4-141 オルヴァ王と十二人のシナモリアキラ⑦
少年は母親が大好きだった。
いずれ妻となる女性と同じ名前をした、初恋の相手。
柔らかな膝の上も、ふくよかな胸の中も、たまらなく愛おしかった。
目を隠すようにという言いつけは少しさびしかったけれど。
母親との触れ合いも語らいも、彼の世界を輝かせる宝石箱。
小さな頃、幼いオルヴァは母の乳房を咥えて安らいでいた。
母親はかわいいわが子をあたたかく見守っていたが、突如としてその表情を歪める。異常に気付いた侍女が医者を呼びに行った。たちまち宮廷は騒ぎとなる。
幼い王子が王妃の乳首を噛み切り、飲み込んでしまったからだ。
激昂する王。だが母親は苦痛の中に歓喜を滲ませてこう言った。
「まあ、ぼうやったら。自分がブレイスヴァと一つだということにもう気づいているのね。でも駄目よ、まだ何もかもが貪られる時ではないの。終わりに至るまで、ブレイスヴァの訪れを辛抱強く待つのですよ――しかしいま貪られるも待ち続けた果てに貪られるも同じ! 全てはブレイスヴァの中に! おお、ぼうや、なんと良くブレイスヴァを恐れ、正しく理解している子なのかしら?!」
聡明な王妃の言葉によって人々は蒙を啓かれた。
崇高な何かを感じ取り、それぞれが涙を流して祈り、跪く。
そしてその名を称えるのだ。「おお、ブレイスヴァよ」と。
小さな子供は、既にして誰よりもカシュラム人であった。
次代の王こそ、歴代のあらゆる王と未来の全ての王たちの中で最も偉大な存在として歴史に名を刻まれることであろう。ブレイスヴァに捧げる無為なる王国の繁栄に幸あれ。繁栄と幸福にブレイスヴァの貪りあれ。おお、滅びよ!
早くに乳離れをした少年は母から離れ、言葉と世界を得る。
かくしてオルヴァという王が誕生した。
ミルーニャ、リーナ、セリアック=ニアの三人は、トリシューラに与えられた部屋の中で今後の方針について話し合っていた。ミルーニャとリーナは第五階層製の『おこた』に足を入れて、セリアック=ニアはリーナの掌の上でぬくぬくしている。
「どうやら、リールエルバは既にドラトリアから移送されていたようです」
ミルーニャは端末上に幾つもの幻影窓を浮かび上がらせながら複数の調査結果を二人に示した。ドラトリアの調査機関と『星見の塔』、そしてトリシューラの監視網を使った総当たりの捜索。結果としてわかったのは二つ。
ひとつは、数日前にドラトリアの首都で起きた大規模な時空断層はカーティスやサリアが何者かと激突した結果発生したものだということ。ドラトリアは国の威信をかけて壊滅状態にあるというカルト教団の拠点を捜索しているようだが、リールエルバは見つかっていないらしい。教団の残党は第五階層に移動したという情報もあり、ドラトリアの捜査当局はアルセミットに世界槍内で捜査を行う許可を求めているという。だがいくら一国の要人を助けるためとはいえ、テロ対策部隊や誘拐対策部隊といった武装した警察の活動を許可することは容易ではなく、動きは鈍い。
もうひとつ、カルト教団と戦っていたリールエルバがどうも偽物らしいということがわかっている。最初に気づいたのは映像を見ていたセリアック=ニアだったが、他の二人もすぐにはっとなった。
「にあ! ねえさま、もっときれい!」
「リールエルバ、あんな風に跳ねたり踊ったりできないよ」
「というか服着てますし」
親しければすぐにでも気付けるような齟齬。
何らかの狙いがある敵の陽動だということはすぐに知れたが、カーティスやサリアは既に敵地に向かったあとだ。三人は『ではどこにリールエルバがいるのか』と考えて探すことにした。
ミルーニャが着目したのは、カルト教団の教主の名前だった。
「これ、私も知らなかったんですけど――『塔』の末妹候補にラリスキャニアってドラトリア人がいたみたいなんです。夜の民で、触手を切り離して他人を模倣するのが得意技。あっさりと脱落したようですが。その後、ラクルラール派のあずかりになったという情報もありますし、怪しいと思いません?」
