4-16 空の玉座


 第四衛星イルディアンサには幾つかの『海』がある。

 といってもその空間を満たしているのは海水ではない。

 情報――文字の海だ。


 『海岸』からは、ネットワークの波をボード波乗りサーフィンする兎たちが見える。

 大きな浮き輪に寝転びながら水面に浮かび、暢気に物理書籍を読んでいるものが大半で、ここでの『水泳』はつまり情報に没入する行為である。


 ここはネットサーファーや観光客で賑わうイルディアンサの首都海岸。

 イルディアンサにおいては、交易、経済、情報、通信、行政の全てが首都に集約されている――そして同時に情報の海を通じてこの太陰全体に分散されてもいる。


 空には太陽光を効率的に吸収、エネルギーに変換する透明な結界が広がっており、大気や重力などの環境を地上の基準に合わせることによって生物の生存を可能としている。


 月面本来の重力は地上の十七パーセントに満たないが、王宮を基点として展開、維持される呪文によってその場所は地上と全く同じ重力となっていた。

 しかし、そんな場所にふわりふわりと、重力を無視して浮き上がる者がいる。


「ほえー」


 気の抜けた、頭が緩そうな声。

 鍔が広く、先の折れた黒い三角帽子に露出度の高い水着という格好の女性が、月面フレーバーのかき氷などを食べながらぼんやりと漂っていた。


 アップにした黄色の髪に鳶色の瞳、快活な顔立ち、恵まれた姿態――それらが、「ぼへーっ」などという年頃の女性にあるまじき声で台無しになっていた。

 本人はそんなことは気にしてさえいない。

 精も根も尽き果てているのだ。


「うう。疲れたよ。もう拷問みたいな暗号解析と呪文構築は嫌だよう」


「泣き言は聞き飽きました。いい加減気持ちを切り替えて二次試験の対策でも立てたらどうですか。ていうか勉強しなさい」


 小柄な少女が冷淡に答える。

 彼女がいるのは大きなビーチパラソルの下。

 ビニールシートの上で両膝を立てて、黒い魔導書を読み耽っていた。


 水着はフリル付きで白、ごく普通のワンピースのような形。

 慎ましやかな胸元にワンポイントのリボンが付いているさまは年端もいかない少女特有の愛らしさを感じさせるのだが、落ち着いた表情は外見に反して大人びている。アンバランスな雰囲気に魅力を感じるのか、周囲の視線は専ら少女の方を向いていた。


「むう。世の中ロリコンばっかりだ」


「何ですか、ろりこんって」


「日本語で幼児性愛者って意味。仕事で何度かシューらんと会うんだけどさーその時に色々教えて貰ってるの」


「あのぽんこつ女――ていうか幼児って何ですか。喧嘩売ってるんですか。買いますよ」


 リーナ・ゾラ・クロウサーとミルーニャ・アルタネイフは、どこか気怠げに言葉を交わす。気が抜けているのは二人ともであった。


「うーん。二次試験延期とかー。何すればいいのかわからんちんだー」


「勉強すればいいでしょう」


「今更って感じだしー。ていうか先輩だって海誘ったら来たじゃん?」


「気分転換も兼ねて、ですよ。ここで勉強すればいいわけですし」


「まーそうだけど。あー、なんかこう、ずーっと延期が続いて休暇気分でぐだぐだしてたいなー。最近忙しくて疲れたしー」


 リーナの弱音に、ミルーニャは何も言わず、沈黙を返した。

 クロウサー家当主としての連日の勤めは今までふわふわと生きてきたリーナにとっては過酷なものだろう。その辛さを肩代わりすることはミルーニャにはできない。できるのは、愚痴を聞いてやることくらいだ。


「ふあー。ねえねえせんぱーい。日焼け止め塗ってー」


「月面結界の内部で日焼けはしませんよ。だからこそ紫外線に強くない私や兎さんたちでも普通に肌を晒していられるんですし」

 

「うん知ってる。言ってみただけ。はー、浜辺の視線を独り占めしたかったのに」


「そんな事に何の意味があるんだか」


「えっとねー、帰ったらガルズに報告してー、どんな反応するかなーって」


 ミルーニャはげんなりとした顔になった。

 リーナは両手を頬に当てて、この間はガルズとこんな事を話した、この前は仕事についての助言を貰って、その通りにしたらこの上なく上手く行った、などと蕩けきった表情と声で喋り倒す。こうなると長い。


