4-151 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ⑰
その女のなんとおぞましいことか。
緑や紫、黒や赤といったどぎつい色彩の蛇、蜘蛛、蠍、百足、長虫、そのほか嫌悪を催す不快害虫がより合わさったような肉体。愛らしい少女に擬態したこの世の汚濁、その極致。
悪夢のような女は呪いにより黒く染まった大地の上で哄笑していた。
そこは戦場だった。勇士たちが死力を尽くし、名高き賢者たちが神秘を紡ぐ。
諸王国の連合軍は槍を掲げて巨悪に立ち向かっていた。
中原の危機に立ち上がった恐れを知らぬ勇士たちは、波濤の如く押し寄せる異形の軍勢に果敢に挑み、獣のように吼えながら槍で、まじないで、邪悪な怪物を打ち倒していく。だが闇の彼方からの侵攻は終わることを知らず、兵たちはひとり、またひとりと斃れていった。
積み上がった屍が怪物たちに踏みつけられる。
絶望と恐怖が空に暗雲を招き、翼を持った異形の怪物たちが上空から酸液の雨を降らせていく。戦場の誉れなどはどこにもなく、ただ苦痛に満ちた死が蔓延する。悲鳴と怒号、恐怖と絶望。人類は追い詰められ、兵士たちの中から逃げ出す者が現れる。恐怖は伝播し、混乱が軍勢を崩壊させる。
異形の大波が壊乱した人類の軍勢を追撃しようとした、その時だった。
風に乗って戦場に届いたのは、奇妙な匂い。
腐敗を強い香で打ち消すかのような独特な刺激が鼻をつく。それは葬儀を連想させた。したがって、異臭と共に現れた一行は葬列のように見えた。
戦場に現れたのは、見目麗しい六人の男たち。
絶世の美貌、威風堂々たる姿、その風格たるや、それぞれ主に忠誠を誓う戦士たちですら畏敬の念から跪きたい衝動に駆られるほど。六人は紛れもなく王たる者の器を有していた。
六人の王たちに守られるようにして、象ほどもある屍亜竜がやってくる。
巨獣の上に設えられた天蓋付き玉座に腰を下ろすのは、女王だった。
劣勢に立たされていた人類側は困惑した。
王冠、豪奢な服、錫杖、そして装飾品などの特徴から女王と判断できたが、その顔は真っ白な頭蓋骨そのもので、眼窩には虚無が広がるばかり。異様さに、人類の勇士たちは新たな怪物が出現したのかと身構えた。
しかし、骨の女王が手を前に出して歯を一度鳴らした途端、戦況は一気に覆った。戦いに斃れていった者たちが次々と立ち上がり、再び生を得て戦い始めたのだ。加えて六人の男たちも一騎当千の強さを見せ、骨の女王の参戦によって異形の軍勢はたちまち押し返されていく。
生と死の入り乱れる戦場の片隅で、ひときわ巨大な異形を相手取って一歩も退かぬ男がひとり。援軍として現れた六王、白い長衣に十字の瞳を持つ年齢の判然としない男だった。老人のように歩み、少年のように跳ぶ。若々しい青年の肉体に力がみなぎり、牙のように構えた両手で時計と書物で構成された大蛇を引き裂いていく。文字と紙片が宙を舞う中、大蛇が口の中から長い舌を伸ばす。先端に付いた少女の頭部が狂ったように笑っていた。
「何度も何度も、よく飽きませんこと。ねえオルヴァ?」
オルヴァと呼ばれた男は無言で少女の頭部を鷲掴みにしてそのまま握り潰す。
不思議なことに、頭部は忽然と消えていた。
頭部を無くした異形の大蛇が苦痛に身をよじるが、即座に全身の至る箇所から同じような頭部を生やして笑い出す。忌まわしい女は不滅なのだった。
「こうしてあなたと殺し合うのは何度目だったかしら。ああ、勿論この軸では初対面なのだけど。それでも、この先も含めればもう数え切れないくらい」
「不毛だ、レストロオセ」
オルヴァは冷淡に吐き捨てた。