「へー、何々。ドラトリア貴族でリールエルバの身代わり王族? うわっ、超因縁とかありそう! ニアちゃん、この人のこと知らない?」
「にあ?」
猫耳の少女はリーナの掌の上で不思議そうな顔をした。
小さくなってちょっと頭が緩くなっているのだ。記憶力に期待してはいけない。
――単に眼中になかっただけかもしれないが。
それはともかく。
「それからこれはトリシューラ情報ですが、ほぼ同じ時期に外部から『扉』の接続記録があったようです。かなり強引な侵入で、スキリシアを経由してます」
「怪しさ爆発だ! どこに繋がったの?」
「白骨迷宮――この第五階層の地下に広がるという再生者たちの奈落です。死せる生者たちの練兵場だとか、債務者たちの労働の場だとか、犯罪者たちの刑務所だとか、そういう話ですよ」
神妙な口調で言うミルーニャ。
リーナとセリアック=ニアは身を寄せて表情を強張らせた。
「こわー」「にあー」
「そして古の王たちの副葬品や呪術師たちの遺品が大量に眠っているとも――」
「わくわくする! いいじゃん、チョコレートリリーらしい話になってきたよ!」
「にあ! せりあもぼうけんしたい! ねえさまもいっしょ!」
たちまち表情を輝かせるお気楽娘二人。
ミルーニャは嘆息する。きっとこうなるだろうと思っていたのだ。
「あのですね。一応、リールエルバを探すのが最優先ですからね? それにパーン・ガレニス・クロウサーとの勝負もあります。競技場の設営班が到着次第、こちらも準備をしていかないと」
「じゃあそれまではリールエルバ探そう! むしろそっちのが大事だし!」
リーナの言葉はもっともだったので、ミルーニャは仕方なさそうに頷いた。セリアック=ニアもうんうんと頷いている。今後の方針がまとまった所で、ふとリーナが話題を変えた。
「ところでさー、某シナモリ氏、なんか大変らしーじゃん?」
「みたいですね。サイバーカラテの拡散に伴って、本人も分散されたとか」
「にあ! ぜんめつ、みなごろし! いなくなれ!」
物騒なことを言い出す猫娘をなだめながら、リーナは続けた。
「どうどう。シナモリ氏はリールエルバをとったりしないよ。でも怖いよねー。人がいっぱい分裂して拡散しちゃうとか第五階層の常識はどうなってるんだ」
「全くですね。その点、アズーリア様は私たちでしっかり神秘性を囲っているから安心です。幼馴染という強固な文脈はそうそう崩れたりしませんから」
「にあー」
得意げに言うミルーニャに、しぶしぶながらも同意するセリアック=ニア。
リーナは想像を絶する第五階層の異様さに戸惑いを隠せないようだ。
突然、セリアック=ニアがリーナの手の中から飛び出しておこたの上から飛び降りる。じっとしていたので動き回りたくなったのか、おこたの中に入ってみたくなったのか。小さな姫君は大胆にスカートを翻しながら跳躍したが、カーペットの上で勢いよくバウンドするとそのまま部屋の隅へ飛んでいく。運の悪いことに、そこには先ほどトリシューラが「みてみて、これ凄いでしょう。リーエルノーレスお姉さまを参照した武装だよ。量産計画進めてるんだけど、よかったら使用感聞かせてくれる?」と言ってミルーニャに手渡した大型チェーンソーが。不具合なのか、唐突に自動回転を始めた刃にセリアック=ニアが直撃。小さな体がバラバラに引き裂かれて四方八方に飛び散った。
「に、ニアちゃーん!」
リーナの悲鳴。細かい破片となって飛び散った猫姫がきらきらと輝き、一瞬前までそれらがひとつの命として躍動していたことを示す。
「あーあ、散らかして。リーナ、回収あなたがしてくださいよ」
「うおお、まじか。ていうかシューらん、安全装置付けてくださいお願いします」
呆れ声と呻き。二人の周囲に散らばった破片が粘土のように丸くなり、それらが独立して人型に変形していった。それぞれが飛び跳ねて騒ぎ出す。
