幸せのサンタクロース

フジミツタスク

幸せのサンタクロース

 目を開けると、星々に照らされた海がさざ波を立てている。果てなど見えるはずもなく、どこまでも続いているその景色をただ眺めていた。

 七月七日、僕はたしかに自分の部屋にあるベッドで眠りについたはずだった。それがどうして、こんな場所にいるのだろうか。海から自分の服装へ見下す形で目線を移すと、半袖の黒いシャツに薄手の黒いスェットという簡易的な格好だった。やはり、僕の寝巻きで間違いなかった。

 砂浜も海と同じで、終わりが全く見えない。暗さのせいか、それとも本当に果てがないのか。考え始めても疑問は増えるばかりで、働かない頭を抱えて砂の上をゆっくりと歩き出した。

 裸足のまま砂を踏みしめると、キュッキュッと軽やかな音がする。島根の何処かに存在する砂浜の砂は『鳴き砂』と呼ばれていて、石英の粒が摩擦して音を出している、とニュースで見かけた。けれども、この場所が島根なのかも分からないし、逆にどんな場所でも良いと思えた。

 砂を踏みしめて音を奏でるのが思いの外楽しく、歩きながらリズムを刻む。リズムに合わせて、砂浜に自分の足跡も刻まれていくのが、少し気持ち良かった。

 五分ほど歩きながら視線を辺りに彷徨わせていると、視界を真っ赤なものが横切った。目を凝らしてよく見ると、どうやら人影のようだった。砂浜へと押し寄せてくる波に当たらない、ギリギリの距離で海と向かい合っている。

 砂を鳴らしながらその人影へ向かって歩いて行くと、相手も僕に気がついたのか視線をこちらに向ける。

 真っ赤なロングコートに身を包み、真っ白なマフラーを首に巻いたその女性は、表情が分かる程の距離まで近づくと優しさを含んだ目で僕に微笑みかけてきた。綺麗で透き通るみたいな黒い瞳だった。風になびいた長い黒髪が、星に照らされた海と同じく輝いている。高校生の僕より少し大人びて見えるが、大学生ぐらいだろうか。

