4-209 終節:抒『Phallus/Farce』
旧校舎の一番奥にある教室には近づいてはいけない。
かつての栄光は色あせ、輝かしい青春はすべて息絶えた。そこには瓦礫と残骸が積み上げられた、人形たちの死体安置所しか残っていない。
その掟を破れば厳しい罰が下されるという噂は、しかし黒髪の乙女を止める理由にはならなかった。着物風に改造した女子用制服、長い黒髪に一直線で切りそろえた前髪、涼しげな目元に流水の義肢。男子部に突如として現れた美少女転校生イツノは、男の
転校生の役作りとして下半身を男性用義体に換装しているため、彼女は彼女のまま女であり、同時に男でもあった。踏み出す一歩は雄々しく力強い。
古びた廊下を踏破して、教室の扉を勢いよく開ける。
中でラクルラールが死んでいた。
槍で黒板に串刺しにされて決定的に機能を喪失したスクラップ。学院に君臨していた魔女の無惨な末路だ。教師だけではない。過酷な父兄参観を生き残れなかった人形の生徒たち、試験問題として消費された父兄たち、外敵から七つの門を守って散っていった尊い犠牲たち。
恐るべき七連珠、巨大な学院に比肩するほどに大きな鉄の魚ゼルディーオの残骸までもが机と椅子の下に収まっている。空間のスケール感はひどく歪んでいて、せいぜい三十人程度しか収容できないはずの室内は数千、数万の屍が敷き詰められてもなお破綻を来していない。ここはなにも起きず、なにも始まらない終点だ。
「どうしてこの舞台は未だに学院という形を保っているの?」
イツノはひとり、小声でつぶやいた。誰がこの浄界の管理者なのか? この奇妙な罠の解除条件とは何か? いくら考えても答えは出ない。『前回の舞台』でラクルラールが倒された結果が引き継がれているのだとしても、それならば学院がそのまま残るのは奇妙だ。シナモリアキラがそれを望んでいるとでも?
「あるいは他のプレイヤーが望んでいるか。そういうことよね、イツノちゃん」
背後の声に振り向く。イツノの瞳が揺らいだ。迷い、敵意、それから当惑。
中性的な美貌と長身、体の線がわかりづらいユニセックスなデザインのシャツ。長い足を包むデニムパンツの腰部分には尾隠しのアシンメトリースカート。窓から差し込む夕焼けが現れた人物を照らすと、服のドレープがわずかに透けて見えた。
「マラコーダ。あなたは、なに」
イツノの腕が蠢き、竜蛇の大顎を模倣する。
クリアな殺意が麗人へと向けられていた。
イツノはかつて冬の魔女に言った。マラコーダこそラクルラールの中核、最悪の妖精王であると。だが、当人の答えはもう少し複雑だった。
「この身体はシナモリアキラ。対『死人の森』用の戦力として、また対『ラクルラール』用のワクチンとして我が機械女王が調整してきた妖精王の末裔」
「嘘。だって、あなたは」
「あなたは幾つもある『はじまりのラクルラール』のダミー情報を掴まされているのよ、イツノちゃん。いいえ、より正確に言えば『はじまりのラクルラール』なんて言葉そのものがダミー。そして、あなたも私と同じ」
イツノの表情が強ばった。ラクルラールを知り、そこに考えが及ばなかった者はいないだろう。すなわち自分こそラクルラールの人形、あるいは無自覚な本人なのではないか、という疑念だ。
「いかに強大な魔女であろうと、誰であろうと無条件に操作できるわけではない。もしそうなら、とうに全ては魔女の思うがまま。誰も抗う意志すら持てない」
イツノの言葉に、マラコーダは同意のうなずきを見せた。たとえばラクルラールの支配が及ぶ範囲について、一通りの予測を立てるならばこのようになる。