淡々と周囲の異形を潰し、引き裂き、抉り取り、破壊して、殺し尽くす。
殺戮は終わらず、哄笑もまた果てることは無い。
狂ったような笑いに満ちた悪夢のような戦場で、オルヴァは淡々と少女の頭部を喰らった。彼の五指に掴まれたものは時空の彼方へと追放されて二度と戻ってくることはない。
「全てはブレイスヴァの中に。生の愉しみも死の恐怖も、絶対なる虚無の前には斉しく無意味なのだ。終末の獣よ、お前の歌はただの雑音に過ぎん」
オルヴァは醒めた目で犇めく異形の群れを見る。
少女のひとりが、そんな男の態度に傷付いたように言い返した。
「あら、失礼ですわね。結末が決まっているから過程が無意味だなんて、怠惰なかたのおっしゃりようじゃありませんこと? わたくしは勤勉なのです。
雨のように降り注ぐ少女の頭部。雨雲のように群れを成して飛来する異形がオルヴァに襲いかかった。十字の瞳が真上を捉えると、男の五指は天空を切り裂き、翼持つ異形の群れを薙ぎ払って塵に変えた。楽しそうな断末魔が響く。
「ああこわい、怖い、恐いですわぁ。こんな千日手、よく飽きずに続けてきたものです。我ながら狂気じみた辛抱強さですこと。ねえ、同じ話や人生を続けていると、途中で眠くなったりしませんか?」
「私は眠らぬ」
「あらそうですの。眠そうにしている人がいたら、もしかしてぐるぐる時空を巡っているのでは、なんて空想を働かせるのって楽しくありません?」
「お前の退屈さと比較すれば、大抵のことは楽しいだろう」
酷薄に言って、少女の眼窩に指を突き入れ、心臓を抉り、脳漿を撒き散らし、異形を駆逐する。どこか牧歌的な殺し合いだった。噛み合わない会話をしながらも、両者の間には戦闘の緊張感というものが無い。退屈な作業を繰り返すような慣れた雰囲気があった。少女は芝居じみた笑いをふと途切れさせる。
「ねえ、あの『祭壇』、どう思います? あなたにとっての本命かしら?」
「――あれは、終端を喰らう者ではない。だが流れの中心ではある」
暗黒を湛えた瞳と、十字に輝く瞳が交錯した。
互いに心臓を貫きながら、不滅の超越者たちは間近で言葉を交わす。
「わたくし、今回は趣向を凝らしてみようかと思います。『シナモリアキラ』をひとつ、いただきますわ。そろそろ古びてきたわたくしを更新します」
「では、私もまた『シナモリアキラ』の上に降りてみるとしよう」
オルヴァはちらりと背後に視線を送った。
そこには彼の主たる骨の女王。こちらに気付いて、細い手を振ってくる。
目をわずかに細めて、オルヴァは少しだけ笑った。
退屈そうだった彼の表情に宿った、わずかな人間らしさ。
「――そして、彼女の待ち人になってみるのも悪くは無い」
それが、オルヴァの願い。
幸福の滅びを悟った男の、諦めと希望だった。
「あら恋のお話? 素敵ですわね。でもそれ冷静に考えて寝取られてませんこと? それとも寝取っているのかしら」
流動する粘液で構成された異形の少女を八つ裂きにしつつ、オルヴァは急に表情を歪めた。悲嘆に暮れたように喚き散らす。
「なんということだ! 私は、また、またしても彼女を失うのか! 一切は無常、愛も恋もうつろい消えていく! 永遠の誓いなど塵と同じ! 昨日耳にした恋の言葉は明日には別の男に囁かれているだろう、朝に受けた足へのくちづけは夜には別の男の唇に捧げられていることだろう! 呪われよ、おおブレイスヴァ!!」
涙は滂沱と流れ落ち、オルヴァは異形に抗う勇士たちの中から見目麗しい者を選んで腹いせに蹴り飛ばしていった。髪の長い美男子が対照的な従者と共に戦っているのを見つけて、「寝取り男め死ぬがいい!」と叫んで掴み掛かっていく。「きさまオルヴァいきなり何を――おいルバーブ! こいつ頭がおかしいぞどうにかしてくれ!」「はーいふたりとも喧嘩はめっですよー」などと騒がしく馴れ合いをして、土の中から再び甦ったオルヴァは戦場に舞い戻る。
