エクストラ3【カレン・クラウディウスの過去】
【5年前 クラウディウス邸】
物心付いた時から、彼女は漠然と理解していた。
裕福過ぎる家庭。
自分の持つ非凡な才能。優れた容姿。
「カレン、お前は特別な子だ」
「はい、お父様」
優れた血筋がそうさせるのか、彼女は全てを持っている。
いずれは多くの人間の上に立ち、導いていく者だという自覚が――彼女にはあった。
そして、その為の必要な努力も、彼女は惜しみなく続けていた。
「お嬢様、本日の課題ですが……」
「とっくに終わっていますわ」
部屋に入ってきた執事に、プリントの束を放り投げる。
その一枚一枚に、有名進学校の生徒でさえも頭を抱えるような難問が記載されていたのだが……カレンにとっては、さんすうのドリルと大差が無い。
「次の茶道教室までは時間がありますし、それまではバイオリンの稽古でもしますわ」
「……お嬢様、お言葉ですが。近頃、根を詰めすぎてはいませんか?」
「ワタクシが?」
「ええ、時には休息を取るのも大切でございますよ。お嬢様ぐらいの年頃でしたら、遊ぶという事も教育の1つなのですから」
「……そういうものかしら?」
「はい。屋敷に籠もってばかりでは、体に毒でございます」
執事の言葉を否定するつもりは無かった。
しかし、彼女には遊ぶという事の意味が良く分からない。
「でも、屋敷の外で遊ぶと言っても何をすればいいんですの?」
「そうですね。映画でも観に行かれてはいかがでしょうか」
「映画なら、屋敷のシアタールームで事足りますわ」
「……では、プールに泳ぎに行かれるとか」
「プールこそ、屋敷に立派なモノがありましてよ」
大抵の物は全て、屋敷に備わっている。
だからこそ、彼女は外に出る必要性を感じなかったのだ。
「では、動物園はどうでしょう? ちょうど最近、クラウディウスグループが新しい動物園を開園したばかりですが」
「動物園……まぁ、悪くはなさそうですわ」
実物を見ずとも、図鑑で十分だ。
とは、自分の身を案じてくれる執事の手前、言えなかったカレン。
結局は屋敷の外に出る事が目的なのだから、どこが目的地であっても変わらない。
そういった考えで、カレンは動物園へと赴く事となった。
「……」
動物園に到着して、カレンは真っ先に感じたのは喧騒の鬱陶しさだった。
あちこちに人が溢れかえり、ガヤガヤと騒がしい。
これでは落ち着いて動物を見る事も出来やしない、と。
「そこの黒服……邪魔ですわ」
「申し訳ございません」
しかも護衛のSPが周囲を取り囲んでいるのも鬱陶しい。
カレンは早くも、動物園に来た事を後悔し始めていた。
「あははははっ! ゴリラだよ、お兄ちゃん!」
「おい、あんまり近付くなよ。なんか、うんこ投げてくる事があるんだって」
「えー!? 私にそんな趣味は無いのにー!」
カレンがげんなりとしていると、何やら明るい声が近くから聞こえてくる。
そちらに視界を向けると、兄妹2人がゴリラの檻の前で話していた。
「お前に無くても、ゴリラにはあるんだよ」
「ふーん。じゃあ、油断しないようにしないとね」
「ああ。あまり檻には近付きすぎ……きららっ!」
「ウホホホ、ウホホホホホ(人間め、我らが反逆の牙を受けてみよ!)」
「ふぇっ!? ほぎゃあああああっ!?」
その時だった。
一頭のゴリラが妹に向けて、うんこの塊を放り投げたらしい。
しかし間一髪のところで、兄の方が妹を抱き抱えたので、彼女の白いワンピースに茶色い汚れが付く事は無かった。
「うぇぇぇぇぇぇんっ!」
「きらら、大丈夫か?」
泣き出す妹を抱き寄せ、よしよしと頭を撫でる兄。
そんな彼らを見て、好機だと思ったのか。
ゴリラは次の一撃をお見舞いしようと、うんこを手にした右腕を振りかぶる。
「ウホホホホーイ! ウホホホホッ!(これでトドメだ! 下等生物め!)」
カレンは思わず両手で顔を覆いそうになった。
しかし、その惨劇は未然に防がれる事になる。
「……下がってろ」
「ウホ!?」
妹を抱きかかえたまま、兄がゴリラを睨みつける。
すると、その余りにも鋭い眼光に怯んだのか、ゴリラはわなわなと震えだし、すごすごと檻の奥の方へと逃げて行ってしまった。
「ひっくっ、ぐすっ、お兄ちゃん……」
「泣くんじゃない。お前は大丈夫だったんだから」
「でも、でもぉ、お兄ちゃん……!」
ド ン !!