「ラクルラールはあくまで人形師。創造、調整、操作が本領。このマラコーダという身体は機械女王のオカルトーグだから、調整対象ってわけ」
言うまでもなく、イツノはトリシルシリーズという魔女たちの被造物だ。人形師が操作するにはうってつけのツールだろう。
男であり女でもある両者はしばし互いの姿を凝視し合った。鏡を恐れる動物のように、こわごわと息を飲む。イツノは結論せざるをえない。
「あの子は、今は役に取り込まれて操られているコズエは」
「私たちの脆弱性を把握した上で信頼を置いている。あなたに多くを説明しなかったヒメちゃんも同じ。わかるかしらイツノちゃん。私たちはね、対立する二つの陣営にとって最も使い勝手のいい人形なのよ」
あるいは、ゲーム盤の上で頻繁に交換される駒。
イツノにとって衝撃だったのは、マラコーダが自らの運命を完全に上位の意志に委ねきっていることだった。自由意志による自由意志の放棄。マラコーダがシナモリアキラの交換要員たちのリーダー格である理由はおそらくここにある。
ぞくり、とイツノの背筋を冷たいものが走る。シナモリアキラの中でもとりわけ独立性の高い、シナモリアキラを殺したいと願うイツノ。しかし彼女はどこまでいっても試作機、旧式なのだ。整った表情が苦しげに歪んだ。
「私たちは、なにを演じることになるの」
マラコーダは哀れみか共感か、少しだけ眉を下げた。
「浅ましさから呪いを招いた父。あるいは厭わしき外敵と化した息子。『死人の森の女王』を貫く槍にして魔女、『彼の父親』という役割を演じる者」
「彼?」
「主役よ。じきにわかる。舞台が始まれば、嫌でもね」
言葉が終わらないうちに世界が揺れ動く。時震による軋みだろう。ここは舞台裏、幕間に入ったわずかな亀裂のようなものだ。繰り返される再演劇は、セットが再配置されることによってまた始まる。見えない妖精たちが整えた舞台が完成し、また幕が上がる。
イツノの身体が足下から泡になって消えていく。どこか異なる場所に再配置され、また異なる役を与えられるのだ。もう一人は違った。
「マラコーダ、あなた、ここに残るの?」
「そうみたいね。するとあなたの出番は次の再演かしら。多分これは三幕が三部続く古典的なスタイルだから。すると問題は、最初の外敵であるゼルディーオ役が誰だったのかよね。イツノちゃん、あなたわかる?」
イツノは返答に窮した。操り人形である『外敵役』、王国崩壊の要因。
滅びの共通項は一体なんなのか。
男かつ女、当てはまる者は多いが、アレッテ・イヴニルもミヒトネッセもカーティスも前回は別の役割を与えられていた。兼役、未知の第三者、その他の可能性まで考えたところで、イツノはあることに思い至る。
イツノやマラコーダが『はじまりのラクルラール』の正体に迫る鍵であるならば、同じ役割を演じたゼルディーオの役者もまたそうであるはず。消滅の寸前、イツノの視線が教室の隅、人形の残骸に混じったゼルディーオの屍を捉えた。機械仕掛けの大魚、流線型の次元潜行船。遠隔操作すら可能なあの艦船は確か。
思考が途絶する。イツノが消滅したのだ。
残されたマラコーダにもまた新たな役割と運命が付与される。糸に操られて死体安置所と化した教室からふらふらと立ち去っていった。
誰もいなくなった墓場で、物言わぬ大魚が軋むような音を立てた。流線型の方舟、その内側から、ぬっと手が突き出される。何者かが這いだそうとしていた。
ひとつ、ふたつ、みっつ、それから沢山。
十数にも及ぶ腕、小さなものからある程度大きなものまで、様々な腕が大魚の口からざわざわと伸びて何かを求めるように虚空を泳ぐ。