 逃げたい、と書かれた顔を魔導書【死人の森の断章】で隠して、ミルーニャは視線を横に逸らした。

 と、向こうから見知った相手が近付いてくる。

 リーナもそれに気付いて、大声で呼びかけた。


「らんらんじゃーん! おーい、こっちー!」 


 既に元の名前の原形を留めていない渾名に、赤い髪を二つに束ねた少女が手をあげて応える。

 黒と赤の菱形の布を幾枚も連ねたようなやけに前衛的なデザインの水着に、何故か日焼けした褐色の肌。


「トリシューラ。貴方、一人で出歩いていいんですか」


 あんなことがあった直後に、と言外に責めるような含みを持たせてミルーニャが言った。

 ミルーニャがなぜトリシューラを責めるのかと言えば、それは言語魔術師試験の二次試験が急遽延期されることになった直接の理由が彼女に関係しているからに他ならない。


 昨夜、トリシューラが宿泊していた王宮が賊の襲撃を受けた。

 幸い、警備兵たちの奮戦によって撃退に成功したものの、戦闘の余波で王宮内に用意されていた二次試験会場が崩壊してしまった。


 特設会場の大型石版。

 試験に必須であったその呪具が破損したことで、二次試験は延期。

 現在、復旧作業が急がれており、ハルベルトを始めとした月の高位言語魔術師たちは夜を徹して悪戦苦闘を続けている。なお、その後すぐに上級二次試験が開始されるという。災難にも程があった。


「一応、遮蔽装置持たせたドローンを随伴させてるから安全だよ。それに私もちょっと気分転換しようかなって。ほら、ストレス解消にレジャーっぽいことしたほうが、人間らしいと思わない?」


「べつに。上っ面だけなぞって人間の振りとか、寒いだけじゃないですか」


「寒いかどうかなんて気にしてたら自己表現なんて出来ないし、自意識は死んじゃうよ。周りが全部白けてたって、動き続けなきゃ私は私じゃなくなっちゃう」


 トリシューラはいつもの無表情な微笑みをミルーニャに向けて答えた。

 その返答に、ミルーニャは無言のまま小さく嘆息する。

 それから、忌々しそうに呟く。


「だから貴方は嫌いなんです」

 

「ひどーい」


「いつか必ず倒します。公開された点数で格付けが済んだ後、その自尊心が折れて死なないようにすることですね」


「いーのかなーそんなこと言って。ちなみに一次の自己採点、私は満点だったけど、メートリアンはどうだった?」


 舌打ち。

 それきりミルーニャは視線を本に向けて、トリシューラを徹底して無視する。

 その後、トリシューラはリーナと他愛ない会話を続けた。この二人は表面上馬が合うらしく、会うと傍目からは噛み合っているようないないような余り内容の無い会話をひたすら続けることが多い。


 見た限りでは、仲の良い友人同士そのものだ。

 実際、クロウサー社がリーナ主導でガロアンディアンに進出して以降、対外的に二人は『親友』で通っている。


 ガロアンディアンという不安定な王国がその存在を維持出来ているのは、超国家的な巨大企業体であるクロウサー社が全面的な支援を行っていることが大きい。

 三ヶ月後に計画されている『歌姫』のライブはこの二人の協力無しでは実行不可能だ。ミルーニャにとっても、彼女たちが仲良くすることは望ましい――のだが。


 不機嫌さを隠しきれず、険しい顔で紙面を睨み付ける。

 怒りを魔導書にぶつけるように、文字の群に敢然と立ち向かっていくミルーニャは、理由のわからない感情を持てあまして歯噛みした。


 ぬるま湯のような空気。

 いつか敵になるかもしれない。けれど、今はうわべだけの協力を続ける。

 それを、リーナは理解しているのだろうか。


 わからない。

 だが、その時が来たらトリシューラを殺すのは自分の役目だとミルーニャは心に決めていた。それは、彼女が自分にとって超えるべき壁であるから。


 トリシューラはしばらくリーナと会話を続けると、不意に用事があると言ってその場を離れていった。


「何しに来たんだか」 


「挨拶じゃないの?」


 リーナは気の抜けたことを言っているが、トリシューラの行動は全て警戒の目で見るべきだとミルーニャは経験上知っていた。

 機械のように不合理な動きをすることはあっても、基本的にトリシューラは人間らしい合理性を突き詰めたような魔女だ。油断をしていると足下を掬われる。


 アンドロイドの魔女の後ろ姿を睨み付けていると、ミルーニャの端末に着信があった。立体表示されたのは縮小されたリールエルバの姿だ。


『あら。また逃げられた』


「どうしたんですか?」


『さっきからトリシューラに連絡しようとしてるんだけどね。なんか拒否されちゃってて。直接アストラル体を飛ばしても移動されちゃうし』


「――何やらかしたんです?」


『何で私が悪い事前提なのかしら。っていうか、それがわからないのよ。会話すら嫌がられてるみたいで――ちょっと確かめたいことというか、おかしなところを訊ねたいだけなんだけど』


