第45話 最後の授業

「――かはっ」


 自分の口が血を吐くのを、カイル=ミスティス=マギオンは他人事のように俯瞰していた。


「……不思議なもんだね。惨めに負けたってのに、悔しくない。むしろ、清々しい気分だ」


 左胸を深く拳で打たれながら、カイルは言った。

 こんな穏やかな気分になれたのは、随分と久しぶりだった。それこそ何十年も。まだ、二人の兄弟が無邪気な関係だった頃以来だろう。


「本気の喧嘩ってのはそういうもんだろ」


 ニヤリと笑って、フィストは言った。


「フィスト君……君は、嘘つきだ」


 カイル教師が情けなく笑い返す。力尽きて、吸魔化は解けていた。後付けの吸魔化は、どうあがいても無理のある術だった。加えて、元より素養に乏しいカイルである。部不相応の大魔術を連発した代償で、元に戻ってもなお、髪は半ば白くなり、身体中のあちこちから血を噴き出していた。それでも、命だけは繋がるだろう。


「君は、僕を殺したね?」


 分かっていて、カイルは言った。


「まぁ、そうかもな。魔術士のカイル先生は、殺しちまった」


 悪びれもせず、フィストは言った。フィストの繰り出した拳は、カイルの胸の大点穴、死穴を半ば砕いていた。死にはしないが、まともに魔力を練り上げる事はもうできないだろう。フィストが師匠に習った、魔術士殺しの技だった。


「どうせなら、本当に殺して欲しい所だけどね。生き残った所で、恥を晒すだけだ」

「知らねぇよ。俺が勝ったんだ。文句を聞いてやる筋合いもねぇ」

「ふふ。その通りだ。敗者には、負け方を選ぶ権利すらない。僕の完敗だよ」


 素直に認めると、カイルは部屋の隅で呆けているアイリスに視線を向けた。


「……すまなかったね。大人の喧嘩に、子供の君を巻き込んで」


 そう。これはただの、バカな兄弟喧嘩だ。今ならば、カイルは素直に認める事が出来た。アルバートがフィオナを奪った時にちゃんと喧嘩出来ていれば、こんな事にはならなかったのだろう。気付くのが、あまりにも遅すぎたが。


「……なによ! 今更謝るなんて……ズルいわよ!?」


 アイリスには、泣く事しか出来なかった。罵って、責めて、罵倒してやりたいのに、そうするべきで、そうしなければいけないと思うのに、憑き物が落ちたようなカイルの顔を見ていると、ただただ哀れで、どうしてもそんな風には思えないのだった。


「リーゼさんもだ。君には、とんだとばっちりだった」


 別の方向に視線を向けて、カイルは言った。

 位相変位は既に解け、リーゼも解放されていた。


「……バロウズは、どうしたんですか」


 リーゼの目には、憎悪の炎が灯っていた。アイリスやフィストのようには、このイカレた犯罪者を許す気にはなれないのだった。力を得る為だけに、この男がどれだけの人間を殺してきたのかを考えれば。