「いずれにせよ、お前にシナモリアキラは渡さん。俺はお前を否定する」
「こちらの台詞ですわ。俺は死の欲動を肯定し、祝福する」
向かい合った二人に重なり合う、別人の幻影。
それらは同一人物のようであり、違う人物のようでもあった。
両者はそれぞれこれまでとは違う構えをとった。
異形の少女たちがそれぞれに触腕を蠢かせ、オルヴァが両手を顎に見立てる。
そして、戦いの開幕を告げる。
「発勁――」
「――用意」
NOKOTTA――と叫び、両者が激突する。
神話の時代、歴史を揺るがす戦争の最中、サイバーカラテを巡る別軸の闘争が始まった。それは時空を超え、果てしなく続いていく。
たとえこの戦いが終わり、少女が封印され、オルヴァが眠りについても。
両者が復活して再び混沌とした戦場で巡り会った瞬間に戦いは再開される。
この二人にとって、過去や未来などすぐそこにあるものでしかない。
遙かな時を経て、現代。
第五階層南ブロック、呪術医院の敷地内。
押し寄せる異獣こと
『マレブランケ』たちがドローンと連携して異獣の侵攻を食い止め、『鵺』が雄叫びを上げながら異形の姿に変身してイェレイドに肉薄していく。
上下に配置した両手は今は掴むためでなく足裏からの力を伝達するために広げられている。半歩踏み込み、後ろ足を前足の踵に引き付けて滑るように進む。
鋭く気息を発して、掌が突き出された。
崩拳が異形の少女を打つ。大気が割れ、浸透した衝撃が反対側に抜けていく。
肉と骨がひしゃげて漆黒の血を撒き散らした。
常人ならば一打で倒れていたであろうという打撃。
ブレイスヴァカラテの達人である『鵺』は、手応えを感じながらもわずかな違和に気付いて咄嗟に下がった。目の前を通り過ぎていく鋭利な刃。
蜘蛛と蛸を合成して触手の先に刃を取り付けた血まみれの異形に少女の上半身を載せた怪物は、衝撃に態勢を崩しながらも自動的な反撃を実行していた。『残心プリセット』である――更に、『弾道予報』によって
「発勁用意、ですわ」
おかしそうに笑う魔将イェレイド。
彼女は狂っていた。その証拠に、巻き髪型の触手を高速回転させて自らの脳を穿孔しながら調子外れな歌らしき騒音を喚き散らしている。
『火車』からフィードバックされたサイバーカラテは、この魔将に絶大な力を与えていた。イェレイドは複数の生物の特性を自由に組み合わせて合成獣を作ることができる。彼女の性質と変幻自在なサイバーカラテは実によく噛み合っていた。配下の異獣たちの動きも劇的に良くなっている。
『火車』と『炎天使』が上空で死闘を繰り広げている一方で、地上では強化された異獣たちが勢い付いていた。
イェレイドの哄笑が響く。
第五階層の混乱に乗じて一気に攻め落とそうと『下』は目論んでいるのか、それとも彼女の独断か、目的は一切不明ながらこのまま進撃を許せば背後の呪術医院は無事では済むまい。無辜の市民を犠牲にするわけにはいかない。
そんな英雄的な思考に奮い立っていたのは他でもないグレンデルヒだった。
『悪』であるトリシューラやシナモリアキラに対しては容赦のない攻撃を加えていたグレンデルヒだが、『上』の住民を含んだ一般市民を危険に晒すことは彼の本能が許さないのだった。彼は英雄という存在として固定されている。
「いっそ全員『私』として取り込んでしまえればどれだけ楽か――『道化』の身は禁じ手が多くて敵わん。厄介なことだ!」