 おかしな話だった。

 リールエルバとトリシューラの関係は複雑だ。

 ある意味では姉妹と言う事もできなくはない。あるいは、従姉妹だろうか。

 

 仲は悪いようでいてミルーニャほど敵対的ではなく、気が合うようでいてコルセスカほどべったりしているわけでもない。

 その内心の深いところまでを知っているわけではないにせよ、奇妙な関係の二人だと、常々ミルーニャは不思議に思っていた。


『ま、いいわ。私も今は余計な事に気を割いていられる状態じゃない。遠隔受験っていっても、月までアストラル体を飛ばすのは大変なのよ。無防備な本体はニアが守ってくれてるから心配はしてないけどね』


 そんなことを言いながら、リールエルバはどこかに消えていく。

 上級二次試験の準備で忙しくしているのだろう。

 ある意味では、二次試験からが本番なのだ。


 最低限の知識を問われる一次試験とは異なり、二次試験からは言語魔術師としての実際の能力が問われる。

 呪文実技。次で八割が振り落とされると言われている、狭き門。


 ミルーニャは魔導書に意識を集中させて、迫る試練に思いを馳せる。

 気になる事、不審な点はあるが、それらは全て後回しだ。

 今はただ、目の前の難事に立ち向かうだけ。


 そんなふうに気を引き締めたミルーニャの背後で、聞き慣れた声がした。

 リーナが元気よく幼馴染みたちの名前を呼ぶ。

 プリエステラ、メイファーラ、そしてアズーリア。

 

 【チョコレートリリー】は揃って言語魔術師試験を受けに来ているのだった。

 といってもハルベルトとリールエルバは上級、ミルーニャは一級、その他は三級という差があり、三級組はほぼ記念受験のようなものである。


 かつての記憶を取り戻し、適性を伸ばしたアズーリアならば将来的には一級、それどころか上級も夢ではないとミルーニャは思っているが、それはともかく。

 黒い魔導書をばたんと閉じる。ビニールシートに用意していた教科書の数々を全て仕舞って、ミルーニャはくるりと振り向いて、満面の笑みを作った。


 それまでよりも遙かに甘く高い声で、


「アズーリア様ー♪ ミルーニャはこっちですよー! きゃーん、アズーリア様の水着姿、とってもステキ! 大変良くお似合いですぅー♪」


「先輩、勉強するんじゃなかったの」


「ああっ、日差しが強くてつらいですー! お願いアズーリア様、日焼け止め、ミルーニャに塗ってくれませんか? お返しに-、ミルーニャもアズーリア様に塗り塗りしちゃいますからっ!!」


「日焼け止め、意味無いんじゃないの? シューらんはノリで日焼けしてたけど」


 などと、リーナの呆れた声を無視して叫ぶミルーニャにとって、トリシューラについての余計な思考などもはやどうでもいいことであった。




 情報の海での振る舞い方は自由だ。

 泳ぐ者も、波に乗るものも、ひたすら潜るものもいる。

 あるいは、水上や水中を散歩するものも。


 赤い髪と緑の目を持つ少女は、人ならざる身体を多彩な情報の中に沈ませていった。巨大な排情報量。少女が有する情報量ぶんだけ、文字列の流れが押しのけられて更なる波を作り出す。


 沖合へとひたすら歩いていく。

 情報の圧が高まり、アストラルダイバーたちすら寄りつかない底に辿り着くと、少女は『それ』を見つけ出した。


 巨大な石版。

 言語魔術師試験に用いられるのと全く同じ、古代に製造されたという古い魔導書である。


「いにしえの言語支配者が一人にして王族最後の純血、狂王子ヴァージルの遺産か――王家にすら忌まれている存在に未だに頼って、それによって言語魔術師を選定するだなんて、滑稽な話」