「喰らったよ。昨日の内にね。実際に食べたわけじゃないが、似たような物さ」

「……あなたは、バケモノです! 魔族なんかよりももっとおぞましい! 人食いの、汚らわしい悪魔です!」

「そう思うなら、彼の代わりに僕を殺してくれないか? そうすれば、君の手柄にもなる」


 懇願するように、カイルは言った。


「……誘惑には乗りません。あなたは犯罪者として、正しく罰せられるべきです」

「あぁ。君なら、そう答えると思っていた。清く、正しく、純粋で、愚かな子だよ。この世の中に、正しさなんてものが存在すると本気で信じているんだからね」


 立っているのも限界で、崩れるようにカイルが座り込む。


「あなたの言う事なんか、聞きたくないし聞きません! アイリスさん! 早く警察を呼びましょう! フィストさんも、病院で手当てしないと!」


 裸なのが気になるのだろう、チラチラと、見ないようにしているような雰囲気を出しつつもしっかり大事な所をガン見して、リーゼは言った。


「あー……その事なんだがけどさ……」


 頬を掻いて、気まずそうにフィストは言った。


「わりぃんだけど、俺、多分……死ぬわ……」


 その一言で糸が切れた様に、フィストはばたんと卒倒した。


「フィストさん!?」

「フィスト!?」


 驚いて、二人が駆け寄る。


「なによこれ!? どうなってるの!?」

「カイル先生! あなたは! フィストさんに何をしたんですか!?」


 リーゼが聞いた。


「何もしてないよ、とは言えないかもしれないけどね。君も見てただろ? フィスト君は、文字通り全力以上の力を使って戦ったんだ。ただの拳で、概念魔術を相殺する程の魔力を使ってね。それで、魔力を使い果たした。本来ならそうなる前に気絶する所を、彼は経絡系の安全装置を解放していたんだ」


 カイルの説明に、二人の顔が強張った。魔術士である二人は、魔力の枯渇がなにを意味するのかよく理解している。


「そんな……嘘……」


 力が抜けて、リーゼがその場にへたり込んだ。


「フィスト!? フィスト!? 冗談じゃないわよ! 折角勝ったのに、起きなさいよ!?」


 がくがくと、アイリスはフィストの身体を揺さぶった。フィストは穏やかな顔で、眠ったように目を閉じている。が、息をしている様子はなかった。慌てて胸に耳を当てるが、心臓の音は聞こえない。


「……アイリスさん、嘘ですよね……」


 救いを求めるように、リーゼが尋ねた。


「……止まってるなら、動かせばいいだけよ!?」


 八つ当たりのように叫ぶと、アイリスはフィストの胸に触れて弱い電撃を放った。ビクンビクンとフィストの身体が跳ねる。心臓を確認すると、少しだが、鼓動があった。が、それはすぐに弱くなり、止まってしまった。


「なんでよ! 止まるんじゃないわよ!?」


 再び電気ショックを与える。


「無駄だよ。魔力は魂の血液にして、生命を動かす燃料だ。それが尽きてしまったら、どうしようもない」


 頭にきて、リーゼはカイルの顔を思いきり蹴りつけた。そのまま馬乗りになり、めちゃくちゃに殴りつける。


「なに他人事みたいに言ってるんですか! あなたのせいなのに! あなたがフィストさんを殺したんじゃないですか! なんであなたみたいなクズが生き残って、フィストさんみたいないい人が死ななきゃならないんですか!? こんなのって、おかしいじゃないですか!?」


 手の皮が剥けるのも構わずに殴り続けると、不意にリーゼは力尽きて泣き出した。


「泣いてる場合じゃないでしょ!? とにかく考えるのよ! どうにかして、フィストを助けないと!」


 本当はアイリスも泣きたい気持ちだったが、必死に堪えた。だって、フィストならこんな時、きっとそうするから。絶対に諦めない! 大事なのは、フィストを助けるって事だけ! それだけを考えないと! 

 リーゼも、アイリスの言葉でなんとか持ち直した。


「急いで医療棟に連れて帰りましょう! そうすれば、どうにかなるかも!」

「今からじゃ間に合わないだろうね。こうしている間にも、彼の身体は滅びつつある。魔力が尽きた肉体は、存在の力を失って急速に崩壊する。僕の見立てじゃ、持ってあと五分と言った所だ」