直後、教室に大量の水が流れ込む。
大波は全てを飲み込み、残骸を深海へと誘っていく。
蠢く腕たちは大魚のごとき方舟の中に引っ込み、鋼鉄の棺桶と化したゼルディーオは水に押し流され、砕けた教室の外へ、果てしない彼方へと流されていった。
そして世界はリセットされる。神々の怒りは大洪水を、大嵐を、あるいは大地震を招き、あらゆる文明を粉々に粉砕した。
生き残ったのは、脱出に成功した一握りのみ。
かつて、偉大な皇帝があった。
妖精皇帝エフラス。運命の掌握に成功した言語支配者。運命の眷属である妖精たちはエフラスの支配の下、ゼオーティアの大地で繁栄を極めた。
だが黄金の時代は長く続かなかった。
エフラスを恐れた槍の神々によって妖精郷アヴロニアは空の彼方に追放された。ある伝承では、神々の怒りを事前に察知したエフラスはアヴロニアを星を往く方舟に変えてゼオーティアから脱出し、世界槍のような異界として空に固定したのだとも言われているが、妖精郷が既にこの世に無いことだけは確かである。
アヴロニアの大地が剥離し精月に姿を変えたあと、荒廃した大地に取り残された有力な諸侯たちは妖精王を名乗り覇を競い合った。
魔王ベルグ・ベアリスは球神に槍を向け、球神官ガルラ・クオールと終わらない戦いを繰り広げた。孔雀のブリシュールと森の王冠カリスト・ラエジロスの婚礼により誕生した妖精連合は蝗帝ロシンバズイの軍勢と拮抗、北方辺境ではリーヴァリオンとアストレッサが東方から侵攻してきたクロウサーと激突。アヴロニアの宮廷付き魔法使いアイストライナが調停を完了させ、妖精たちの領土を画定させるまで諸王乱立による混乱は長く続いた。
これはそんな戦乱の時代の一幕である。
蛇蝎将ハジュラフィンは蛇蝎王と名を改め、西方のいずこかにあるという秘境、『銀の森』に向かっていた。そこは彼と血を分けた妖精王、繭衣のルウテトが守護していたが、守護であって支配ではないというのがハジュラフィンの理解だった。
「この森が皇帝陛下の直轄領ね。ならばあのお方が不在の間、彼の右腕であるこのハジュラフィンがお預かりするのが道理というもの。帰還の日まで、この冬の美を凝縮させたような森は全部アタシのもの。たまんないわあ」
大蛇の革と大蠍の甲殻でできた見事な鎧を着込んだ長身の美丈夫が雪道に深いくぼみを作りながら歩いていく。
真っ白に染まった糸杉がおびえてざわめき、彼を恐れるようにして道を開けていく。森の怯えに気づいたのだろう、奥から凍えるような美しさの光妖精が現れる。
「この地は恐れ多くも皇家の精領。そのような物々しい装いで足を踏み入れるのは感心しませんよ、ハジュラフィン」
冬の女王の冷たい瞳には歓迎の色はなかった。それどころか腰には優美な装飾の剣を提げてあからさまに警戒を示している。
「あら、冷たいのね。アタシたち、同じ年にアエルガ=ミクニーの血を受けた兄弟姉妹じゃない。たとえアタシたちが起源を異にする輪廻転生者でも、妖精の血の絆は軽くは無いはずよ。もっと親しくしましょうよ」
「愚にもつかない劣化コピーを繰り返すしかできないあなたが私の兄弟? 繰り言はやめなさい。あなたは王の器ではない。魂胆も知れています。去れ。さもなくばこの森を墓場とするがいい」
ルウテトの怒りは深い。それもそのはずだ。ハジュラフィンはここに来る道中、腰から伸びた長い蠍の尾から毒を滴らせ、そこらじゅうを汚染してきたのだから。土壌に染み込んだ地雷兼化学兵器。ハジュラフィンの振る舞いはほとんど敵対行動に近い。このやりとりを呪文の前哨戦と解釈すれば、妖精王たちの殺し合いは既に始まっているとも言えた。