「にあ!」「とりしゅーら、あぶない!」「りーにゃ、はなれてー」「にあにあ」「おなかすいた」「ねえさま、さがす!」「おひるねー」「おこた! おこた!」「みるーにゃ、あそぼー?」
更に小さくなったセリアック=ニアがちょこまかと部屋中を動き回る。
収拾がつかない。リーナは情けない顔で、
「ニアちゃんがいっぱいで大変だよー」
と言った。ミルーニャは素知らぬ顔をしている。
「いつだったかのアズーリア様みたいですねえ」
小さな猫姫たちは互いにじゃれあったり喧嘩をしたり仲直りしたりと忙しい。ほのぼのとした情景に和みつつ、ミルーニャは口調を真面目なものに戻した。
「まあシナモリアキラが意味不明な事態に陥っているのは私たちとは関わりのないことですが――いちおう、私もサイバーカラテユーザーなんですよね。似てるところなんて全く無いので影響はありませんけど――これ、場合によっては使いようがあるかもしれません」
「どゆこと?」
リーナが不思議そうに尋ねる。掌や肩の上に乗っかった小さな猫たちも真似して小首を傾げた。ミルーニャは顎に指をやりつつ慎重に答える。
「私たち、いつの間にやらすっかり第五階層を巡る戦いに組み込まれている感じじゃないですか。迷惑極まりないですが、考えようによってはこちらの陣営強化につながるかもしれない」
「シナモリ氏召喚とか、憑依させて格闘能力向上とかそういうの?」
「あとは六王たちへの呪的侵入。場合によっては、シナモリアキラを介して再演改竄を仕掛けることも考えておいた方がいいかもしれません」
無論、そうした行為には相応のリスクも伴うだろう。その時に危険を買って出るのはミルーニャになる。この中でサイバーカラテへの適性が最も高いのはミルーニャだからだ。
来たるべきパーンとの戦い、そしてリールエルバ救出に関わってくるであろうカーティス。そして、太陰の王族であるヴァージル。実に六王の半数が黒百合の子供たちと何かしらの関係性がある。
「おお、ほんとだすげえ。もしかしてラフディとか竜王国とかカシュラムとかの繋がりがあったりする?」
「いえ、それは無いでしょうね」
リーナが疑問を述べると、ミルーニャがそれを否定した。
眼鏡を押さえながら順番に検討していく。
「大地の民は私たちの近くにはいませんし、天眼の民が蜥蜴や亜竜に近い種族とはいってもメイファーラはリト系、つまり『透徹なるシャルマキヒュ』に仕えた戦乙女たちの末裔です。『黒死のカズキス』に連なるダーカンシェルの血筋とは関係無いかと。カシュラム系も、地上には無貌の民かノーグ家くらいしか残ってなかったはずですよ」
すらすらと出てくる種族や血統に関する知識。
感心するリーナだが、ミルーニャは眼鏡型の端末で検索をしているだけだ。
ふんふんと頷きながら、ふとミルーニャを見つめるリーナ。
たじろいで、
「な、なんですか」
「あのね。やばそうだったら私も『道場』入れるからさ、一緒に」
「やめてください。どうせそういうの苦手なんですから、不要なリスクは抱えないで。リーナはリーナでやるべきことをやるように。言っておきますけど、私より危機的状況にありますからねリーナは!」
パーンとの頭首を懸けた勝負について、自覚を促すと共に色々なものを誤魔化そうとするミルーニャ。リーナはやや不満そうにしていたが、最後にはしぶしぶ頷いた。そんな二人を、セリアック=ニアたちは不思議そうに見つめている。
「なかよしなのに」「いっしょにしない?」「ふしぎ」「せりあはねえさまといっしょがいい!」「りーにゃもみるーにゃもいっしょがいい!」「みんないっしょー」「にあにあ」
「ああもう、そういうのは要らないですから!」
騒がしくなる室内。
外部で起きている異変は、まだこの場所までは届きそうも無かった。
部屋の片隅、魔女の名を冠したチェーンソーが、再び何かに共鳴するかのように一瞬だけ微弱な呪力を放ち、すぐに静かになった。