「黙りなさいよ!?」


 もう一度、リーゼは渾身の力でカイルを殴り飛ばした。


「一つだけ、彼を救う方法があるかもしれない」


 殴られたまま、ぼんやりと床に寝転んで、カイルが言った。


「おじ様!? 本当!?」

「アイリスさん!? こんな奴の話を信じるんですか!?」

「フィストが助かるんだったら、悪魔の言葉だって信じるわよ!?」


 そう言われればそれまでだった。

 悔しいが、奥歯を噛んでリーゼは聞いた。


「どうしたらいいんですか……」

「ヴァンパイアの力の本質は、魔力の移動だ。吸魔の力は、その一端に過ぎない。理論上は、魔力を吸えるなら与える事だって可能なはずだ」

「はずだって……そんな事、私は出来ませんよ!?」

「なら、彼は死ぬ。残念だけどね」


 カイルを殴ろうとするリーゼの腕に、アイリスがしがみついた。


「お願いリーゼ! 試してみて! おじ様は、嘘は言ってない! あたしには分かるの!」


 そんな保証など実際はなかったが、アイリスは信じたかった。まだ彼にも、優しい叔父の良心が残っていると。


 リーゼも、こんなカスを殴って時間を無駄にするよりは、少しでも可能性に賭けた方がいいと思い直した。

 フィストの胸に手を置いてみるが、どうすればいいのか分からない。自分の行動にフィストの生き死にがかかっていると思うと、緊張でリーゼは息が苦しくなった。


「まずは、フィスト君の魔力を感じるんだ。名残くらいは、まだ感じられるはずだからね。同調して、魔力を流し込む糸口を探すといい」


 黙っていろと言いたい所だが、我慢してリーゼは言われた通りにした。

 目を閉じて、必死に魔力感覚を研ぎ澄ます。普段ならフィストの魔力は離れていても匂い立つ程力強いのに、今はほとんど感じる事が出来なかった。


 それでも、微かな残り香を見つけると、そこに向かって闇雲に魔力を放出する。手応えは全くなかった。まるで、口の小さな瓶に向かって、上からバケツで水を注いでいるようなものである。ほとんど零れてしまって、肝心のフィストの身体には、全然入っていかない。


「……くぅ……ぅっ……」


 あっと言う間に魔力を使い果たして、リーゼは眩暈がしてきた。どうにかして、魔力を補充しないと。そう思って、自然にカイルに目がいった。こんな汚らわしい男の魔力なんか吸いたくないが、フィストを助ける為なら仕方ない。そう思うのだが。


「残念だけど、僕の魔力は当てにしない方がいい。経絡系を破壊されてるから、吸うのに手間取るはずだ」


 知った事かと思ってリーゼは立ち上がろうとした。その手を掴んで、アイリスが引き戻す。


「あたしの魔力を使って!」

「……でも」

「いいから! あたしは、全然役に立ってない! 魔力はいっぱい残ってるし! フィストは……お兄ちゃんなの! あたし達を守る為に戦って……なんでもいいから! お願い!」


 大きな瞳になみなみと涙を浮かべて、必死にそれを零すまいとしながらアイリスは叫んだ。もう、アイリスの心はどろどろのぐちゃぐちゃだった。分かるのは、フィストが命がけで救ってくれたという事だけだ。兄妹とか言っても、腹違いだし、別に一緒に育ったわけじゃないし、そんな義理なんか本当は全然ない癖に。その上、変な気まで聞かせて、カイルだって殺さないで助けてくれた。それなのに、肝心のあんたが死んじゃったら意味ないじゃない!? ダメだ、泣いちゃダメだ! 今は、あたしがしっかりしないと!


 そんなアイリスを見て、リーゼも覚悟を決めた。


「……わかりました。私達二人で、フィストさんを助けましょう!」


 頷いて、リーゼは後ろから抱きすくめるようにしてアイリスと重なった。接触している面積が多い方が、魔力を吸いやすいのである。そうして、ぐんぐんアイリスから魔力を吸い上げて、どばどばフィストに魔力を注いでいく。