「一応、形式上訊ねておくけど。劣化なき魂の継承、冥道の秘儀を教えてもらいにきたわ。もちろん、嫌なら力ずくで話してもらうけど、どうする?」
にいっと笑ったハジュラフィンに対し、ルウテトは表情を動かさずに言い放つ。
「私は盟友である皇女殿下、エトラメトラトンから地位と所領の二つを預けられています。どちらも今の私にとっては必要なもの。ですからこう答えましょう。お断りします。今は、まだ」
「生意気。この蛇蝎王ハジュラフィンに雄の顔をさせるなんて、罪深くてよ?」
気の短いハジュラフィンは最初から対話をするつもりなどなかった。彼は長い蠍の尾を伸ばし、ルウテトの肉体を幾度と無く突き刺した。森の大地には流れ出した血が染み込み、暴力の興奮によって蛇蝎王が達すると彼の生命力もまた土地に染み込んでいった。
銀と白の美しい森、雪に煌めく世界が黒く染まっていく。女の血は漆黒であった。『エフラスの最も賢く最も呪わしい娘』エトラメトラトンの呪いによって赤い血を書物のインクに変質させていたルウテトは、己に纏わる伝承を滴らせる。女の裂けた腹からは書物がこぼれ落ち、九つの断章となって地中に埋没していった。
激情に駆られて自らの血族を貫いたハジュラフィン。しかし同時にルウテトが最後の力を振り絞って剣を一振りすると、蛇蝎王は胸に手傷を負って一歩、二歩と退いた。ルウテトは瀕死となりつつも呪いを口にする。
「ああ、マラード、アルト、オルヴァ、ヴァージル、パーン、カーティス、そしてゼルディーオにハジュラフィン、これもまた音の羅列、代替可能な記号!」
ルウテトの吐く息はあらゆるものを腐らせる。彼女の右半身もまた、腐肉と骨のみがへばりつく無惨な死そのものへと変貌していった。ハジュラフィンはそのおぞましい姿を見て嫌悪に表情を歪め、そのような相手が肉親であること、そのような相手に自らを突き入れたことを恥じて呪いを口にした。
「この滴る血、そしてこぼれた精液が溜まった泥からはこれまでに生まれたどの忌み子よりもおぞましい子供が生まれるであろう。国々に災いをもたらし、法と秩序を破壊し、父を殺し母を犯す禁忌の申し子! 荒れ野に放逐され、独り己の宿業を嘆き続けるがいい!」
そう言って致命傷を負った蛇蝎王はその場から逃げ去った。かくして『銀の森』が有していた神秘的な土地の力は汚染され、地の毒という恐るべき呪いが森を、そしてルウテトを蝕んでいった。じきに女王は死に、王権を巡る内乱が勃発する。
滅びが始まった。鈴国に連なるいずれかの王国からの侵攻。呪術の発展による生と死の解体。長命種や巨人族、槍の血族からの攻撃。不死王権の継承者を自称する大地の民王朝の介入。王国の生と死の再演は、このようにして繰り返される。
ばちんと音がして、スポットライトの下に現れる騎士とまじない使いの丸っこい人形。紅紫の少女人形トウコが声色を使って二役を演じていく。
「ベルグくんと!」「ガルラくんの!」「なげやり人形劇がはっじまっるよー! わーわー!」
どんどんぱふぱふー。
人形たちは楽しそうに飛び跳ねる。
「パラリラパラリラ~、おらおらそこのけ~、魔王ベルグさまのお通りじゃ~」
「怖い怖い! とっても不良! けどそんな奴は風紀神官ガルラくんがやっつけちゃうぞ! とりゃー」
「うぎゃー、やーらーれーたー。やるな、お前」
「お前こそ、ならず者かと思ったが、少しは気骨のあるつわものじゃないか。どうだ、その有り余った腕力、大地の民たちを守る為に使ってみないか」