呪術医院四階、関係者用の宿舎は正面エントランスとは反対側にある。
その部屋の扉を破壊して、廊下に飛び出した二人の格闘家。
ブルドッグの大男と仮面の武術家の激戦が決着を迎えようとしていた。
技量、手数、速度、そして与えたダメージ。
仮面のシナモリアキラ、サイバーカラテマンはそれら全ての面で
しかし戦いを優勢に進めていたのはブルドッグの巨漢の方。
理由は単純明快。彼が巨漢だったからだ。
仮面男の身体能力は常人のそれより上で、的確に肉体の弱所を攻める技術も有していた。しかし、それでも圧倒的なウェイト差と相手のタフさはどうしようもなかった。いくらダメージを与えてもプーハニアは耐えきってしまう。差を埋めるための何かが必要なのだ。
互いにサイバーカラテユーザーであり、片やブレイスヴァカラテ、片やレスリングに重きを置いた戦法をとるが、掴み、組み打ち、投げて叩き伏せることを得意とする方が大きく重いというのは、相性が悪すぎるとしか言いようが無い。かつてシナモリアキラはゾーイとの戦いで強化外骨格や呪術義肢、六王の力を駆使してどうにか渡り合うことができたが、本来体格差とはそうした反則技を使わなければ埋められないほどの絶対的な溝なのである。
「ぐうっ」
投げ飛ばされて床に転がる仮面の男。プーハニアはふんと鼻息を鳴らした。口ほどにもないとはこのこと。幾らシナモリアキラを自称しても、所詮はアマチュア。プロのシナモリアキラである
「俺はこれでも給料貰ってシナモリアキラやってんだ。にわか仕込みの痛いコスプレ野郎なんかに負けるかよ」
つい先ほどまでは『
「ヒ、ヒーローは、くじけない――」
「何がヒーローだてめぇも迷惑行為野郎だろうが。俺がクソだからてめぇのクソさが免罪されると思うなよ。おう、おとなしくしろ、『私は他人の名前を騙って好き放題やった痛いコスプレクソ野郎です』って札付けてさらし者にしてやるぜ」
お前も社会的制裁を受けろ――プーハニアは昏い正義感に取りつかれていた。自分が責められるのは仕方ない。だが自分がレスラー協会を除籍となり、裁かれるべき悪党がのうのうと暮らしているのは我慢がならない。悪党は全員裁かれるべきだ。それが公平と言うものだし、自分が悪党を懲らしめことは贖罪行為に繋がるはず――そんな理屈を心の底で積み上げていく。
大きな掌で頭を掴み、無理矢理に仮面を剥がそうとする。
ブルドッグの顔に暴力的な笑みが浮かんだ。
「どんなブサイクな面してやがんだぁ? 御開帳だぜ、アマチュアさんよ」
「や、やめろっ」
本気で嫌がるような声。
嗜虐の火が煽られて炎となった。
一気に引き剥がされた仮面。床で硬質な音が跳ねる。
ブルドッグの目がきょとんと疑問を呈していた。
「あん?」
顔は見えている。
だが、何があるのか認識できない。
瞬きして目をこすっても同じだ。
虹犬という種族は邪視適性に優れている方だが、その眼力をもってしても相手の正体がわからなかった。仕方なしに『道場』に尋ねてみる。キーワードを取ってこいと投げると、仮想視界の奥の方からシューラ犬が幾つかの検索候補を咥えて持ってきた。ちなみにプーハニアが実家で飼っていた犬に似ている。
「無貌の民――『上』の眷属種ってやつか。へぇ、随分と序列が低いんだな――あ? 島に外壁に山間部に――隔離? 特別区っておい、なんだこりゃあ」
思わずぎょっとするような情報が目に飛び込んできたものだから、ブルドッグの男は動揺してしまう。荒くれ者というような風体をしてはいるが、『下』で生まれ育った彼は『上』とは違う常識の中に生きている。不快感を覚えつつも怖いもの見たさのような気持ちでさらに検索を続けようとすると、正体不明の男が粘ついた声で敵意を吐き出した。
「俺は、お前たちのような利己的な悪魔どもとは違う。人ならざる超人、純粋な力の具現! 絶対的な英雄として戦って、『みんな』を助けるんだ――!」