「ん……ぁ……くぅ……」


 吸魔の甘い快感に、胸の中のアイリスが呻いた。


「大丈夫ですか?」

「このくらい、全然平気よ」

「……無理しないで下さいね」


 不安になってリーゼは言った。吸魔が気持ちいいのは、魔力を吸っている相手が抵抗できないようにする為だと聞いた事がある。だから、吸われている側も自分の魔力が枯渇していく事に気付かないのだと。フィストは助けたいが、その為にアイリスの魔力を吸い殺してしまったら意味がない。そんなに事になったら、リーゼだって生きてはいけなかった。実際、アイリスの魔力には、フィストが助かるなら自分は死んじゃっても構わない! という強い想いが宿っているのだった。


 リーゼは悔しかった。同じ想いなのに、自分は命を張ることが出来ない。こうやって、ポンプみたいに魔力を経由する事しか出来ないのだ。それも、ほとんど零れてしまって意味があるのか分からない。それでも少しは魔力を与えられている筈なのだが、フィストが目覚める気配は全くなかった。


「どうなってるんですか!? 全然目覚めないじゃないですか!?」


 焦って、リーゼは叫んだ。やはり、騙されているのだろうか? こうやって私達を消耗させて、その間に逃げる作戦なんじゃ? そんな事を疑った。


「そう言われてもね。僕だって、こんなケースは初めてだ。全部憶測だよ」

「そんな!? 無責任な!?」

「そう言われれば言い訳もできないけどね。これでも学者だ。憶測だって、信じる価値はあると思うよ。あとはそうだね。必死に祈って、呼び掛けてみたらどうかな?」

「私がイーサー教徒だと思って、バカにしてるんですか!?」


 カッとなって、リーザは叫んだ。この期に及んで神頼みとは。馬鹿にするにも程がある。


「そう悪く取らないで欲しいね。まぁ、それは無理か。別に、諦めたわけじゃない。学者だって言っただろ。それなりに、根拠がある。魔力は意思を伝えるんだ。それがなくなった彼の身体は今、生きる意思を失っている。だとすれば、ただ魔力を注いだって意味がないのかもしれない。生きて欲しいと、生き返れと、強く願って、そんな魔力を与える必要があるんじゃないかな?」


 まぁ、これも憶測だけど。そう言って、カイルは頼りなく笑った。


 本当に、頼りない言葉だった。

 そんな言葉でも、今は縋って信じるしかない。


「起きなさいよ! 誰も死なせないって約束したでしょ!? 嘘ついたら、許さないんだから!?」


 胸に抱いたアイリスが叫んだ。かなり魔力を吸われて、彼女も衰弱している癖に、小さな体で頑張って、必死に叫んでいるのだった。


「そうですよ! 一緒に街で遊ぶ約束したじゃないですか! 街には美味しい物、いっぱいあるんですよ! フィストさん、あんなに楽しみにしてたじゃないですか!」


 二人で呼び掛ける。声の限り。想いの限り。


「死なないで! 起きなさいよ! こんなに可愛い妹を一人で置いてくつもり!?」

「私達、これからじゃないですか! 折角Cランクに上がって、周りの人達も少しずつ認めてくれて、フィストさんだって色々勉強して賢くなって、まだまだこれからじゃないですか!」

「そうよ! あんたの知らない楽しい事、まだまだいっぱいあるんだから!」

「私はもっと、フィストさんと一緒にいたいです! フィストさんの事、好きになっちゃったんです! もっとお喋りして、一緒にいて、楽しい事、もっともっとしたいんです!」

「あたしだって好きなんだから! 勝手に惚れさせといて、勝手に死んだりしないでよ! ねぇってば! いい加減に、起きなさいよ!?」


 泣きながら、必死に呼び掛ける。

 心の中に浮かんだ想いを叫び続ける。

 フィストがくれた沢山の想い出、楽しい事、勇気と元気、そんな色々を思い出しながら。


 けれど、駄目だった。


 そう思った時、不意にフィストは目を覚ました。


「……んぁ? わりぃ、ちっと寝てたわ」


 人の気も知らないで、寝ぼけた顔で言うのだった。

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