第27話 ヴァンパイア

「ヒィッ!?」


 恐怖して、リーゼは腰を抜かした。その場に尻餅を着いて、這うようにして後退る。


「そう怖がるな。ヴァンパイアが血を吸わないように、ライカンスロープも人を食ったりはしない。少なくとも、俺はな」


 知識では知っているが、それでも実物を前にすると、リーゼは怖くなってしまった。怖がってはいけないと思っても、恐怖というのは勝手に湧いて出るものなのである。


 厳密に言えば、ライカンスロープはウルフのような狼人間を指し、獣化症はセリアンスロープとされている。ヴァンパイアと同じように、かつては魔族と呼ばれ、魔物と同じ扱いを受けていた。


 やはり、ヴァンパイアと同じように、四魔将にもセリアンスロープがいて、飢獣侯ジェボーダンの名は有名である。ヴァンパイアが人の生き血を求めると言われているように、セリアンスロープは人肉を求めると言われている。勿論、どちらもただの偏見だが。


 魔術特性としては特定の生物に対する変身能力が挙げられ、基本的には人間体、獣人体、獣体の三つの姿に変る事が出来る。獣化症と呼ばれているが、鳥獣や魚以外にも、植物や虫、魔物に変身できる者もいる。


 人間体は普通の人間と見分けがつかないが、半獣体や獣体は明らかな異形である為、吸魔症と同じく、今も偏見は根強い。人間体でいる限りは正体がバレる事もないので、過去には何度も凄惨なセリアンスロープ狩りが行われ、無関係の人間が大勢魔族裁判で犠牲になったという記録も残っている。


 変身能力以外の特性は、身体能力と肉体的強度の高さ、それを維持する為に大量の食事を必要とする事などが挙げられる。

 リーゼが知っているのは、大体こんな所だ。


 もしそんな人に出会っても、リーゼは怖がったり、差別したりしないようにしようと決めていた。


 だが、狼男となったウルフの姿は、凶暴な魔物にしか見えない。深く裂けた大きな顎は、一口でリーゼの頭を噛み砕く事が出来るだろう。肥大化した手には、刃物のような爪がギラつている。


 恐怖に目がくらみ、チビりそうになっていると、ウルフが鋭い爪の生えた手を伸ばした。


「ひぃっ!」


 思わず悲鳴をあげて仰け反るが、少し遅れて手を貸してくれただけだと気付く。


「す、すみません……」


 謝ると、爪に触れないように気を付けて、ウルフの手を握った。ごわごわした獣毛の奥にある肉球が、ぷにょんと柔らかい。


「ヴァンパイアの君なら平気かと思ったが、そんな事はなかったな。少し傷ついたが、覚悟はしていた」


 軽々引き上げて、ウルフは言う。


「……すみません」


 謝罪の言葉は、ムッとしていた。またヴァンパイアと言われたからだ。


「謝られた所で虚しいだけだがな。俺はただ俺であるだけで謝られるのかと。君と違って男の俺では悲劇のヒロインも気取れない。泣き言を吐いても鬱陶しいだけだ」


 言われて、リーゼはもやもやした。こちらが悪いはずなのに、ウルフの言い草を聞いていると、イライラしてくる。それこそ、鬱陶しい泣き言という事なのかもしれないが。


 そんなリーゼの顔色を読んで、ウルフは言った。


「今俺に感じたような気持ちを、君の周りの人間も感じている筈だ。まぁ、女の君なら可愛げもあるかもしれないがな」

「……何が言いたいんですか」


 イラついて、リーゼは言った。助けようとしてくれているのか、イジメられているのか、わからなくなってきた。


「言いたい事を言っている。そうするべきだと俺は言われた。そうしなければ、言いたい事は言えないとな。当たり前の話だが、俺は長い間そうする事が出来なかった。そのせいで、色々と後悔もした。経験者の助言には耳を傾ける価値があると思わないか?」


 つまり、助けようとはしてくれているらしい。やり方が随分不器用だと思うが。


「……それが出来ないから、困ってるんじゃないですか」

「君があの二人よりも劣っているからか?」


 唐突に言われて、考え込む。だが、結局はそういう事なのだろう。アンダーで、ヴァンパイで、それを差し引いても、自分はたいした力のない戦闘術士だ。正直、なぜアカデミーに入学出来たのかも不思議である。

 少し遅れて、リーゼは頷いた。


「もう一つ、恩師に言われた事がある。与えられた力は活用するべきだと。そうでもしなければ、割に合わないとな」

「……それが、呪われた力でもですか?」

「そんな風に思う事自体が呪いだ。俺達が本当の意味で人になる為には、俺たち自身が自分の事を認めてやらなければいけない。こんなものは、他の連中が持っている魔術適正と大差はない。少し風変わりで、有用ではあるがな。実際、獣化症も吸魔症も、戦闘術士にとっては非常に強力な武器と言える。だからこそ、こうして恐れられているわけだが」

「……先生は、私にヴァンパイアになれって言うんですか?」


 吸魔症の力を使うという事は、リーゼにとってはそういう事だった。そうならない為に、必死で制御している。フィストや、アイリスの力強い魔力に吸い付きたいという欲望を、必死に抑えているのだ。そんな、バケモノじみた衝動には、負けるわけにはいかない。


