4-124 王と物乞い①




 死人の森の断章は、失われた言葉を代弁する。

 悲しみ、苦しみ、喜び、慈しみ――ありとあらゆる想い。

 激しい怒りの熱量さえ、余さず全て燃焼させていく。


 【愛情】は怒りに震えていた。

 激情の矛先は、高みから下界の悲劇を嘲弄する悪意に向けられている。

 運命の操り糸を垂らしながら、邪悪な魔女が芝居めいた口上を述べた。

 糸が繋がるのは紋章の刻まれた呪石。

 魔女が王に護符と偽って預けていた呪いの道具だ。

 それが哀れな人形の王を操っているのだ。

 底の無い悪意。濁ったどぶのような声が美しいものを破壊していく。


「嗚呼、なんてかわいそうなマラード。美しいという自負だけが貴方の支えで、王としての自我の基盤だったのに。けれどそれはまやかし。砂の上に作られた脆い塔に過ぎないわ。だって貴方は本当は醜いのだから」


 違う、と存在しない喉が振動した。

 だが、その為の魂は既に失われてしまっている。

 崩壊した円形競技場の中央で、王は大地の槍で串刺しにされていた。

 聖と俗、貴と賤の交換という欺瞞。

 主従逆転の人形遊び。


 嘘という呪術が破綻した結末は、術者の死という型どおりの悲劇だった。

 ラフディの王ルバーブは死んだ。

 唯一絶対であったはずのマラードとの絆が壊れ、命が、魂が、心が砕けてしまったのだ。たとえ奇跡が起きて甦ったとしても、失われた絆は二度と戻らない。

 そしてルバーブにとってはそれこそが死よりも重大な破滅に他ならなかった。


 世界に破壊をもたらしているのは言葉通りの醜い怪物だ。

 悪意によって傷つけられた偽王の成れの果て――かつてマラードと呼ばれていた地竜が嘆くように吠える。荒ぶる爪が、猛る尾が、大地と建造物を粉砕していく。


「大地の民はまあるいものを美しいと感じるの。だから本当はルバーブのような体型こそが美しさの基準。細く整った容貌などにどんな価値があるでしょう。ラフディでは男女問わず、丸く力強いことが美しさの基準なのに――みぃんな、滑稽な貴方のふるまいを見て陰で嗤っていたわ」


 嘘だ。丸く力強いものは美しい――それは確かに古代ラフディに存在していた価値観には違いない。だからといって、その他の美しさが否定されるということにはならない。だが世界を変容させるほどの断定――『邪視』によって全てがねじ曲がっていく。地竜は恥辱に震え、血の涙を流しながら暴れ狂った。


 彼を害するのは言葉と視線の悪意だけではない。猛火が天を席巻する。稲妻と灼熱が雨のように降り注ぎ、大地を焼き尽くしていく。空から舞い降りた炎の天使。恐るべき御使いの怒りによって傷つけられ、地竜は既に満身創痍だった。


 心身を責め苛まれ続けながらも、巨大な質量は進撃を続ける。

 唯一無二の本物を求めて。彼が信じられるたった一つを信じて。

 地竜は今、信じていた全てを失って深く傷付いているのだろう。

 足場から世界が崩壊する衝撃に耐えながら、必死に拠り所を探している。


「どんな物語でも、竜の振る舞いは似たり寄ったり。あなたも同じね、かわいそうなマラード。お姫様を探しに行きましょう。財宝を奪いに行きましょう。残酷な時の流れは待ってくれないけれど、永遠の美しさはきっとこの先にあるから」


 アレッテ・イヴニルの言葉は終わらない。

 呪いのように世界にまとわりつく言葉を、いますぐにでも消し去りたい。

 だがその願いはもう叶わないのだ。

 体は既に死んでいる。

 心と魂、忠誠と信頼は砕けて散った。

 ならばもはや未練すらも朽ちていくことだろう。

 絶望のまま、失意すら土の下へと落ちていく。


 ――本当に?


