第39話 ズルい女

「……なんかこれ、頭から落っこちてるみたいで嫌だな」


 フィストの呟きは、アカデミー市の夜空い吸い込まれた。


 支度を終えて、コンパスを頼りにリーゼを追いかけている。

 アイリスの提案で、二人で一緒に空を飛んでいた。


「みたいじゃなくて落ちてるのよ。重力の向きを変えて、前に向かって落ちてるの」


 水平になって飛ぶフィストの背中に乗り物みたいにちょこんと座って、アイリスが言った。触れている方が制御が楽だと言われたので、こういう形になっている。


「走るんじゃだめか?」

「飛んだ方が早いでしょ」

「俺が本気で走ればもっと早いぞ」

「あたしは無理よ」

「背負って走るよ」

「そんなの恥ずかしいでしょ!」

「今だって背負ってるだろ」

「誰も見てないからいいの。それに、あたしをおんぶしたあんたが凄いスピードで街中走ってたら物凄く目立つじゃない。目立っちゃダメでしょ」

「……じゃあいいよ」


 フィスト的には屋根の上を走るとか、目立たないように移動する方法は幾らでもあるのだが、空を飛ぶのも十分早いし、本当はこの落下するような感覚で金玉がひゅんひゅんするのが嫌だっただけなので、我慢する事にした。


「……ねぇフィスト。なんでリーゼはこんな事しちゃったのかしら」


 暫く無言で飛ぶと、不安そうにアイリスが言った。


「さぁな」

「さぁなって、おかしいと思わないの? バロウズは悪いヴァンパイアだし、シャーリー先生だって精神支配の影響はないって言ってたじゃない。色々話して、納得してくれたと思ったのに……急にこんな事するなんておかしいわよ! それも、あたし達に相談もしないなんて!」


 今回の出来事は、アイリスにとっては寝耳に水だった。今だって、悪い夢を見ているような気分である。そうだったらいいのにと、心から思う。


「リーゼは優しいからな。可哀想だって思ったんじゃねぇか?」


 適当な返事に、アイリスはムッとした。


「もっとちゃんと考えてよ! フィストはリーゼの事心配じゃないの!?」

「今大事なのは心配する事じゃなく、どうにかしてリーゼを助けないとって事だろ」


 冷静にフィストは言った。実際、心は氷のように冷めている。


「……そうだけど……うぅ、ひっぐっ……」


 こんな事になって、アイリスは物凄くショックで不安だった。それなのにフィストにまで冷たくされて、涙が出てくる。


 フィストは反省した。アイリスもリーゼと同じくらい泣き虫で弱虫だから、慰めてやらねぇと。リーゼみたいにうまく出来る自信はないが。


「泣くなよアイリス。俺だって、色々考えるさ。けどさ、リーゼはこんな事するはずないとか言って、そうじゃなかったらどうすんだよ」

「……ぅ、ぅう、意地悪言わないでよ!」


 ぽかぽかと、アイリスが背中を叩いてくる。別に痛くもないし、それで気が晴れるなら幾らでも殴らせてやる。


「意地悪じゃねぇよ。大事な事だろ? 俺もアイリスも、リーゼを助けたいだけなんだ。だったら、なんでとかどうしてとか、そういうのは今はいいだろ。リーゼを助けてから、後でゆっくり聞けばいいんだ。それで、おかしかったら怒ればいい。喧嘩して、言いたい事言って、また仲直りすればいいじゃねぇか」

「う、ぅう……ひっぐ、ぅん……ごめんねフィスト。あたし、また八つ当たりしちゃった……」

「いつもの事だろ。気にすんなよ」

「……そーだけど……それはなんか、違うって言うか……」


 今の一瞬物凄くかっこよく見えたのに、やっぱりデリカシーのない山猿なんだから、とアイリスは呆れた。でも、やっぱりこういう時は頼りになるなと思って、胸がドキドキした。


「それよりさ、もしバロウズがリーゼと一緒にいなかったらどうなるんだ」


 フィストはそれが気がかりだった。


「どうなるんだって……マズいでしょ。バロウズを捕まえないと、リーゼがやった事がバレちゃうんだから」

「バレたらどうなるんだ? また下水掃除か?」

「そんなんで済むわけないでしょ!? バロウズは同盟が指定した凶悪犯罪者なのよ! 元々は魔王論者の危険団体のメンバーだったんだし、それを逃がしたってなったら、そいつらの仲間だって言われても言い訳出来ないわよ! 同盟反逆罪で処刑されちゃう事だってあり得るわ! もっと悪かったら……バロウズみたいに……」

