七章
第41話 馬鹿な喧嘩
フィストの行動は早かった。
茫然とするアイリスを置き去りにして、全速力でリーゼに駆け寄った。そのままの勢いでジャンプして、空中に固定されたリーゼを捕まえようとする――が。
「うぉ!?」
フィストの身体はリーゼを突き抜けて、そのまま向こう側に着地した。
「すり抜けやがった! どうなってんだ!?」
流石のフィストも驚いた。たしかにリーゼに触れたはずなのに、なんの感触もなかったのである。
「
嘲笑うカイルの声は、別人のように冷たかった。
いつの間に現れたのか、彼はリーゼの隣に浮いていた。
「僕を無視して、このヴァンパイアを捕まえて逃げる気だったんだろう? 忌々しい。ギャビ―=コルトの弟子が考えそうな事だ」
吐き捨てるようにカイルが言った。フィストを見下ろす冷えきった眼には、優しかったカイル教師の面影は欠片もない。
「おじ様? 嘘よ……なんでこんな事……リーゼと一緒になって、あたし達をからかってるんでしょ?」
引き攣った笑みでアイリスは言った。頭はすっかり混乱していた。だって、カイルは優しい叔父なのだ。どんな時も自分の味方で、いつだって助けてくれた、大好きな叔父なのだ。こんな事をするはずがない。
それに、対象の存在する空間軸をずらす位相変位は物凄く難しい術なのだ。カイルの実力では、どう頑張ったって使えるはずがないのである。
「勿論じゃないか。僕がアイリスちゃんの友達にこんなひどい事をするわけがないだろ? これは、ちょっとしたテストみたいなものだよ」
にっこりと、優しい叔父はいつもの頼りない笑みを浮かべてアイリスに右手を向けた。
それを聞いて、アイリスは安心した。ほらね。やっぱり冗談だった。こんなたちの悪い悪戯をするなんて、二人とも酷いんだから! ぼんやりとする頭でそんな事を考える。同時に、アイリスはカイルが破壊的な魔術を練り上げている事に気付いて涙を流した。
嘘よ。嘘。こんなの、嘘だ。嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ嘘だ! お願いだから悪夢から覚めてよ!
「避けろアイリス!」
フィストの声が遠く響いた。
カイルの手から、小さな太陽のような火球が飛び出した。
アイリスにはそれが、超圧縮された爆発球である事が理解出来た。本気で防がなければ、人間なんか塵も残らず消し飛んでしまう威力がある事も。そしてやはり、カイルの実力では絶対に不可能な難易度の術である事もだ。だからこれは悪夢なんだ。
そう思いたくて、アイリスは目を閉じた。
直後、凄まじい衝撃で吹き飛ばされ、燃えるような熱波がアイリスを炙った。
仰向けに倒れて、瓦礫にでも押しつぶされたのだろう。
不思議と心地よい圧迫感に潰されながら、アイリスは不思議に思った。
なぜ自分は生きているのだろう。
今の一撃は明らかに致命的だった。
死んでしまえば、悪夢から覚めるはずなのに。
「しっかりしろ!」
目の前でフィストの声が響き、アイリスは思いきり頬を叩かれた。
驚いて目を開けると、目の前に山猿の顔があった。
「フィスト? どうして?」
「寝ぼけてんのか!? リーゼを助けるんだろ!」
がくがくと肩を揺さぶられて我に返る。途端に、アイリスはショックで泣きそうになった。
「だって、おじ様が!?」
「知らねぇよ! そんな事は、先生をぶったおしてから聞けばいいだろ!」
力強い意志を瞳に宿してフィストは言った。その力強さに勇気を貰い、壊れかけた心を辛うじて繋ぎとめる。
アイリスを立たせると、フィストはカイルに向き直った。その背中を見て、アイリスは絶句した。
「フィスト!? その怪我!?」
考えるまでもない事なのに、今の今まで気づかなかった。過負荷を受けて、ネイキッドアーマーの一部が弾け飛んだのだろう。フィストの上半身は裸になっていた。それでも足りなかったのか、フィストの背中には惨い火傷が広がっていた。