逆さに浮遊しながら道化の英雄は吐き捨てた。それでも英雄の戦いぶりは見事なものだった。こうして異獣の群れを相手取り、精鋭たちを指揮して魔将の分体と戦うのはこれが初めてではない。彼は地上へと侵攻してくるイェレイドと幾度となく矛を交えていたからだ。
毎回違う性質、異なる形状で現れるため対策が立てづらく厄介だが、共通点らしきものはある。それはイェレイドが決まって敵対者に最大限の苦痛と恐怖を与えようとすることだ。彼女は人間で遊ぶ。
あの異形と向き合ったものはそのおぞましさに震え上がり、精神を汚染されて心を折られる。すぐには殺されず、拷問の果てに苦痛に満ちた死を迎えるという恐怖。どんなに屈強な戦士であってもあの暗黒の瞳を見てしまえば錯乱して逃げ出しかねなかった。異常極まりないことに、狂怖の撒き散らす呪詛はドローンすら怯えさせる。際限なく膨れあがる『脅威度』から判断して、無駄な損耗を避けるべく撤退を行おうとしてしまうのだ。過剰に膨れあがった『
グレンデルヒはその場にいる全員に『安らぎ』を与えて戦線を維持し、『鼓舞』によって士気を高揚させる。更には限られた資質の持ち主のみが発揮できる『使い魔』系統の呪術『カリスマ』によって集団を支配、統率して戦闘行動の効率化を図り、同時に精神汚染を遮断。逆探知からの侵入を行いつつ広範囲に呪術爆撃を行って異獣を殲滅していく。慣れたもので、グレンデルヒの働きによってどうにか『一方的な虐殺』が『五分の戦い』のまま推移していく。
だが、グレンデルヒの圧倒的カリスマをもってしてもイェレイドの恐怖は完全には相殺しきれない。戦死の恐怖なら克服できる勇者であっても――いや、雄々しき闘争に誇りと価値を見出す者ほど無残に玩弄された末の無価値な死は許容できないだった。イェレイドに嬲り殺しにされた者は臭気を放つ内臓を引きずり出され、別な死体の臓物と結ばれひと繋ぎにされてしまう。余分な四肢を恋占いのように毟り、骨と血肉の花冠を死体の詰め込み過ぎで肥大化した頭部にそっと載せて、乙女のようにはにかむイェレイド。目や口から犠牲者の成れの果てが溢れて落ちる。
「い、嫌だ、俺はあんな死に方は嫌だあぁぁ!」
背を向けて逃げ出したのはブルドッグの
敵に臆するなどもっとも恥ずべきこと――それが彼の価値観ではあったが、それは華々しい男の戦場での話。死ぬならせめて名勝負を繰り広げたとか、仲間を庇ったとか、何か意味のようなものが欲しかった。あんなふうに死を貶められるのは嫌だ。彼にとって戦いとはスポットライトに照らされたものであり、断じて玩弄される肉の塊と成り果てることではない。
情けなく院内へと駆け出した巨漢を追いかける異形の怪物たち。
その頭部が次々と弾けていった。
遠くから狙撃したのは銃士のカルカブリーナだ。
特殊な呼吸法であらゆる加護や恩寵を否定。精神を統一し、極度の集中状態となることで鋼鉄の理を内面化する。それは呪術師の
彼が所属する『鉄の王国』では銃の反動が軽減される。ガロアンディアンが反政府勢力に貶められ、規模が縮小してからは銃の反動はかなり『きつい』ものになっていた。しかし、今の青年は苦も無く銃を連射することができている。
「調子いいな、陛下」
彼の視界の中で、テンガロンハットとダスターコートを身に着けた銃士シューラが元気よく二丁拳銃を乱射していた。『弾道予報』を立ち上げながらゴーグル型端末に各種予測結果を表示して次々と弾丸を命中させていく。
彼もまた無残な死や旗色の悪い戦いなどは回避するタイプだったが、今回は戦場に踏みとどまっていた。元修道騎士である彼はイェレイドとの交戦経験が一度だけある。その時は逃げ癖と立ち回りの上手さが幸いして生き残れたのだが、その経験が彼にこう告げていた。