声に引き寄せられて、どす黒い感情が濃縮されていった。男の認識できない顔に黒い靄が集まっていき、虚空に開いた穴から更なる漆黒が立ち込める。
認識阻害の霧――『未知』や『夜』といった神秘を強める夜の民の高位呪術だということが『わからない』ゆえに推測可能になり、シューラ犬が吠えた。
「ぐおおおっ」
プーハニアは闇に飲み込まれ、見当識を失う。
何もわからない。一切があやふやになり、自分自身の肉体すら確かなものではなくなっていく。
そして夜が訪れる。
誰かに呼ばれた気がして、プーハニアは目を開いた。
気が付けば宿舎棟の廊下、壁に凭れ掛かって気絶していた。
戦闘の破壊痕をドローンが修復している。
いったい何が起きたのか。戦闘があったというのに仲間の誰もかけつけてこない。医院を囲む外壁に寝泊まりしながら防衛の陣頭指揮をとっているルバーブはともかく、他の幹部やトリシューラがこのことに気付いていないとは思えなかった。
「あの、大丈夫ですかっ」
そしてあの正体不明の男。
闇が広がったあとのことを何も覚えていないのが妙だった。
自分が気を失っていたというのなら、幾らでも攻撃できたはず。なのにこうして放置したままどこかへ姿を消してしまうとは、幾らなんでも何か狙いがあるとしか思えない。警戒心が胸から腹へと落ちて、背筋がぞわりと震えた。
「もしもしー?」
「お、おおう」
弱い力で引っ張られて、ようやくプーハニアは気付く。
先ほどから自分を呼び掛けていた知らない声。
きちんと視界の正面におさめると、やはり知らない相手だった。
「そのお、わたしぃ、迷ってしまって――そしたらあなたが倒れてるじゃないですか。しかもあちこち壊れてるし。何かあったのかなって心配になって」
おどおどしながら言うのは、プーハニアと同じ虹犬種族の女性だった。
同じといっても氏族は異なる。
ブルドッグの強面とは似ても似つかない、小柄で人懐っこい雰囲気。
立ち耳は上品で、つんと尖った鼻先が愛らしく、ふさふさした白い体毛は密生しておりとても暖かそうだ。虹犬用のスカートのお尻からは巻尾が垂れて、首から背にかけてもふさふさした被毛が見られる。
その愛らしさから同種族、他種族を問わず人気の高いポメラニアン氏族。
少女を見たプーハニアは思わず呟いた。
「可憐だ」
「――はう?」
とぼけた声を出しながら首を傾げるポメラニアン。
プーハニアはしばらくのあいだ呆けていたが、突然はっとなって、
「お、お嬢さんっ、っこ、ここは危ないので表にご案内しますよ。どちらに向かう予定でしたか? 避難スペース? それともどこか悪いのかな、なら俺、いや私から院長に話してもいいですが」
と凛々しい声で話しかける。
それを聞くと、ポメラニアンの女性は喜んでこういった。
「わあ、院長先生とお知り合いなんですか。顔が広いんですね~」
「いやあ、それほどでも。まあちょっとした仕事上の付き合いというやつですよ。他にも有名ファッションブランドのデザイナーやモデル、プロの(e-)スポーツ選手や芸能人なんかとも親しくさせてもらってます。まあこういう世界で生きていると何かと機会がありましてね」
調子のいいことを喋りだすプーハニア。
好みの女性を前にするとこうなるのが彼の性格だった。
散々じらした挙句、「随分と逞しいですよね、何かスポーツや格闘技をやっているんですか」という質問を引き出し、満を持して「実は私、こういうことをやってましてね」と得意げに端末から自分の試合映像(もちろん華々しい勝利ばかりの名シーン集である)を見せて「すっごーい」と言われるのがプーハニアの密かな趣味であった。『安産型』は公衆の面前、しかも調子に乗り過ぎていたのが祟ったが、こうした振る舞い自体は悪いと思っていないプーハニアである。
己の力を誇示して得意になるのは当然の権利だ。
その恩恵にあずかり、ちょっとくらい女性にちやほやされるくらいのささやかな楽しみ、許してくれてもいいではないか。あくどい事はしていないし嘘も言っていない。安産型は言った。今は反省している。