 問う声はどこから聞こえてきたのか。

 誰が問いかけてきているのか。

 失われたはずの意識が、知覚が、どうして未だに継続しているのか。

 あり得ないという疑問――それに答えるように、一冊の書物が現れる。

 その名は【知識リコグニション】――第八の断章。

 担い手の名は、機械女王トリシューラ。


 ――さあ、『 』。新しい――


 鮮血のアンドロイドが操る禁呪は、死を踏破した先に未来を作り出す。

 ゆえに。

 屍と血、記憶と過去の全ては、踏みしめるべき足場に他ならない。

 冬の森で命が終わる。その後に始まるものは果たして何か。

 地の底で眠る種だけがそれを知っていた。




 時間を遡る。

 記憶が逆に流れていく。

 すらりとした美しい男と、丸々とした醜い男。

 二人は常に共にあった。


「ヴァージルは、俺に父親になって欲しいそうだ」


「彼は危険です。あの毒婦もですが、同盟者は慎重に選ぶべきでしょう、陛下」


「しかし、機械女王に対抗するには二人の力は必要ではないか? 見ろ、この黒く染まった妖精と、力ある紋章を」


 狂えるヴァージルからの贈り物は邪悪に染め上げられた『小さな妖精』――機械女王トリシューラの分身たちだ。それを使って女王に攻撃を仕掛けるのだという。

 だが、あの少年は他の六王たちにもこの邪妖精をばらまいているらしい。

 彼の力を使うのはいいが、逆に利用されるのも危険だった。


 そしてより危険なのはもう一人の魔女――アレッテ・イヴニルである。彼女が陛下に渡してきたのは紋章の刻まれた呪石だった。

 国旗に描かれているのと同じ盾の紋章エスカッシャン――四分割され、右上が真球、右下が九本の針、左上が赤眼の亜竜、左下が黒い狼となっている。

 それぞれラフディの歴史に深く関わった図像だが、とりわけ左上の【魔眼竜バーガンディア】は建国神話にも登場し、この国と竜王国との力関係を決定付ける理由となっている。


 亜竜王アルトは家臣の一人ディルトーワに救われた礼として、娘のバーガンディアを褒美に取らせた。アルト王は降嫁した姫君とディルトーワに当時名付けられていなかったラフディの地を任せ、後にそこは王国となった。


 遡れば、ラフディ王家はアルト王の血脈に連なっていることになる。

 『ラフディは竜王国の月である』と口さがないものは噂する。

 的を外した意見でもなかった。


 亡き姫君の両目を核に作り上げた対の至宝『紅紫の瞳』は両国の絆を証明するものであったが、長い年月の中で失われて久しい。竜王国との関係性は曖昧なまま、歴史家や吟遊詩人たちの呪文によって揺らぎ続けている。


 陛下に渡された魔女の呪具は、竜王国との関係を利用して亜竜王アルトに呪詛をかけるというものだ。陛下と魔女は共謀してアルトを弱体化させようとしていた。


「俺はアルト王を尊敬している。あの偉大な男をどうして敬わずにいられようか。だが、それでも譲れぬものがある。愛すべきカーティスにも、憎きオルヴァの奴にも、俺は負けたくない。六王で最も弱く愚かと侮られることが我慢できないのだ。わかってくれ、ルバーブ」


