身の木が植えられていた。その木の下には丸いテーブルと、それを囲むように四つの肘掛け付きの椅子が置いてある。


「そこのガーデンチェアならどう?」


まあ、一応そと?だし、いいのかな?いいよね?正直言うと、まだピアノの演奏が聴きたいのと、……この人にも、興味……ある。


「え、えと、そこ、なら、まあ、はい」


背伸びしたままの体勢は辛い、足が震えてきた。その姿が可笑しかったのか、彼が小さく笑って、


「ふふっ、少し安心して貰えたかな?じゃあ、どうぞ」

「あ、はい」


考えてみれば住人が見ろと言ってくれたのだ。堂々と正面の門から見れば良かったと、今思って恥ずかしくなった。

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