「カイルの研究材料にされちまうのか」

「おじ様はそんな事しないわよ!」

「そしたら、別の奴がやるんだろ?」

「そうだけど……そんな怖い事、言わないでよ……」

「怖い事だから考えないといけないんだ。じゃないと、リーゼを助けられねぇだろ」


 アイリスの話を聞いて、フィストは決意した。


「なぁアイリス。もしバロウズがリーゼと一緒にいなかったら、俺はリーゼを連れて逃げるぞ」

「はぁ!? フィスト、あんた、自分がなに言ってるのかわかってるの!?」

「バロウズを探す手掛かりはないんだ。一緒にいなかったら、見つかりっこない。もしそうなったら、リーゼを助けるには俺が一緒に逃げるしかないだろ」

「そんな事したら、フィストまで犯罪者になっちゃうのよ!? それで、あたし達がやってたみたいに、強い勇者を送り込まれて捕まえられちゃうのよ!」

「捕まらねぇよ。俺は強いからな」

「捕まるわよ! ダメだったら、捕まえるまでどんどん強い勇者を送り込んでくるのよ! いくらフィストが強いからって、逃げきれないわよ!」

「なんとかなるって。俺、魔境に住んでたからな。リーゼ連れて、どっかの魔境に隠れちまえばそうそう見つからないって」

「それでどうするのよ! 一生リーゼと魔境で暮らす気!?」

「そんな先の事はわかんねぇよ。俺はバカだしな。とりあえずリーゼの安全を確保したら、後は二人で相談してどうにかするさ」

「どうにかって……」


 めちゃくちゃな話だった。けれど、アイリスは思うのだ。フィストなら、そんなめちゃくちゃも可能にしてしまうんじゃないかと。もしもの話だけれど、もしそうなってしまったら、リーゼを救う手段は他にはない。フィストが一緒に逃げてやらなければ、リーゼはすぐに捕まって、処刑されてしまうだろう。


「……あたしはどうなるのよ」


 なんだか凄く胸が痛くなって、アイリスは聞いた。だってそれじゃあ、永遠のお別れじゃない。


「そんな事、俺は知らねぇよ。自分の事だろ」

「なんでそんな事言うのよ! 友達だって言ったのは、嘘だったの!?」

「嘘じゃねぇよ。でも、アイリスは別に困ってないだろ。リーゼはほっといたら捕まって殺されちまうんだ。じゃあ、リーゼを助けるだろ」


 そんな事は、アイリスだって分かっている。なのに、なんだか物凄く腹が立った。フィストと、そしてリーゼにも。昨日まで全てが上手くいっていたのに、どうしてなにもかも台無しにするような事をしてしまったのだろう。リーゼはバカじゃないから、そんな事をすれば迷惑がかかる事くらい分かっていたはずなのに。


「あたしだって困るわよ! あんたがリーゼと逃げたら、残ったあたしは笑い者じゃない! 友達に裏切られて、捕まえる事も出来なくて、役立たずのクズだって言われるわ!」

「……そうだな。それは、ごめんなさい。アイリスには、辛い思いさせちまうな」


 申し訳なくて、フィストは謝った。アイリスだってリーゼと同じくらい大事な友達なのだ。出来れば二人とも助けてやりたいが、そんな方法は思いつかなかった。


 謝られて、アイリスはますます胸が苦しくなった。本当は、そんな事を言いたいわけじゃなかったのに、またバカな見栄を張って心にもない事を言ってしまった。あたしって、なんてバカなんだろう。


 そして思った。もし本当にバロウズがいなかったら、フィストは本当にリーゼを連れて逃げてしまうだろう。彼は、やると言ったらやる男だ。そうなったら、きっと一生のお別れになってしまう。もしそうなった、最後の最後に喧嘩をして別れるなんて絶対に嫌だ。


「違うの! そんな事、どうでもいい! フィストもリーゼも、やっとできた本当のお友達なのよ!? それが二人一緒にいなくなっちゃったら、あたし、また一人になっちゃうじゃない!?」


 違う。それも違うのだ。そんな言葉ではない。胸の中に想いはあるのに、アイリスはどうしてもそれを形にする事が出来なかった。


「んな事ねぇよ」


 きっぱりと、フィストは言った。


「離れてようが、俺達はずっと友達だろ。落ち着いたら、上手い事やって会いに行くよ。そうだな。こういうのはやっぱ、アイリスが一番得意だから、そん時は俺達が許して貰える方法、一緒に考えてくれよ」

「違うでしょ! お前も来いって! 三人で一緒に逃げようって言いなさいよ!」


 フィストの大きな背中にしがみついて、アイリスは叫んだ。叫んでから、それが本当に言いたかった言葉なのだと気づく。


「……なぁアイリス。俺はバカだけどさ、無茶な事しようとしてるって事はわかってるんだ。だから、一緒に来いとは言えねぇよ。リーゼを連れて逃げるのは、他にどうしようもないからそうするんだ」


 フィストなりの優しさだったのだが、アイリスにとっては残酷な言葉だった。フィストが来いと言ってくれれば、アイリスも馬鹿になれた。けれど、自分で選べと言われたら……色々と考えてしまう。現実的な事を、卑怯な事を、臆病で、自分勝手な事を。そして、思うのだ。無理だと。マギオンの名を背負う自分には、とてもできない。あたしは、友達失格だ。


 そう思って、アイリスは泣いた。物凄く惨めな気持ちだった。こんな状況を生み出したリーゼが憎かった。一緒に来いと言ってくれないフィストが憎い。そしてなにより、大好きな二人を憎んでしまう自分の心の醜さが憎かった。


「泣くなよアイリス。全部もしもの話だ。俺がバロウズなら、リーゼとは離れない。助けてくれるお人よしを利用しない手はないからな。そうでなくとも、人質のつもりで手元に置いとく。ああいう奴は、そうするんじゃねぇかな」

「……ぅん」


 フィストの背中に顔を埋めたまま、アイリスは小さく頷いた。なんだか酷く傷ついて、疲れてしまった。本当はそんな資格はないのだけれど、フィストの背中は、リーゼのおっぱいの間と同じくらいホッとして、癒されるのだった。


「……ねぇ、フィスト」

「なんだよ」

「……もう少し、こうしてていい?」

「好きにしろよ。変な奴だな」

「……ぁりがと」


 あたしって卑怯な女だ。そう思いながら、アイリスはお礼を言った。

 そして祈るのだった。


 神様。


 どうか、バロウズがリーゼと一緒にいますように、と。


 残念ながら、その願いは叶わなかった。

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