 真剣な表情。切実な願い。

 これは過去だ。失われた記憶。


「セレス姫は俺に未来を示してくれた。無数に存在し、無限に作られていく見果てぬ恋の道を。平面の世界に広がる架空の恋物語を」


 遡る。陛下と交わした言葉を。


「だが俺はやはり唯一の物語が欲しいのだ。俺にとってセレス姫は唯一無二。彼女の遊戯を、彼女の物語を、我がものにしたいと願うのは傲慢だろうか?」


 その願いを、『私』はどう受け止めたのだったか。

 たしかそう――こう答えたのだ。


「それを傲慢と呼ぶのであれば」


 きっと、私は自らのことを語っていただけだったのだろう。


「世の恋は、全て罪深い悪徳に堕するでしょう」


 それでも、我が主はその答えを深く噛みしめていた。


「そうか。いや、たとえそうであっても構わぬ。罪を抱えて悪徳を追い求めてみせようではないか。そうあることで欲しいものに手が届くのなら、俺は邪悪で良い」


 だが、やはり間違いだったのだ。

 魔女の甘言に耳を貸してはならなかった。

 その先には破滅しかない。

 呪いに縋る弱さが招き寄せるのは、幸いではなく災いなのだから。


 記憶が次々と通り過ぎていく。

 古い光景は加速していく。ぐるぐると廻って落ちていく。

 これは夢だ。

 かつての栄光、色鮮やかな幸福。

 失われた未練、その光景。

 落下の衝撃。

 転落の末に辿り着いたのは、最も古い『私たち』の記憶だった。




 土の声が聞こえる。

 乾いた砂と共に風に吹かれてやって来るその匂いが、しきりに訴えかけるのだ。

 お前は一体何をしているのだ、と。

 叱責から逃れるようにして、ふらりふらりと歩き出す。


 言い訳をするように硬い大地を踏みしめ、あても無く市街を彷徨い、やがて薄暗い路地裏へと迷い込んでいった。暗闇で糧を探す土竜もぐらのように。

 明るい表通りから一歩道を逸れてしまえば、そこには闇が広がっているのみ。

 人狼をはじめとする移民たちが目に炯々と火を灯し、捨てられた子供たちが身を寄せ合って警戒の視線を向ける。ぼろ切れを纏った老爺が歌うようにうわごとを呟き続けていた。


 ラフディの始祖ディルトーワは偉大なる地竜王と讃えられ、その妻バーガンディアは慈悲深い美姫と称された。長命の支配者たちは百年の栄華をこの大地にもたらしたが、その実態はけっして無批判に賛美できるようなものではなかった。

 功罪相半ばする王の施策。それに対する批判で最も多いのは、王としての権威をそのまま他国に預け、依存していることだった。


 竜王国によって与えられた国土と王権、そして王族の血。

 始祖ディルトーワは亜竜王アルトの許しを得てこの大地に王国を築いた。大国の王であったアルトは娘である魔眼竜バーガンディアをディルトーワに与え、王族の血統という名の権威を授けたのだ。更には姫君の護衛という名目で近衛騎士団を送り込むことによって『力』までもを与えた。しかしそれはラフディにおける王権の神秘性と軍事力を竜王国が掌握するということに他ならない。


 加えて多種族共生を掲げる竜王国の理念をそのままラフディに持ち込んだ王妃は、人狼種族の大規模な移民受け入れ政策を実行した。様々な神話で大地の民と親和性が高いとされる種族ではあるが、急激な変化は相応の歪みを生み出す。その反動は、確実に後代に響いていた。


 繁栄する王の都、その影に蠢く無数の人狼たち。

 今は亡き悲劇の王妃が遺していった負債が『これ』だった。

 ここは掃き溜めだ。

 掏摸すりが、たかりが、強盗が、詐欺師が、薬物中毒者が、狂人が、入れ替わり立ち替わり現れて金と命を要求する。


 哀れみと怒りを感じながら球貨を地面にばらまいた。途端、誰もが熱心な物乞いに早変わりする。足早にその場所を立ち去って、複雑に入り組んだ路地裏を彷徨い歩く。迷路じみた曲線の道を進む目的は特には無かった。ただ、この場所を見ておきたかった。目と耳で知っておかねばならないと感じていたのだ。


 それがこの身に課せられた責務。

 重い、あまりに重い呪い。

 こんなものはいらない。『これ』は、ふさわしい者の手に渡るべきだ。

 自分の居場所はここではない。

 ずっと、足場の頼りなさに不安を抱き続けてきた。


 迷路を歩く。心を映し出すように、世界は暗く入り組んでいる。

 と、腹のあたりに衝撃を感じて立ち止まった。

 小さな何かがぶつかり、反動で跳ね飛ばしてしまったらしい。弾力のある腹部に激突すれば自然とそうなってしまう。


 地面に倒れた相手を見下ろして、驚きに目を見開いた。

 少年だった。驚愕すべきはその容貌である。

 やせっぽちの幼い体つき、強気にこちらを見上げる視線、向こう見ずな負けん気の強さ、大人に見下ろされているという恐怖に打ち勝とうとする意思の強さ――なにより、輝かんばかりに愛らしい顔の造作。泥で汚れ、不健康に青ざめた顔色であってもその価値は損なわれることなく、むしろ一層の輝きを見せていた。