「服がっ!」
「妹を救えたんだ。お気に入りの服くらい、安いもんだ」
そう。兄が妹を救おうとした際、庇ったその体にゴリラのうんこがヒットしていたのである。それはもう、ド派手に。
「……」
そんな光景を見て、カレンは産まれて初めて、他人を羨ましいと思った。
妹を守ろうと自分の身を犠牲にする兄。
泣いている妹を優しく励ます兄。
それは、いかに裕福なカレンであっても……絶対に手に入らないものだ。
「あの方に、急いでお着替えを」
「はい?」
「何をぼさっとしていますの? お客様への不手際を見過ごすつもりですの?」
この動物園はクラウディウスグループの所有するもの。
ならばその不手際を見逃せないと、カレンは執事に命令を出す。
「かしこまりました。至急、園のスタッフに手配させましょう」
執事は素早く少年の傍へと駆け寄り、着替えとクリーニング代を渡すと伝える。
少年は何度か首を振って遠慮していたようだが、妹側が貰える物は貰っておけばいいというスタンスを見せたので、渋々受ける事にしたらしい。
「このような物しか用意出来ず、申し訳ございません」
「いえ、これだけでもありがたいですよ」
そうして動物園の隅にあるスタッフルームへと案内された少年に、お土産コーナーのTシャツと幾らかのお金を渡す執事。
その背後には、付いてきたカレンも立っている。
「お礼なら、お嬢様へどうぞ」
「えっと、君が言い出してくれたんだっけ? ありがとうね」
「……当然の事をしたまでですわ」
プイッとそっぽを向くカレン。
少年は少し困った顔をしたが、すぐにその顔に笑顔を浮かべると……カレンの頭に手を置く。
「君は優しい子なんだね。この日のお礼は、いつか必ず返すよ」
「あっ……」
そう言い残して、少年は部屋を出ていく。
これで部屋に残ったのは執事とカレンだけである。
「いやー、実に良かった」
最初に、執事がそんな言葉を呟く。
カレンもその言葉に同意するように、小さく頷いてみせる。
「ええ。あの方に喜んで貰えたようで何よりですわ」
「あの方? 何を言っているんです?」
「え?」
執事との会話に違和感を覚え、カレンは振り返る。
するといつの間にか、執事はカレンの背後にまで迫っていた。
「良かったのは、私ですよ」
「し、執事……?」
「ああ、お嬢様。ようやく、2人きりになれましたね」
執事は笑みを浮かべている。
だが、その笑みはどこか歪で、醜悪で、何か不気味な雰囲気を放っていた。
「屋敷内では監視カメラがあって、すぐに護衛が飛んでくる。しかし、ここならそうはいきません」
「何を、言って……いますの?」
思わず後ずさりしようとしたカレンだが、その腕は執事に掴まれてしまう。
それも、ギリッと音が鳴る程に……力強く。
「いたっ!」
「外に連れ出せば、どこかでチャンスが来ると思っていました。でも、あのSP達は中々離れてくれそうに無かった。まさかこんな形で、護衛達を引き離せるとは」
執事が少年にお詫びをする際、付いてきたカレン。
黒服数人をゾロゾロ引き連れていては少年を威圧するだろうという事で、カレン自らがSP達を外で待機させてしまったのだ。
「アナタ、まさかワタクシを誘拐するつもりですの?」
「誘拐? 嫌ですねぇ、お嬢様。私の気持ちを、分かっておられるくせに」
初老の執事が、カチャカチャと自分のズボンのベルトを外し始める。
わずか5歳のカレンであっても、この行動の意味するところは十二分に理解できた。
「いやぁっ!」
「おっと、騒がないでください。手荒な真似はしたくないんですよ」
そう言って執事は、懐からスタンガンを取り出す。
「これは改造スタンガンでしてねぇ。本来はお嬢様をお守りするようにと、旦那様から与えられたモノですが……いひひひひひっ!」
「ひぃっ!」
「お嬢様のような、ちいちゃい、ちいちゃい体ならぁ……くくくっ、一瞬であの世に行ってしまうかもしれませんねぇ?」
バチバチバチと、改造スタンガンは火花を散らす。
「護衛が到着する前に、楽しませてください。そして、その後は一緒に天国へ行きましょうお嬢様。私達が結ばれるには、それしかないんですから」
「く、狂っていますわ……! 誰が、アナタなんかと……!」
「うるせぇっ!」
「きゃっ!?」
執事が裏拳で、カレンの顔を殴りつける。
鼻血が飛び、折れた乳歯がカラカラと床の上を転がっていく。
「あ、あぅえ……!? あぁっ……」
「今まで誰が、てめぇの面倒を見ていたと思ってんだ? こちとらずっと、てめぇを犯したくてウズウズしていたんだ!」
痛みに呻きながら、カレンは振り返る。