何度もぶつかりあった後、ひしと抱き合う人形たち。なお人形の動きはおおざっぱなため敵対も友好も同じ接触にしか見えなかった。そこに言葉以上の差は無い。
「河原で殴り合って芽生える友情ね。はいはい」
毛先をくるくるといじりながら人形劇を放棄してつぶやくトウコ。人形たちは主の指示無しで動かなくてはならない。二人は声を揃えて言った。
「戦いから生まれるものもある! だって青春だもの!」
暗転。間を持たせるための人形劇が幕を下ろす。
闇を裂いて照明が降りてくる。
切り取られた舞台の上、そこに立つのは赤い髪をした少女コズエ。優れた分け身を緑の瞳に映して、彼女は独りで語りはじめる。
「私は勝利を手に入れた。乗り越えるべき試練に打ち勝った。けれど本当にこれだけでいいのだろうか。私が立ち向かうべき宿命は別にあるのでは?」
女神候補生。すべては最後の未知に至るために。
けれど未だコズエは届かない。
ラクルラールでは駄目なのだ。
「あんなものでは女神には遠い。私が真に求める理想。それはなに?」
問えば光が二つになる。新たな照明が作る円形の空間、そこには簡素な寝台とそこに眠るひとりの少女があった。
冬の銀を宿す、永遠の死を統べる王女。
ヒメという名のコズエの半身。
「ああ、なんてこと。やはりそうなのだ。私が乗り越えるべき相手は他ならぬ私自身の理想でしかあり得ない。そうすることでしか私は私の世界を掴めないのだ」
舞台上で悲嘆に暮れるコズエ。その吐息、指先の震えのひとつひとつに至るまで、悲しみと呼べる表情を解体して再構成した完璧なそれらしさだった。
つまりこれは悲劇なのだ。
照明が消える。
闇の中、舞台ではなく観客席のあたりから音が響く。
かちり、という木と木を触れあわせるような駒音だ。
やがて世界の目が慣れてくると暗がりの光景がぼんやりと明らかになってくる。そこには小さな卓と盤面があった。盤上には駒が配置され攻防を繰り広げていた。
奇妙な盤だった。
駒を奪い合う競技ではあるのだろうが、盤の構成が二層に分けられている。中央は一般的な平面だが、その四方を一段高い段差付きの盤面が囲っている。さながら闘技場か、演劇を行うための古代の舞台のようだ。
中央の舞台で争う駒は、精緻な装飾を施された可憐な人形たち。一方、周囲の観客席にあるのは何にでもなれそうな没個性な兵士、奇妙に飛び跳ねてはその顔を変える盗賊、周囲の駒を自在に移動させる人形師といった具合である。
内と外、二つの盤面は直接の行き来ができない様子だが、双方の駒の動きは連動しているようにも見えた。
外側で盗賊の駒が大きく跳躍すると、中央の盤面で連動した銃使いの駒が相手側の剣を象った駒を奪った。しかしすかさず侍女をモチーフにしているらしきゼンマイ仕掛けの駒が銃使いを奪う。その侍女もまた奪い取られ、盤上遊戯の常として駒は絶えず交換され続けていく。
猫とコウモリの駒が激しくぶつかり合い、小さな杖を掲げた赤い駒が外側の人形師を翻弄する。巨大な瞳を掲げた白銀の姫君が盤面の端から端までを駆け抜けて盤上を掌握し、最強の女王駒に昇格した姫君を外部の駒たちの暗躍が抑制していく。
小杖の駒は瞳姫の駒に届かない。
女王にだけ許されたダイナミックな動きは最も女神に近い強者のもの。
力が欲しいかと顔の無い兵士が問い、力をやろうと人形師の糸が伸びる。
最終局面に割って入ろうとするのは侍女と盗賊。だがそこで、誰も予想だにしなかった駒が介入してくる。
剣だ。退場したはずの無害な駒。
なぜこの駒が今になって盤面に舞い戻ってくる?
