第10話:俺はここでターンエンド
「えっと……もう、落ち着いたかな?」
「ひっく……ぐすっ……!」
俺の胸の中で、しばらく泣きじゃくっていた雷堂さん。
俺は彼女が泣き止むまで、ずっとその背中を擦ってあげていたのだが……正直言って、何がどうなっているのか分からずにいた。
アタシだけ名字呼びなんてズルい。確かに雷堂さんはそう言っていた。
つまり彼女は俺に、名前で呼んで貰いたい……という事なのか?
「雷堂さん」
「ぶぇぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁっ! また名字で呼んだぁぁぁぁぁぁぁっ!」
試しにもう一度名字で呼んでみると、彼女の反応はコレだ。
「……しのぶさん」
「……ずぴっ、ずず……やだ。さんなんて付けないで」
「じゃあ……しのぶ」
「えへへへっ! なぁに? 兄貴!」
雷堂さん……もとい、しのぶは俺に名前で呼び捨てにされた途端、コロッと泣き止み、それはもう可愛らしい笑顔を見せてくれた。
しかも幼い子供のように俺に抱きつき、スリスリと頬まで擦ってくる。
「だ、ダメだよ……雷堂さ……」
「あ?」
「し、しのぶ!」
「あはっ! ぎゅぅー!」
天使のような笑顔から、鬼のような形相、そしてまた天使のような笑顔。
一体何がどうなっているんだ……?
「しのぶ、聞いてもいいか?」
「うんっ! なんでも聞いて!」
「……君はどうして、俺に名前で呼ばれたかったんだ?」
最初はひかりさんやカレンちゃんだけが名前で呼ばれるから、その疎外感で怒っているではないかとも考えた。
しかし、このあまりの変わり様は、それだけでは説明が付かない。
明らかに彼女は、【俺に名前で呼んで貰う事】に執着しているように見えた。
「だって……兄貴だもん」
「え?」
「兄貴はアタシの兄貴じゃないとやーなの! やーなのやーなのぉ!」
「俺が、しのぶの兄貴……? もしかして、しのぶはお兄さんが欲しいのか?」
「……」
俺の問いかけに、しのぶは黙ったままコクリと頷く。
そして、俺にしがみついたまま……小さな声で語り始める。
「うちの家族。アタシが生まれる数年前に、一人息子が事故で死んじゃったらしくてさ。それで親は、死んだ兄さんの分も真面目に生きなさいって……アタシへの教育が厳しくて」
「お兄さんが……」
「テストで90点を取ってもビンタ。漫画やゲームを持っているだけで不良扱いされて、食事抜きにされる日も珍しくなかったんだ」
「おいおい、なんて親だよ」
子供に厳しく教育する事と、自分の理想を押し付けるのは違う。
子供は人形や機械じゃない。ちゃんと子供の感情も汲まないと、それはただの虐待と変わらないじゃないか。
「そうやって、親から酷い仕打ちを受ける度に……アタシは思ったんだ。死んだ兄さんが生きていたら、アタシを守ってくれたのかなって」
「しのぶ……」
「でも、兄さんは死んだ。もういない。顔も見た事の無い兄さんを求めるより、アタシはアタシだけの兄貴を見つけるって……誓ったんだ」
そこまで話して、しのぶはズイッと俺の顔に自分の顔を近付けてくる。
そして、俺の額に自分の額を重ねながら……顔を惚けさせた。
「やっと見つけたんだ……! アタシの最高の兄貴♪」
「俺が、最高の兄貴……?」
なんという買い被りだ。きららがいたら、アイツも笑うだろう。
俺なんて、兄として未熟もいいところの青二才だというのに。
「子供の頃から、ずっとこうしたかったの。大好きな兄貴に、抱き着いて、抱きしめてもらって……頭を撫でられるの」
「……?」
「抱きしめてもらって、頭を撫でられるの」
「いや、そんな事はまだしてないけど……」
「抱きしめてもらって!! 頭を撫でられるの!!」
「は、はい! 今すぐそうします!」
しのぶの剣幕に気圧され、俺はすぐに彼女を抱きしめつつ……そのまま右手で彼女の頭をナデナデする。
「んはぁ……! しあわせぇ……♪」
うっとりとした表情で、しのぶは俺に頬擦りをしてくる。
むにむにとした頬の感触が気持ちいいのは嬉しいが……
「でも、これはマズイんじゃないか? いくら兄貴と言っても、君はきららの恋人なわけで……」
「きららがアタシの彼女なら、兄貴はアタシの兄貴じゃんか」
「それは、そうだけど……!」
「兄貴は……アタシの事、嫌いなの?」
「うぐぁっ!?」
ウルウルとした瞳で上目遣いはやめてくれ。その技は俺に効く。
二十年近くも培ってきた、俺の兄センサーがビンビンに反応しちまう!