「心配すんな。これくらい、なんともねぇ」
「でも、あたしを庇ったせいで……」
罪悪感で、アイリスの足元がぐにゃりと歪んだ。
「それよりカイルだ! 先生、マジで俺達を殺す気だぞ!」
アイリスを庇って怪我をした事なんか、フィストは全然気にしていなかった。アイリスはカイルにべたべたに懐いていたから、こんなわけのわからない事をされたら戸惑うのは当たり前だ。自分だって沢山師匠に守って貰った。ピンチの奴を助けるのは、余裕のある奴の役目なのだ。
そんな二人を、カイルは困った顔で眺めていた。
「アイリスちゃん。勘弁してくれよ。仮にも君はマギオンなんだ。いつまでも腑抜けてないで真面目に戦ってくれないと、復讐にならないじゃないか」
「復讐ってそんな……聞いておじ様! あたしがなにかおじ様を怒らせるような事をしたんなら謝るから! こんな事をするのはやめて! いつもの優しいおじ様に戻って!」
アイリスの懇願を、カイルは鼻で笑った。
「いつもの優しいおじ様? 馬鹿馬鹿しい。そんなものは演技だよ。落ちこぼれの僕に押し付けられた役割をこなしていただけさ! 僕はね、アイリスちゃん。一度だって君の事を可愛いと思った事はないんだ。むしろ逆さ。憎くて、憎くて、憎くて憎くて憎くて憎くて堪らなかった! ずっと殺してやりたいと思っていたんだ!」
カイルの身体から、目に見える程黒々とした剥き出しの憎悪を纏った魔力が溢れ出した。
そんなものをまともに浴びたら、アイリスの弱い心は簡単に壊れてしまう。そう思ってフィストは大事な友達を励ます気持ちを魔力に乗せて放出し、アイリスを庇った。
それでも相殺しきれず、アイリスはカイルの悪意を肌で感じた。
「そんな……どうして……」
茫然としてアイリスが呟く。一番の味方だと思っていた人間に殺意を向けられて、アイリスの心はほとんど折れてしまっていた。隣にフィストがいてくれるから、辛うじて立っていられる状態である。
「どうしてかって? それは君が、兄さんの子だからだよ。僕は兄さんが大嫌いなんだ。力も、人望も、尊敬も、愛も居場所も! 僕の欲しい物はなにもかも全部持っていく! 僕には何がある? 何もない! 兄さんと比べられ、落ちこぼれと馬鹿にされて、なにをしたって評価されない! なにより許せないのは、兄さんが僕からフィオナさんを奪った事だ! 僕の方が先に好きになったのに! 兄さんは僕が彼女を好きな事を知ってたはずなのに! 彼女は! たった一人の僕の理解者だったのに! フィオナさんは、兄さんの子を産んだせいで死んだんだ! 兄さんが殺したのと同じじゃないか! 本当は僕と結ばれるはずだったのに、そんな人をあいつは犯して殺したんだ! こんな屈辱が他にあるかよ!?」
自らの言葉に焼かれるようにして、カイルは激昂した。
アイリスは戸惑うばかりだった。
フィオナの事はアイリスも知っていた。父親の最初の結婚相手で、出産に失敗して子供と一緒に死んでしまったと聞いている。はっきり言って、赤の他人だ。
「そんなの……ただの八つ当たりじゃない! あたしは関係ないじゃない! お父様に言いなさいよ!」
めちゃくちゃな事を言われて、流石に頭にきて言い返す。こんな醜い男を叔父だと慕っていた自分が恥ずかしくなった。
「そうするつもりだったさ。それなのにあいつ、失踪しやがった。マギオンの跡取りの癖に、全部持っていた癖に! 散々美味しい目を見ておいて、今更なにもかも放棄して、消えやがった! 身勝手な卑怯者だよ! あいつは、僕から大事な物を奪ったんだ。だから僕も、あいつの大事な物を奪う権利があるんだ。そうしなきゃ、僕の人生は始まらないんだ。まずは君達だ。アイリスちゃんと、そこの山猿。君達を殺せば、僕は兄さんを越えた事になるだろう? それでいつか兄さんを探し出して殺してやるんだ! あんたの子供は二人とも、僕が殺したって教えてやってね! それが僕の復讐さ! その事だけを考えて今日まで生きてきたんだ! ははははは、あはははははは!」
