第32話:バッドエンドはすぐそこに


【現在 カラオケ屋】


「……完全に思い出したよ、しのぶ。大きくなったね」


 この数年で、しのぶはあの頃より成長していた。

 とは言っても、よくよく見ればその面影はしっかりと残っている。

 どうして今まで思い出せなかったのか、不思議なくらいに。


「兄貴……ずっと、あの時のお礼が言いたかったんだ」


 しのぶは俺の首に手を回すようにして、抱き着いてくる。

 その頬には既に、大粒の涙が流れ落ちていた。


「アタシね、兄貴に出会えなければきっと死んじゃってた。夢も何もかも諦めて、人生に絶望して――自殺していたかもしれない」


「しのぶ……」


「だからね、アタシはあの日からずっと兄貴の事が好きなんだ」


「俺を……?」


「うん。きららも好きだけど、それ以上に……兄貴を愛してる」


 しのぶは俺に密着したまま、その顔をゆっくりと俺の顔に近付けてくる。

 そうして重なった唇は、ほんの一瞬で離されてしまった。


「ねぇ……責任取ってよ」


「!」


「こんなに惚れさせて。アタシの心を奪って。アタシ、兄貴がいなきゃ……もう歌えないんだよぉ……!」


「しのぶ、俺は……」


 しのぶの背中に回した腕が、空中で止まる。

 もし、この腕を交差させてしのぶを抱きしめたら――俺は、もう逃げられない。

 彼女の想いに応える事になるだろう。

 でも、俺にはきららがいる。

 だから、だから俺は……!


「アタシ、兄貴の為なら、なんだって出来るよ? ひかりやきららには負けるけど、この体だって……兄貴の好きにしちゃってもいいし」


 そう言いながら、しのぶは俺の腕を掴み、自分の胸へと引き寄せる。

 ぷにぷにとした柔らかな胸の感触が、俺の手のひらからしっかりと伝わってきた。


「えっちなことだって、いくらでも覚えるから。ねぇ、兄貴……アタシを愛して。アタシの夢を、ずっと傍で応援して!」


「…………ごめん、しのぶ」


 縋り付くように抱き着いているしのぶを、俺は引き剥がす。

 そしてそのままソファから立ち上がり、個室の扉へと向かう。


「いやっ! 行かないでよ兄貴ぃっ!」


「俺は、君に愛される資格なんて無いんだ。だから――」


「資格とか、そんなのどうでもいいよ! アタシは兄貴がいいの! 兄貴がいてくれれば、他には何も要らない! 家族も友達も恋人も、歌だって!」


「っ!?」


 しのぶの悲痛な訴えを無視して、俺は個室から飛び出した。

 あのまま振り向いて、彼女を抱きしめる事が出来れば……どれだけ良かっただろうか。


「ごめん、ごめんな……!」


 再会出来て嬉しかった。

 俺の言葉を励みに、あんなに立派に成長してくれて嬉しかった。

 でも、それでも俺はきららを裏切れない。

 きららの彼女に、手を出す事なんて――


「……うっ、ひぐっ、ううぅぁぁぁっ……! いやぁ、いやだよぉ、兄貴ぃ……! 置いてかないでぇ……! アタシを一人にしないでよぉ……! わぁぁぁぁぁんっ!」


【翌日 晴波家】


 あの後俺は、カラオケ屋の店主に代金を支払い、店を後にした。

 そしてそのまま家へと帰り、いつもと同じ時間を過ごしたのだが。


「お兄ちゃん?」


「あ、ああ。きららか?」


「なんだか昨日から様子がおかしいね。風邪でも引いたんじゃないの?」


「いや、大丈夫だよ」


 どれだけ平常心で振る舞おうとしても、頭の中にはしのぶが思い浮かんでしまう。

 しのぶは一人で、泣いていたのだろうか。

 俺が拒絶したせいで、今も悲しんでいるのかもしれない。

 

「でも、一応……今日のキスはやめておこうな」


「ええー!? でもしょうがないか。風邪をうつされても困るし!」


「ほら、さっさと学校へ行って来い」


「うんっ! じゃあ、お兄ちゃんは家で安静にしていてね!」


 そう言い残し、家を出ていくきらら。

 それを見届けた俺は、気だるい体を引きずるようにして、自室へと歩いていく。

 そしてそのまま間髪入れず、ベッドの上に倒れ込む。


「……」


 しのぶは俺の事を好きだと言っていた。

 だとしたら、きららと付き合ったのも、俺に近付く為だったのだろうか?

 

「……じゃあ、もしかして。ひかりや、カレンちゃんも?」


 そんな筈は無いと否定したくても、そう出来ない理由がある。

 思えば初めて、この家で彼女達と出会った時から――何か様子がおかしかった。

 俺の事にやけに詳しかったり、俺とスキンシップを取りたがったり。

 あの時は気付かなかったが、この状況になってようやく分かった。


「ワタクシ達が。お兄様の事を愛しているって事をですの?」


「えっ!?」


「おはようございますわ、お兄様♪」


 突然の声に驚き、ベッドから身を起こしてみると。

 俺の部屋の入り口に、カレンちゃんが立っていた。


「カレンちゃん?」


「はーい、カレンちゃんですわ」


 ニコニコと可愛らしい笑顔を浮かべ、彼女はこちらへ近付いてくる。


「どうして、ここに?」


「お兄様にどうしても、お話ししたい事がありまして」


「話?」


「ええ。ですが、こんな場所でというのもなんですし」


 ちょこんっと、お人形さんのようなカレンちゃんは俺の隣に腰掛けると、ゴソゴソと胸元をまさぐり……黒い何かを取り出す。


「ちょっと、眠っていて貰いますわね?」


「え?」


 バチチチチッと、その黒い何かが眩い光を放つ。

 そしてそれが俺の首筋に押し当てられた直後には……


「がっ!?」


「手荒な真似をしてごめんあそばせ、お兄様。でも……お兄様がいけないんですのよ?」


「かれん、ちゃん……?」


 薄れていく意識の中。

俺が見上げた先に映るのは――邪悪な笑みを浮かべるカレンちゃん。


「ワタクシはしのぶのように甘くありませんわ。ワタクシを振るつもりでしたら、その前に……たぁっぷりと、調教洗脳して差し上げましてよ」


「うっ……」


 そんな彼女の言葉を最後に、俺の意識は途絶えてしまう。

 ああ、そう言えば。ずっと前にも、こんな目に遭った事があるような気がする。

 確かあれは――5年くらい前。

 俺がまだ、中学生だった時の話だ。


【次回 カレン・クラウディウスの過去】

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