「今回は行けそうだ」
グレンデルヒの存在も大きいが、それ以上の追い風が彼の背を後押ししていた。
間近に迫った異形に蠍の尾が突き刺さり、迸った『呪毒』が怪物の全身を崩壊させていく。
続けて
彼らをグレンデルヒが守護しているのは事実。
だが今はより上位のカリスマによって『マレブランケ』という集団そのものが強大な力を得ているのだった。彼らは天を仰ぎ見る。亡霊の如きシナモリアキラと激突する、機械仕掛けの炎天使を。
死に体だった『ガロアンディアン』が、再び息を吹き返そうとしていた。
空で舞い踊る実体無きアキラと非実体のアキラ。互いの背後を取り合い、螺旋の軌道を上空に描いて雲を裂く。急上昇と急降下を繰り返して重力に縛られた相手を翻弄しようと試みるアストラルのアキラ――『火車』だったが、相手が軽々と追随してきたことでようやく確信を得た。
「トリシューラ! お前、まさか」
凍てついた拳を念動力で受け止めて、『火車』は愕然と目を見開いた。感情制御を半ば放棄した欲望の化身は、求めてやまない魔女の顔を凝視する。信じられないものを見るように。
「きぐるみ、『だけ』なのか?!」
「ご名答だクソ野郎!」
衝撃が走り、左手の打撃がアストラル体を吹き飛ばす。
互いに寸分たがわず同じ声、同じ口調、同じ気質。
目に見えるものはトリシューラというきぐるみだが、シナモリアキラはシナモリアキラ。それは外側から見た者の先入観だが、実際にはそれが全てだ。舞台では、観客席から見えているものが全てではない。役という約束ごとが役者という実態を覆い隠しつつも時に役者の呪力が役すらも不足であると圧倒してしまう。同様に、きぐるみや衣装を身にまとっていても溢れ出る存在感と言うものはある。ちょうど、道化姿のグレンデルヒがそれでも偉大な英雄であることや、『鵺』の変身が中身に関わらず英雄の記号として機能することに似ていた。
「俺の左手は最初からトリシューラと共にある。サイバーカラテだけじゃシナモリアキラには足りない。殺人鬼はシナモリアキラには荷が勝ちすぎる。殺し屋も英雄も虐殺者も武人も弱者も、それは俺であって俺じゃない」
背負った曼荼羅の立体幻像が回転し、中央で瞳が見開かれていく。
いまこそ
遍く真理を見通す瞳を
紀人を守護する神格――その加護を得て、シナモリアキラは開眼に至る。
「『私はみんなであってみんなじゃない。みんなは私であって私じゃない』――そうだ。『あの時』、俺は教えてもらっていたんだ」
去ったあとに響いた言葉。それでも夢のように反響した呪文は、確かにシナモリアキラの存在に刻まれていた。『神話』であること。その意味を鉄と氷の手で確かに掴む。二人の魔女に貰った左右の義肢で。
『火車』はそれを羨望のまなざしで見ると、憎々しげに叫んだ。
「トリシューラッ! お前、独りで聖婚したなっ!」
「ああそうだ。俺は、中身の無いからっぽな男なんでな」
その形は、トリシューラが包み込んで定めている。
あるいは、今はいないコルセスカが内側に入って操縦する。
相互に参照し合う幻想の姉妹。
二人の間には何もない。けれどそれを繋ぐものでありたいと、キロンに敗れて全てを失ったシナモリアキラは願った。そして彼は魔女の使い魔になったのだ。
だからシナモリアキラの居場所は最初から決まっていた。
トリシューラは事態の始まりからここまで、一切の焦りを見せなかった。
彼女は確信し、常に感じていたからだ。彼がすぐそばにいることを。
炎天使の口調がトリシューラに切り替わり、得意げに自慢する。
「恥ずかしいアキラくんは、脳内彼女を私に設定しているでしょう? 惨め過ぎて見てられないから、優しい私は自分でも脳内彼氏『ちびアキラ』くんをデスクトップに常駐させているんだよ! どう、嬉しい? お揃いだよアキラくん!」