ふと気づけば、外側の盤上に新たな駒が現れていた。
次なる盤外の干渉者。
その全容が明らかにならぬまま、剣の駒は一歩を踏み出す。主戦場から少し離れて、放置されていた局面へと。
剣はまず、猫と相対した。
ひどく耳障りな音が響いていた。
ざわざわ、ざあざあと、あらゆる環境音が不快感をかき立てる。それは断崖絶壁に打ち寄せる波の音であり、湿った潮風が揺らす木々の嘆きであり、島中にあふれた死体に群がる蠅の羽音の仕業だった。
絶海の孤島は悲しみに暮れている。歴史と伝統ある学院は未曾有の危機に瀕していた。異界の海に囲まれた死の女王島は永遠の君臨者、妖精の女王に庇護されているはずだった。しかし女王の親衛隊であるアイドルユニット、『六王』がワールドツアーライブで不在の時に現れた外敵、蛇蝎王ハジュラフィンによって学長女王が討たれてしまったのだ。
学長の遺体はバラバラになって島中に散らばり、哀れにも首だけが串刺しにされて校庭の中央に晒されている。蠅の群がる豚の生首は無惨な女王の残骸である。
生徒である人形もまたことごとく死んでいった。あらゆる災いが島を襲い、井戸の水は漆黒の穢れに染まり、田畑を異形の異界外来種が埋め尽くす。
「まさしくこの世の終わりだ。ああ、それというのもあの恐ろしい怪物が島を荒らし回るようになってからだ。女王陛下がご存命であれば、あるいは六人の英雄たちが戻ってさえくれば! だが彼らも既に間に合わぬ。このまま命尽きるまで嘆くより他にできることは無い」
生き残った男子生徒たちが声を揃えて嘆きを歌う。
すると天の彼方、島に広がる森を飛び越えて巨大な怪物が飛来する。巨躯にして矮躯、形容矛盾した異形が男子生徒たちを威圧する。
その姿形のなんとおぞましいことか。
四肢を備えてはいるものの、人のそれとは似ても似つかないほど短く単純な作り。三角耳を備えた頭部は残りの胴や脚と同規模のサイズで、瞳は異形としか言いようのないほどに巨大。大柄な男子生徒たちですら首を限界までそらさねばならぬほどに高い全長。それでいて受ける印象は奇妙なほどに『小さい』という感触なのが奇妙だった。
「でかちびにあー」
まるで人の形を極限まで圧縮し、異形の単純化を施した後でその姿のまま強引に膨らませたかのような様相。
狂える神の所業としか思えぬ造形に、肝の据わった男子たちでさえ震え上がる。
「にあにあー、疫病、不作、民の困窮。この運命を打破したくば、我が示す謎を解き明かしてみせよ、にあ!」
「出た、謎かけだ! 魔獣のなぞなぞが始まるぞ!」
恐るべき外なる猫、その名は『なぞなぞねこさん』。
島を襲う災いを打ち払うためには、魔獣の謎を解き明かして恐るべき怪物を倒さなければならない。
これまでに幾多の勇気ある若者が謎の魔獣に立ち向かったが、いずれも正しい答えにはたどり着けず、獰猛な牙の餌食となっていった。
心折れた男子生徒たちは涙を流し、膝を地面についた。
獣が吠える。せめて生け贄となって校舎に残った下級生の盾になろうと、勇敢なる敗者が前に進み出る。
「にあ! 地を満たし、空を駆け、海を漂うもの、ありとあらゆる生命のうちこれほどその姿と力を変えるものは他になし。脚は四つ、二つ、三つと変化し、その脚が多いほど歩みは遅々として進まぬ。にあ! これなーんだ!」
ある男子生徒が震えながら叫ぶ。
「人、それは
恐怖と勇気にその身を震わせながら、男は死のただ中に飛び込んでいく。獣は大きく口を開き、鋭利な爪を振り上げた。男子生徒たちが血を恐れて目を閉じる。
そんな時だった。
刃のように鋭い声が、世界を切り裂いたのは。
「そは
校庭の端に、黒い影が現れていた。
長い黒髪を後頭部で括った、鋭い美貌の青年である。