この執事が特別好きだったというわけではない。
でも、自分に忠実だったし、その仕事ぶりを評価していた。信頼していた。
それなのに、彼は穢れた欲望で自分を辱めようとしている。
その事が、とても悲しくて……カレンは涙を流す。
「いいねぇ、その顔。ゾクゾクするよ。さぁ、カレンお嬢様。私と1つになりましょう」
男の手がカレンの胸元へとまっすぐ伸びてくる。
助けを呼びたくても、痛みと恐怖で声が出ないカレン。
そんな極限の状況の中で、カレンの脳裏に浮かんだのは……なぜか、先程見たゴリラの檻の前での一幕。
妹を華麗に守った、あの兄の姿だった。
「お嬢様のちっちゃなパイパイに、タッチするよぉ~?」
「ふざけてんじゃねぇぞ! てめぇぇぇぇぇぇぇぇっ!」
「ほごぁおっ!?」
「……へ?」
執事がカレンの胸に触れる寸前で、何者かが執事の顔面を蹴り飛ばす。
その人物の姿は――まさに、今この瞬間、カレンが思い浮かべていた男だった。
「ふぅ……! 君、大丈夫かい!?」
「アナタは……どうして?」
少年はカレンの前に跪くと、ポケットからハンカチを取り出してカレンの鼻に押し当てる。一方のカレンは目の前の光景が信じられず、呆然とするばかりだ。
「いや、連絡先を聞きそびれたと思ってさ。それで戻ってきたら、あの変態が君を襲おうとしていたから……」
「そう、でしたの。でも……あっ!」
「このガキぃっ! 邪魔するんじゃねぇっ!」
少年とカレンが話している間に、ぶっ飛ばされていた執事がスタンガンを手に特攻してくる。
「死ねぇぇぇぇっ!」
「がぁぁぁぁっ!?」
スタンガンが少年に押し当てられ、強力な電力によって激しい痙攣を起こす。
「ぐっ……ぁっ」
「よくも! 邪魔しおって! このっ! ガキがっ!」
執事が少年の腹部を何度も蹴りつける。
しかし少年の意識は既に無いのか、ピクリとも動かない。
「はぁっ、はぁっ……! もう時間が無い。こうなったら、仕方ない」
「あ、ぁ……ぁぁ……!」
「お嬢様。楽にしてあげますよ。私も、すぐに後を追いますから」
「いやっ、いやぁぁっ!」
改造スタンガンの矛先が、今度はカレンへと向けられる。
もう駄目だと、カレンが死を覚悟した……その時。
「うぉぉぉぉっ!」
「「!?」」
倒れていた筈の少年が起き上がり、カレンに覆いかぶさってくる。
「き、貴様っ!? どけぇっ! お嬢様を殺せないだろぉっ!」
これではカレンにスタンガンを押し当てられない。
執事は怒り狂って、邪魔をする少年に何度もスタンガンを押し当てる。
「がっ! ぐぁぁぁぁぁぁぁっ!」
「どけっ! どけどけどけぇぇぇっ!」
しかしそれでも、少年はカレンを離さない。
自分の体の内側に庇い、完全に彼女を守る盾となっている。
「やめてくだいましっ! このままでは、アナタが死んでしまいますわ!」
「大丈夫、だから。君は……俺が、守る、から……がああああああっ!」
「何なんだよお前ぇっ! ふざけるなぁぁぁぁぁっ!」
「おい! 貴様! 何をしている!!」
「取り押さえろ!!」
「なっ!?」
少年の命がけの時間稼ぎが功を奏し、室内にカレンのSP達が到着する。
彼らはその圧倒的な戦闘力で、あっという間に暴走した執事を取り押さえた。
「しっかり! しっかりしてくださいまし!」
しかしカレンの頭にはもはや、執事の事など存在しなかった。
彼女の目には、自分を守り抜いたヒーローの姿しか映っていない。
「……良かっ、た。君が、無事で……」
「どうして? どうしてワタクシなんかの為に!」
カレンには理解出来なかった。
なぜこの少年が自分を命がけで守ろうとしたのか。
確かに自分は裕福で、恩を売る相手としては申し分ない。
だけど命を掛ける理由にしては弱すぎる。
「俺、お兄ちゃん……だから、さ」
「え?」
「小さい女の子を見ると、守りたく……なるの、かもな」
そこまで呟いて、少年は意識を手放した。
すかさずSPの一人が少年を抱え上げて、動物園内の医務室へと運んでいく。
「……」
連れて行かれる少年を見つめながら、カレンは自分の胸が高鳴るのを感じる。
こんな状況で、このような感情が芽生えるのはおかしい。
これが噂に名高い吊り橋効果、というものなのだろうか。
いや、たとえそうだとしても……別に問題ない。
なぜならば、この胸を締め付ける感情は――恋心は。
「……お兄様」
こんなにも、彼女の心を幸せな気持ちで満たしてくれるのだから。
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