トリシューラはとても上機嫌にひとつの事実を開示した。ブルドッグの虹犬が付き合いきれないとばかりに逃げ出していく。再演の旅路の中、アキラは『役』そのものとなったり、役者に台詞を教える小さなプロンプター妖精となったりその存在を揺らがせた。それを再利用したものが『ちびアキラ』――トリシューラの視界隅で気まぐれに着せ替え人形にされてグロッキーになっているデフォルメされた青年の人工知性だった。
現在トリシューラはちびアキラを核にすることで『独り聖婚』を実行している。
がらんどうのきぐるみがシナモリアキラを仮構することで、トリシューラとの関係性の中から使い魔としてのシナモリアキラが彼女の中に立ち上がったのだ。
「私が一番上手にアキラくんを演じられるんだから!」
有象無象のシナモリアキラなど相手にもならない。
本体から溢れ出て暴走している『火車』よりも、トリシューラはシナモリアキラの存在を強く確信している。揺らぎ、拡散するシナモリアキラ像の全ては、最終的に機械女王のカリスマによって支配され、屈服されるために誕生したのだ。
圧倒的な呪力を放つ炎天使の下で、異形に圧し掛かられていた『鵺』がその力を増してイェレイドを一気に押し返した。彼をグレンデルヒが援護して、英雄志願と元英雄という奇妙な関係が成立していく。呪術医院の窓から空を燃やす機械をぼんやりと眺めていたのは『絡新婦』。同室の『 』――元は亜竜の王であった粗暴な男が、何かに魅入られたかのようにその光景を並んで眺める。その背後で二人を優しく見守るのはレオ。少年は小さく誰かの名を呼んだ。
激戦の果て、『大蛇』の晶に追い詰められて窓から外へと逃れた『件』が破滅的な光景に「おおブレイスヴァ!」と叫び、天を舞う炎の機械天使を見た『鎌鼬』は興奮した様子で捲し立てる。
「うおおすげえあれキロン戦の最後で見せた炎天使モードじゃん! 俺あの動画見てサイバーカラテ始めたんだよね、マジ感動なんだけど!」
すると彼の脳内でレスポンス。『鎌鼬』は『百々目鬼』の共用チャットでサイバーカラテ談義に花を咲かせていた。自警団員には自宅で暇を持てあましたりさっきまで寝ていたサイバーカラテオタクなども多い。言語魔術師ですらないインドアユーザーはそこそこ生き残っているのだ。
「厳密にはゾーイとの決戦で見せた巨人形態も炎天使では?」「あれはオルガンローデでもあったはず」「キロン戦いいよね」「すぴすぴめっちゃすこ」「リアタイ勢の自慢乙」「数ヵ月で古参アピールとか笑うわ」「まあ大半のユーザーはキロン以後かグレンデルヒ以後だろ。誤差誤差」「あれ前回と違うん? バージョンアップ的な?」「外見からの推測だが、前回は腰のスラスターの可動域がもっと狭かったように思う。多分キロン戦での反省を踏まえて改良したんじゃね」
殺人鬼と自警団は水と油でありながらサイバーカラテオタクという一点で波長が合っていた。聖婚の力にあてられるように、『シナモリアキラ』の一部としてトリシューラの影響下に置かれていく。一方、『百々目鬼』の背後では太陰の王子ヴァージルが息をひそめて介入の機会を待ち続けていた。更に別の場所では黒髪をなびかせた晶が『件』に拳を叩きつけてぽつりと呟く。
「わたしにーさま、『完成』しそう? なら、仕上げはわたしとお願いね」
恋い焦がれるような眼差しを自分自身に送って、少女は興奮のままに『件』を滅多打ちにしていく。
混沌とした戦場は過熱を続け、最高潮を迎えようとしていた。決着は近い。天で死闘を繰り広げる二人の『アキラ』のさらに上から、何か巨大な存在が降下しつつある。誰よりも早くその気配を感じ取った『件』が瞳を十字に輝かせて叫ぶ。