男子生徒たちの誰もが怪訝な顔をした。あの方向には断崖絶壁と荒れた海しか存在しない。現れた闖入者の黒いコートも長い黒髪もびっしょりと塗れているが、まさか泳いできたのだろうか。
そんな馬鹿な。
ここは絶海の孤島。一番近い次元にある異界まで、どれほどの泡を越え、どれだけの時空を切り裂いてくる必要があるか、想像しただけでも気が遠くなる。
奇妙な来訪者は周囲の困惑など意にも介さず真っ直ぐに校庭を突っ切ってくる。刃の美貌を獣に向けて、よく通る声で言い放った。
「二つ脚の方が速いと言ったな、四つ脚の獣。知恵と技術に対する信仰の優越を説くとは、さては貴様が外なる猫とは真っ赤な嘘。その身は子の巣立ちを邪魔立てする古き神であろう!」
「にあー、ばれたー!」
なんということだろう。男子生徒たちは驚愕した。『なぞなぞねこさん』は狂った古代の神ハザーリャだったのだ! 不合理な迷信であるとして学長が廃止したハザーリャ信仰が途絶えて久しい。女王の死を知った古き支配者が復権を狙ったのは自然な成り行きであると言えた。
「時の流れに埋もれるがいい、敗北者よ!」
「にあー、やーらーれーたー」
美貌の青年が舞うように身体を旋回させ、手刀で虚空を裂いた。すると魔獣が大きく仰け反り、悲鳴を上げてのたうち回る。ひとしきり苦しんだ『なぞなぞねこさん』は飛び上がると空の彼方へと消え、大きな星となった。
災いは去った。
島を襲っていた異常は消え、人々の表情に喜びが満ちていく。やがて学院を埋め尽くしていた人形の屍に異変が生じた。物言わぬ残骸に亀裂が走る。卵の殻を内側からつつくような音がして、やがて生まれたのは無垢なる天使。
炎の翼をはためかせ、麗しい美少年たちが学院の生徒として新生していく。
声変わり前のソプラノが光を誘い、太陽の輝きが絶望を掻き消していった。
「おお、新しい世界、新しい王国の幕開けだ!」
学院に満ちる喜びの歌。魔獣を退けた英雄はたちまち生徒たちに囲まれ、賞賛と感謝の言葉を浴びせかけられた。
「すごいな、君は一体何者で、ここに何をしにやってきたんだ? いや、いずれにせよ君が救い主であることには変わりない。歓迎するよ!」
生徒たちの勢いにたじろいだ様子の若者は、しばし迷うように言葉を探している様子だったが、やがてこう答えた。
「俺はここに捜し物をしにきたんだ。俺がいていい場所、俺がいるべき居場所を見つけにはるばる旅をしてきた」
「ならばここにいてくれ。この島こそ君の居場所、英雄が座るべき玉座はちょうど空いている!」
生徒たちは新たな英雄、新たな王を望んでいた。
孤独な旅人もまた、誰かに望まれることを望んでいた。
かくして青年の居場所は定まり、王国には新たな秩序が生まれる。
混沌としていた世界に、ようやく安息の日が訪れたのだ。
しかし、新たに出来た仲間たちに案内されて校舎に向かう英雄は、一瞬だけ暗い顔になって呟く。
「そうだ、俺はここに宿命から逃れる手段を探しに来た。ここに逃げてきたんだ。縁もゆかりもないこの場所ならば、この身に告げられた忌まわしい予言、父殺しと母との姦淫というおぞましい宿命は追って来れまい」
誰にも聞こえないほど小さな言葉。
荒れ果てた校舎に消えていくその後ろ姿を、黄砂色の髪をした女生徒がじっと睨みつけていた。彼女だけが、その呟きを耳にしていた。
島を覆う不快な音が消えていく。
荒れ狂う風も押し寄せる波も穏やかに変わり、足下の屍たちは天使たちの炎で焼き清められていった。
清浄な秩序で満たされていく島を、校庭の中央で豚の生首が優しく見守る。
蠅にたかられた死せる女王の周囲だけは変わらぬまま、耳障りな羽音が絶えることは無い。不快な音が完全に消えることはついになかった。
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