嫌なことばかりだが、せめてこの子と仲良くなってできれば連絡先を交換とかしたり――妄想を膨らませるプーハニアはそこではたと気づいた。
レスラー協会から追放された自分は、既に自慢できる地位を失っている。
愕然とした。自分が誇っていたものは、楽しみにしていたことは、こんなにも容易くなくなってしまう。資格を失ったという実感は正直湧いていなかった。彼自身は力強いままで、その肉体に由来するプライドは保てていたのだ。その気になれば実力でいつでも這い上がれる。事実、あの仮面の男は倒せたではないか――それが、こんなところで気付かされた。社会的制裁とはこういうことだ。自分の位置づけ、立ち位置に対して与えられた罰。傷ついているのは肉体ではなく足場だった。
急に不安が襲ってきて、委縮してしまうカニャッツォ。
耳がぺたりと力を無くす。
そんな時、追い打ちをかけるように女性が言った。
「わたしぃ、いなくなっちゃった彼を探してるんですけどぉ――良かったら、一緒に探してもらえませんかぁ? なんだかここ、とっても広くって。『杖』オンチだから、ナビとかの使い方もよくわかんないし」
「え、あ、はい。彼、彼というのはカレ、つまり恋人、みたいな」
「そうですぅ。彼、珍しい狐系の虹犬で。とってもかっこよくて、色々な変身ができるからどんな種族からも人気があってー。尻尾も九本あってふっさふさなのー」
そこまで詳しく聞いていないのに、恋人の話をまくしたてる女性。
なんでも、突然「愛され過ぎてつらい」と言い残して彼女の下を立ち去ってしまったらしい。その直後、包丁を持った女性が押しかけてきた上に警察を名乗る眼鏡の男が現れて包丁女に手錠をかけて連れ去っていったということだが、プーハニアには何が何やらわからない。
「わたしぃ、彼を見つけたくて――なんていうかぁ、彼ってほっておけないところがあるじゃないですか~」
そんなことを言われてもその相手のことを知らない。
真顔で返すことができればよかったのだが、いい顔をされないのは経験上わかっていたから曖昧に頷いておいた。女性は甘い声で次から次へと恋人の話を繰り出してくる。拷問のようだとプーハニアは思った。
「それでぇ、わたし以外にもたくさん仲のいいひとがいたから、私なんかがいいのかなって思う事もあったりしたんです。そういうとき、わたしの全部を受け止めてくれるみたいな優しい顔で笑いかけてくれたりして、すっごくあったかくてぇ」
のろけに次ぐのろけ。胸やけがしそうだった。
「彼って優しすぎて傷付いてしまう人なんです。自分がかっこよすぎるから、世の中の顔が不自由な人たちを苦しめてしまっているんだって。そうやって心を痛めてる彼って、ほんとうに繊細で素敵だなあって」
「殺してえ」
「えっ」
「あ、いや、素敵な彼に何かあったら俺が許しませんってことです! まあ無事に探してみせますから、安心して下さいよ!」
「わー、頼りになる男の人って素敵ですぅ」
どこか間の抜けたやり取りをしながら二人は歩いていく。
廊下に伸びた二人の影。
その形が、異形に捻じれていった。
その頃。
「ねえねえ先輩。みんなに聞いたんだけど、前はちょくちょく『なんとかですぅ』『ミルーニャはぁ、きゃるーん♪』みたいな痛いぶりっ子してたんだよね? もうしないの?」
「あれはアズーリア様を馬鹿にしてたんですよ。煽ってたともいいます。だからあの共感馬鹿触手にイラついた時以外はもうやりません」
「ああ、なるほど? でも様は付けるの?」
「いやだっていまさら全部外すとマジっぽくて恥――何言わせてんですか」
「ぎゃあああああぐりぐりやめてー!」
などというやりとりがあったが、特に直前の一幕とは関係ない。
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