泣きながら、狂ったように笑うカイルを見て、アイリスは思った。
「……狂ってる。あんた、頭がどうかしてるんじゃないの!?」
お陰で、大好きなおじ様に裏切られたショックもどこかに行ってしまった。ここにいるのは、ただの哀れな狂人だ。
「……そうかもね。けど、そうさせたのは兄さんだ。そして、マギオンなんだよ。兄さんの弟でなかったら、僕はこんなに歪まなかった。僕はマギオンにさえ生まれなければ、正当な評価を得られたんだ! 世の中の全てがよってたかって僕を狂わせたんだ! なら僕には、世界に復讐する権利だってあるはずじゃないか!」
「……もういい。これ以上あんたの話を聞いてたら、頭がどうにかなりそうだわ。あんたなんかもう叔父さんじゃない! あたしのこと騙して、リーゼにも酷い事して、フィストにも大怪我させて! 絶対に許さないんだから!」
「アイリスちゃん。君って奴は、本当に世話の焼ける子だよ。魔術の才能以外は何一つ持ってないんだから。君が本気を出せるように、わざわざ説明してあげたんだ。そうじゃないと、兄さんを越えた事にならないからね」
暗い瞳に卑屈な光を浮かべてカイルが告げた。
「俺も聞きたいんだけど、もしかして俺って、そのフィオナって奴の子供なのか?」
手をあげて、フィストは尋ねた。全部カイルの狂言で、彼を倒せば丸く収まるなら安心だ。だったらついでに、気になる事を聞いておこうと思ったのだ。
「そうだよ。君は魔術の適性がなかったからね。死産だった事にして、兄さんがギャビー=コルトに預けたんだ。本当は、あの時に始末したかったんだ。だから、君がアカデミーにやってきた時は、神に感謝したよ! 散々手を回したのに、どうしても見つけられなかったからね。すっかり諦めてたんだ。よりによってこの僕を頼るなんて、本当に、馬鹿な女だよ」
「それか、師匠は先生のバカを止める為に俺を送り込んだのかもな」
ニヤリとして、フィストは言った。へそ曲がりの師匠がやりそうな事だと思ったのだ。
「……ぇ? えぇぇ!? ま、待ってよ!? それじゃあ、あたしとフィストって、兄妹って事!?」
ギョッとして、アイリスが叫んだ。
「半分だけどな。へへへ、アイリスが妹か。俺、ずっと一人だったからそういうの憧れてたんだよな。なぁアイリス、お兄ちゃんって呼んでもいいぜ」
「絶対嫌よ!?」
ズガビーン!? と特大のショックを受けてアイリスは叫んだ。魔術の素養は遺伝する。だから、親子や兄妹で結婚したり子供を作る事は結構あった。でも、それは昔の話だ。今だってダメではないが、かなりダメ寄りのセーフだ。そんな事したら、時代錯誤とか言って白い目で見られる。でも、異母兄妹ならギリギリセーフかしら? いや、別に、フィストの事をそういう目で見てるわけじゃ全然ないけど。
あと、勢いで断ったけど、アイリスは一人っ子なので、頼れるお兄ちゃんが欲しいと思っていた時期もあるのだった。ふぃ、フィストお兄ちゃん。それはそれで悪くないかもしれない。甘やかしてくれるなら、言っちゃおうかな、とか思ってしまう。いや、そんな事を考えている場合ではないのだが。
「茶番は終わりにしよう。どっちみち、君達はここで死ぬんだ。先の事なんか考えたって意味なんかないだろ?」
「そうはいくか。俺達は今日、三人で街で遊ぶ約束してんだ! すげぇ楽しみにしてたんだから、邪魔させるかよ!」
「もっと他に言う事ないの!?」
呆れるアイリスにフィストは答えた。
「ねぇよ。こんなのは、ただのバカな喧嘩だろ」
あっさりと、フィストは言い切った。
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