 だが――周囲を通りがかる者たちはその子供を見ると顔を顰めて舌打ちし、唾を吐いて罵倒する。土に汚れて乱れた長い髪が不格好であるというのがその理由だ。髪の美しさは魂の美しさ。たとえその日の暮らしに困っても髪の手入れは怠るなというのが大地の民に伝わる教えだ。少年に蔑みが向けられるのも無理は無い。


 知った事か。

 誰もがその価値を否定しようとも、自分だけは知っている。

 これは輝きを煤で覆い隠された宝玉なのだ。

 誰も暗闇に目を凝らそうとしない。

 それは愚かなことなのだと、本当の意味で理解する。


 少年の境遇を思い、痛ましさに胸が張り裂けそうになる。

 足の鉄環に千切れた鎖。逃亡奴隷に違いない。握りしめた木の枝は武器のつもりなのだろうか。威嚇するようにこちらに向けている。貧民街での生活のためか、長い髪は薄汚れてしまっている――それこそはあらゆる国宝と引き替えにしても惜しくない絶対の美であるというのに。


 世界は今、その意味を失っている。

 全てはたった一つの答えの為にあるというのに、世界は本来の姿をまだ取り戻していない。本当の王に玉座を預けていない。

 王国が抱える歪み、己が足下に感じていた不安、全てはこの為に用意された布石だったのだと確信した。


 欲しい、と思った。

 それは根源的な欲望だった。

 余りにも醜く、余りにも邪悪で、余りにも罪深い。

 許されざる大罪。ゆえに感情を殺し、思考を巡らせる。

 しばらくして、言い訳のように口が開かれる。

 うすら寒い台詞がすらすらと流れ出した。


「ひどいものだ。労働移民への差別、貧困層の暮らしぶり――私はこの国を本当に知っているとはとても言えぬ」


 怪訝そうな視線。

 当然だろう、この場所でそんな事を口にするのはよほどの篤志家か喧嘩を売りに来た命知らずのどちらかだ。いずれにせよどうしようもない阿呆である。そう思ったのか、少年は関わり合いになるまいと一歩後退る。


「私と入れ替わってみないか、少年」


 足が止まる。逃がすまいと放たれた言葉は、狙い通りに少年を掴まえた。

 堕落を感じた。心を言い訳で固めながら、正しさを偽装する。

 大義名分が必要だった。この身の醜さを肯定し、欲望を叶える為に。

 少年の無知と哀れな境遇につけ込んで、邪悪を達成する。


「王となればどのような望みも思いのままだ。君は何を為したい?」


 権威を証明する。土塊から作り上げた輝く王冠を、囁くように音にした地の底を鳴動させる宣名を、少年はへたり込んだまま怯えて見聞きしていたが、やがて顔を上げて言い放った。


「なら俺は、ぶっ壊したい」


 激情を炎と燃やして、真っ直ぐにこちらを睨む。

 幼い瞳に、はっとするような煌めき。

 それは星に似ていた。


「このくそったれな場所を無くしてやりたいよ」


 壊したい、と少年は言った。

 それは怒りであり敵意であり恨みであり憎しみであり――同時に輝くような希望でもあった。少年が願う破壊には、未来があったからだ。


「嫌なもの、全部無くせば、もう苦しくなくなるだろ。もう嫌なんだ、バカにされるのも、唾を吐かれるのも、蹴り飛ばされるのも! だから」


 その願いを、引き上げてみせよう。

 幼い意思を磨き上げたなら、それはどんな輝きを放つだろうか。

 瞬間、小さな煌めきに無限の可能性を夢想していた。


「できるものなら、俺をここから連れて行ってくれ!」


 この人生の全ては、いまこの瞬間に彼を攫うためだけにあったのだ。

 確信は得た。さあ、呪いを始めよう。

 王に跪く惨めなルバーブ――私の生は、この瞬間から始まる。

 手始めに、自らの髪を惨めに汚す所から始めよう。

 真に美しいものは、ひとつでいいのだ。



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