「おお、予言王よ! いままさに、復活の時来たれり!!」
「残念だが、ここまでだ」
第五階層の南ブロック、とある建物の屋上。
撤収しつつあった『百々目鬼』の実働部隊は唐突に聞こえたその声を聞いて凍り付く。
ロウ・カーイン。この達人が『百々目鬼』を見逃すはずもなかった。自警団を制御するヴァージルは歯噛みした。潮時だ。恐らくこの手駒はここで終わる。
瘴気。それは集団に対して効果的な破壊力を発揮する。
得体の知れない古いまじない。カーティスの影めいた姿を思い出し、ヴァージルはこの場に見切りをつけた。
「ワルシューラ、『百々目鬼』、各自奮戦して」
時間を稼げと命じようとする寸前。
その言葉が宙に投げ放たれた。
「紡げ」
それは怒りだった。あまりにも真っ直ぐな戦意だった。
『シナモリアキラの好敵手』と自らの立ち位置を定めた者が、その在り方を利用しようとする『真の敵』を見定めて放たれた一撃。
現象としては単純。カーインがその圧倒的な実力で自警団員たちを片端から薙ぎ倒しているだけだ。しかしヴァージルの目は『百々目鬼』という呪的総体が崩壊していく光景を確かに見た。この男は、物質的に存在しないものを打撃している。
ワルシューラたちのけらけら笑いが止んでいく。
ひとつ、ふたつ、みっつ。打撃された邪妖精から黒々とした靄が流れだし、綺麗なちびシューラとなって解放されていく。ヴァージルはカーインの拳が確かに自分に狙いを定めていることを直感した。
「何なんだ、こいつは」
認めねばならない。狂王子にとって、このカーインという得体の知れない何かは紛れもない脅威なのだと。今度こそ完全に意識を戦場から切り離す。
『本体』に意識を戻した直後、鼻先まで殺意が追いかけてくる気配を感じて身を固くする。やがてカーインの意思は萎んで消えていった。遠ざかる脅威に安堵している自分に気付いて、ヴァージルは深く息を吐いた。
このままでは終われない。幸い、まだ打つ手はある。
オルヴァとシナモリアキラを巡る闘争は続いているのだ。
他には誰もいない、二人きりの世界。
トリシューラは『サイバーカラテ道場』の仮想空間上でデフォルメアバターとなって軽やかにステップを踏む。ダンスの相手は同じように小さくなった彼女の使い魔だ。ちびシューラとちびアキラが道場をダンスホールに見立てて陽気に踊る。
「必要なのは『ブランド』だよ。私のアキラくん」
「『
問いに「うん」と頷いて、ちびシューラは楽しげに続けた。
「私はファッションリーダーになるの。私が混沌をかき混ぜて、流れを牽引する」
人としての形から逸脱し、妖精という幻想そのものになっても、ふたりはいつも通りだった。ちびシューラがリーダーとなって導き、ちびアキラがパートナーとして踊ったかと思えば、時に役割を逆転させて力強くちびシューラをリードするちびアキラ。華のような笑みと共に外の世界へとアピールするちびシューラは、彼女のデザインしたドレスを纏っているのだった。
「アキラくんは私の服を着てくれる? アキラくんを私が着てもいい?」
「ああ。どこまでだって付き合うよ」
答えの決まったやり取りを、予定調和のように繰り返す。
退屈な会話。眠くなるような決まり切った世界。
それでも、二人はその瞬間を、その場所を、大切に抱きしめる。
聖婚の鐘が鳴る。
そこはどこでもないけれど、彼と彼女はいまここに。
紀人シナモリアキラは、確かに存在していた。
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