「散歩ですか?」

 はっきりした、それでもどこか穏やかさが含まれた澄んでいる声だった。そうかもしれません、と浮ついた返事を僕が返すと、彼女は小さな声で笑った。

「どこから来たんですか?」

 今度は答えやすい疑問だったので、自分の足跡が続いている砂浜を指し示した。

「この足跡の先から来ました」

 おかしな人ですね、と彼女はクスリと笑った。楽しそうな表情が僕にも伝染しそうな、そんな笑顔だった。

「あなたは、ここで何をしているんですか?」

 未だに自分自身でよく分かっていないことを、彼女に尋ねてみる。

 目の前の女性は一度僕から目線を逸らして、空を見上げながら呟いた。

「私、サンタクロースなんです」

「───サンタクロース、ですか」

彼女から出た言葉の意味を噛み締めながら、少し間を空けて僕は同じ単語をを繰り返した。

「たしかに、その格好だと信じてしまいますね」

 赤いコートに白いマフラー。僕が知っているサンタクロースの色合いにぴったりだった。

「そうですよ、私はサンタさんなんです」

 信じると言われて嬉しかったのか、サンタさんと名乗る彼女は目を輝かせて喜んでいた。大人びた見た目に反した幼気な反応は、とても可愛げがあった。

「何か、欲しいものはありませんか?」

 サンタさんは一度声を落ち着けて、再び僕に尋ねる。最近何か欲しいものが、僕にはあっただろうか。

「そうだなぁ」

 呟きながら、僕はサンタさんを横目に果てしなく続いている碧い海を見つめる。なんとなくこの季節外れのサンタクロースは、何でもプレゼントを用意してくれる気がした。

 改めてサンタさんに向き合い、同じ目線の高さにあるその瞳を、真っ直ぐに見つめる。嬉しそうに答えを待つ彼女へ、僕は告げた。

「───僕は、幸せが欲しいです」

 強めの風が吹き、海が唸る。必然と、波も大きな音を立てた。

 サンタさんは一瞬目を大きく見開いたが、すぐに微笑みを取り戻した。

「なるほど。幸せ、ですか」

 僕の言葉を反芻しながら、サンタさんは海を見据える。

「サンタさんは、何でも用意してくれるんですか?」

 僕は鳴き砂の上に腰を下ろし座り込みながら、水平線らしきものに視線を移した。幾千の星に照らされていても、海の境目までは分からなかった。

「僕は、幸せが何なのか知りません。だから、サンタさんが僕に用意してくれたものを、これから幸せと呼ぼうと思います」

 サンタさんは座り込むことなく、佇みながら僕の話を遮ることなく聞いていた。

「サンタさんは、僕に何を用意してくれますか?」

 彼女を見上げながら、再び尋ねる。表情が影に隠れてよく見えない。

 しばらく無言のまま、風と波の音だけが響き渡る。この空間に、今だけは二つの音しか存在していないことが、心地良かった。

 そして、続いていた静寂を壊さないようにサンタさんが口を開いた。

「何を渡しても、喜んでくれるでしょうか」

 僕は少し考えた後、苦笑気味に返す。

「どうでしょうか。冷たいとか、冷めてるとかよく言われるので、あまり期待しないでください」

 喜怒哀楽が表に出ないわけじゃない。それでも、心の底にある感情はいつも冷えている。誰かのせいではなく、気がついたらそうなっていた。理由などなく、それが僕にとっての普通だった。

 僕の言葉を聞いたサンタさんは、長いコートの裾を折り畳みながら隣にしゃがみ込むと、こちらに向かって右手を差し出してきた。

「手を、握ってください」

 言われるがまま、僕は左手を伸ばしてサンタさんの手を握る。自分より小さな掌だったが、たしかな温もりを感じた。人がこんなにもあたたかいことを、僕は知らなかったかもしれない。

「どうですか?」

 優しい瞳で、彼女が僕を見つめる。澄んだ瞳の奥に惹かれて、視線を外せなかった。

「あたたかいです」

 正直な感想を述べると、サンタさんはそっと微笑みながら続けた。

「誰かをあたたかいと感じる心が、私は幸せだと思っています。暑い日でも寒い日でも心が冷たいのは、やっぱり寂しいですから」

 海を見つめて、少し悲しそうな笑顔を浮かべながら話すサンタさんを、僕は見つめていた。

 そして、再び僕の顔を覗き込むと、満面の笑みで静かに語りかけた。

「だから、この掌の温もりを忘れないでください。きっといつか、貴方の心もあたためてくれますから」

 握られた右手に、少しだけ強い力が込められる。本当に幸せを分け与えるつもりで、彼女は僕の掌を握ってくれている。

 心の何処か、普段は届かない琴線に触れたのか僕の目から涙が流れた。冷たいと言われてきて荒んでいた心に、日を差し込んでくれたから。

 一度決壊した想いは止まらず、涙も溢れ続ける。頬を伝った雫が鳴き砂に染み込み、白い砂浜を濡らす。

 いつから、泣かなくなったのだろう。どれだけ我慢してきたのだろう。こんなにも、心は泣き叫んでいたのに。

 それから長い時間、嗚咽を漏らして、子供のように泣きじゃくった。その間もずっと、繋がれた掌が解かれることはなかった。

「安心してください。貴方は、幸せになれますから」

 意識が遠くなる中、サンタさんの声が頭に響いた。涙で濡れた視界の端に映る赤いコートも、優しい笑顔も、霞んでいく。僕はそのまま深い眠りへと落ちていった。




 ふと目が覚める。何故か意識がはっきりとしていたので、視線で時計を確認する。朝の登校には十分間に合う時間だった。

 体をベッドから起こし、立ち上がる。七月に入ってから、部屋の中も蒸し暑い。これ以上暑い日々になることを考えると、少し気が重くなる。

 部屋のドアノブに右手をかけて、一瞬動きを止める。一度手を離し、右手の掌をしばらく見つめていた。

 誰かに、何か大切なものを貰った気がした。

 右手を開いたり閉じたりしてみるが、やはり思い出せない。再びドアノブに手をかける。

 その時僕は、ドアノブの冷たさよりも、掌の温もりを強く感じた。

 そのあたたかさだけは、たしかに右手が覚えていた。

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