「キライジャナイヨ」
ピッ
「じゃあ……アタシの事、(女として)好き?」
「うん、(妹として)好きだよ」
「しのぶの事が、(女として)だーい好き?」
「ああ、しのぶの事が(妹として)だーい好きだよ」
ピッ
「えへへへっ! 兄貴、ありがとぉー! アタシもだーいすきっ!」
「……?」
あれ? 今、なんか妙な電子音がしたような?
気のせいか……?
「兄貴……しゅき、もっといっぱい甘えさせて……」
「いやいや、甘えるのはいいけど……こんなところを他の人に見られたら、誤解されちゃうよ? それこそ、きららになんて言えばいいか……!」
「じゃあ、2人きりの時なら甘えてもいい?」
「え?」
「みんなの前では、今まで通りにするから。それなら、問題無いよね?」
「そ、それでも……!」
「問題無いよね?」
「こ、こればっかりは凄んでもダメだ。俺は君の兄貴である前に、きららの兄だ。アイツを傷付けるような事は、絶対に出来ない!」
またしてもしのぶが怖い顔で脅してくるが、俺は屈しない。
兄として、きららの為なら、俺は命を賭けてでも……
「ぐすっ……ダメなのぉ?」
「……た、たまになら! そんなに数が多くなければ……いい、かも」
ああ、許してくれきらら。
俺は兄であるのと同時に……どうしようもなく男なんだ。
目の前で可愛い女の子が泣いているのを見過ごせない。
「兄貴ぃっ♪」
「わぷっ!?」
「ナデナデしてぇ! もっといっぱい、ぎゅーってしてくれなきゃやだぁ!」
「あ、ああ……」
義理の妹に対するスキンシップとしては、いささか過剰過ぎる気もするが。
俺にはなんら、やましい心は無い。あくまでも、俺にあるのは兄としての欲のみ。
しのぶに対して、性欲を向けるような事は――
「んぁっ……兄貴、そこ……感じちゃう……♪」
「ふぁっ!?」
背中に回そうとした俺の右手が、しのぶが動いたせいで……彼女のお尻を鷲掴んでしまう。弾力のある、ぷりんとしたお尻の感触がスカート越しに伝わって――
「スカート捲れて……パンツの中、指が入っちゃってるよぉ……」
訂正。これはダイレクトアタックだったようです。
俺のライフポイントにゴッドハンドスマッシャー。
「あばばばばばばばばっ……!」
「あれ? おい、兄貴!?」
ひかりさんに続き、しのぶに対してまでセクハラを働いてしまった。
その凄まじい罪悪感から、俺の頭はまたしても真っ白になり……プツンと意識を手放してしまう。
「……あちゃー。これが、ひかりの言っていたヤツか」
「う、うぅ……」
「まぁ、いっか。これからアタシといっぱい触れ合って……耐性を付けていけばいいもんな♪」
気を失った俺の頬にチュッと口付けを行い、ニンマリと笑みを浮かべるしのぶ。
そして彼女は、フードパーカーのポケットにしまっていたスマホを取り出すと、それを操作して――先程録音したばかりの音声を再生する。
『じゃあ……アタシの事、(女として)好き?』
『うん、(妹として)好きだよ』
『しのぶの事が、(女として)だーい好き?』
『ああ、しのぶの事が(妹として)だーい好きだよ』
「んふふふふっ……! ひかりに負けてられないからな。アタシもちゃーんと、武器をゲットしておいたぜ」
俺の知らないところで、どんどん弱みが握られていく。
しかし、これらはまだ……ほんの序の口に過ぎない。
俺を待ち受ける、天国のような地獄の日々は――まだ始まったばかりなのだ。
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