「俺が言うまでもなく、君はヴァンパイアだ。俺がライカンスロープであるように」

「違うって言ってるじゃないですか!」


 カッとなって叫ぶ。


 唐突に、ウルフの手がリーゼの首を掴んだ。


「――!?」


 どうして? そんな言葉も出せない程、力強く首を絞められる。


「ここで君を殺すのは簡単な事だ。あとほんの少し、力を入れるだけでいい。それで君は死ぬ。なにもかもおしまいだ。俺は別に困らない。適当に理由をつけて、君に襲われた事にすればいい。アカデミーには俺達みたいな魔族を毛嫌いしている派閥もある。喜んで目を瞑ってくれるだろうさ」


 どうして? なんで? おかしいでしょ!? 酸欠で喘ぎながら、リーゼは声にならない叫びをあげた。意味が分からない。何一つ。この男は狂ってる。これが罰なのか? 理不尽だ。助けて! 誰か! 嫌だ、死にたくない! 私は――まだキスだってしてないのに!?


 混濁した意識に浮かんだのは、フィストのバカ面だった。もう一度彼に会いたい。もっと彼と居たい。沢山喋って、一緒にご飯を食べて、普通の女の子みたいに過ごしたい。そんな夢が、ようやく叶いそうなのに!


 もはや、綺麗ごとを言っている場合ではなかった。殺してやる! 生まれて初めて、リーゼは殺意を憶えた。腕力では敵わない。こんな状況では、魔術を行使する事も出来ない。使える武器はただ一つだった。


 そんなに言うなら、望み通りヴァンパイアになってやる!


 破れかぶれで思うと、リーゼはウルフの毛むくじゃらの腕を両手で掴み、魔力を吸った。彼の力強い魔力が、そこに宿った感情と共に流れ込む。それは、心地よい時間だった。極上のデザートを舌の上で溶かすような、そんな幸福感を覚える。


 あぁ、私はやっぱりヴァンパイアなんだと実感する。


 今まで我慢してきたのがバカらしくなるくらい、ウルフの魔力は甘美だった。同時に、自分の身体がいかに魔力的に干からびていたのかを実感する。萎れた花が水を吸い上げるように、リーゼはウルフの魔力を吸い続けた。


「――かっ……ぁ……くっ……」


 ウルフもまた、どこか恍惚の表情でそれに耐えていた。程なくして、獣の筋肉で肥大化した体が縮まり、体毛は抜け落ちて、獣の顔が人に戻る。


 ウルフの腕が力を失い、リーゼの首から離れた。その勢いに負けるように、ウルフがその場に座り込む。


「ウルフ先生!?」


 ハッとして、リーゼは叫んだ。私は、なんてことを!?

 だが、ウルフは満足気だった。

 死人のような顔色で息を荒げながら、人差し指をリーゼに向ける。


「それが……力だ。なんの理由もなく、俺達が理不尽に押し付けられた力。利用してやれ。そうすれば、あのバカ共の暴走を抑えるくらいの事は出来る。カイル教師の方針には、俺も賛成している。教師の俺では、出来ない事だ。君がやるんだ。ヴァンパイアの君が、その力で、あの二人と肩を並べて活躍してやれ。こんなチャンスは、二度とないぞ……」


 ニヤリとして、ウルフは言った。


 それでふと、リーゼは彼が、自分と同じ存在なのだと気づいた。獣化症の人間がアカデミーの教師になり、教会で司祭の真似事をしている。きっと、驚く程に似たような境遇なのだろう。あるいは、自分達のような人間が真っ当に生きる道は、それ程多くないという事なのかもしれないが。


 なんにせよ、それに気づいた時、リーゼは勇気を与えられた。自分と同じような人間がここにいる。同じように迫害され、苦しんで、差別された人間が。けれど負けず、逞しく生きている。なにより彼は、リーゼと同じ夢を持っていた。自分達と同じような、かつて魔族と呼ばれた人達の差別と偏見をなくすこと。

 それについて、彼はずっと先輩なのだった。


 その事に気付いてしまえば、彼の助言はリーゼの心に深く響いた。

 吸魔症とかヴァンパイアとか、些細な呼び名を気にしている事自体が、自分自身に対する偏見であり差別なのだった。本当の意味で、ヴァンパイアの自分が人並みの生活を送るには、ヴァンパイアという存在を自他共に認めさせる必要がある。


 そんな事は分かっていたつもりだったのに。

 そのつもりでアカデミーに入学したはずなのに。

 実は何一つ分かっていない事に気付いた。

 こそこそと縮こまって、被害者意識で震えていただけだったのだ。


 けれど、不安はあった。


「……私なんかに、出来るでしょうか」


 あの二人と肩を並べるなんて事が。そして、負けないくらいの活躍をするなんて事が。


「別に、一人で気負う必要はない。お前には、頼れる友達がいるんだろう? 上手く手綱を握って、助けてもらえ。その程度の小狡さは、お前にもあるようだからな」


 アイリスを唆した事を言っているのだろう。


「先生の、意地悪!」


 痛い所を突かれて、リーゼは真っ赤になって叫んだ。

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