 嘲笑。

 緑色の瞳は石版を通して、その向こう側にいる何者かを愚弄していた。

 向けられた不敬を、古代の呪術文明の結晶である石版は許さない。


 物言わぬ石版は、しかし紙すら無かった時代においては魔導書――すなわちコンピュータであった。

 最も高度なものになれば、高度な人工知能に近い振る舞いをする。

 石版には、ある種の知能が宿っているのだ。


 刻まれた文字が発光し、多重化された意味と文脈が周囲に満ちる情報の海から呪文を組み上げていく。

 呪文の渦が少女に襲いかかる。

 

 並の言語魔術師はおろか、一級の言語魔術師ですらまともに受ければ脳を焼き切られて即死するような致死の一撃であった。

 だが、その攻撃は少女に害を及ぼすことなく霧散する。


 少女がその言語魔術師としての能力で打ち消したのか。

 いや、そうではない。

 不可視化を解除された魔女の下僕が、彼女の前に出て盾となったのだ。 


「レッテにひどいことをするな!」


 それは、片手で抱えられるような、とても小さな人形だった。

 角の丸い、可愛らしい意匠の甲冑に丸盾、そして玩具の槌で重武装した戦士。

 円筒部分が蛇腹状になっており、衝撃を吸収してぴこぴこと音が鳴るハンマーを振りかざして、人形は襲いかかる呪文を全て打ち砕いていく。


 赤い髪の少女は頬に手を当てて、感激したように言った。


「まあ、私のことを守ってくれるのね。優しいベルグくん、素敵よ。流石は私の騎士様ね」


「レッテ、不用意な言動は慎んで。曲がりなりにもこれは言語支配者の遺産なんだからね」


 少女の後方で複数の結界を維持しているのは、だぼっとしたローブを着た、これもまた小さな人形である。

 

「ガルラくんは私の身を案じて叱ってくれるのね。本当に、いつもいい子ね」


「あのね。さっきの事もそうだけど、あまり冷や冷やさせないでおくれよ。お馬鹿なシアンリーナはともかく、ホワイトメートリアンは勘が鋭いからいつ気付かれてもおかしくないんだよ。まあ、グリーンリールエルバには極力接触しないようにって忠告を聞き入れてくれてるから、今の所は大丈夫だけど」


 苦言を呈する人形の仕草も声も、いやに人間じみている。

 聞いているのかいないのか、少女はどこか暢気な調子で返した。


「いいのよ。トリシューラの真似なんて適当で」


 偽装されていたテクスチャが剥がれ落ち、鮮血の如く赤い髪が色合いを変えていく。より明度が高く彩度が低い、紅紫マゼンタ色に。

 緑の両目は濁った水面のように、褐色の肌は白磁になり、果ては纏っていたドーラーヴィーラの新作水着までもが華やかなフリル付きのものに変化していった。


 そして最大の変化は、肩や肘、手首といった関節部が球体関節に変わったこと。

 まるで、人形であるかのように。

 

「ラクルラール様に叱られても知らないよ?」


「あの方はそれくらい折り込み済みで私にこの任を与えたのよ、ガルラくん。私たちが余計な気を回すまでもなく、命令が下った時点で結果は全て確定済み――それがあの方の人形操りなのだから」


 ふわりとした紅紫のくせっ髪を指でいじりながら、少女はぎょろりと眼球を巡らせた。

 ビスクドールのようだったトリシューラの容――印象は似ているが、より『人形のような』という形容が似つかわしい雰囲気。


 濁ったガラス玉の目が妖しく輝くと、視界に映し出された呪文の全てが空間に固定される。

 眼球が上から下に動く。

 視線の動きに伴って、呪文が地面に叩きつけられ、消滅した。


「現に、私がガロアンディアンへ干渉するまでもなく誰かが勝手に地上で偽装をしてくれている。私は【死人の森】なんて知らないけれど、気がついたら連携が成立している。あの方の『糸』はね、運命みたいなものなの。人形は思うままに動いていれば、結果は自然とついてくる――そう、私たちはみんな人形なんだわ」


「レッテ、君は、それでいいのかい?」


 気遣わしげに、ガルラと呼ばれた人形が問うた。

 ベルグという戦士の人形も、不安そうに少女を見ている。

 紅紫の髪を持つ少女は、少しの沈黙の後で、柔らかく微笑む。


「ええ。私はあの方の人形だもの。被造物は、造物主の行いに疑問を抱いたりはしないものよ。反抗期なんて――もうとっくに済ませたもの」


「レッテ――」


「だからいいの。トリシューラも、いずれ私と同じ結論に至るでしょう。いくらあの子が気難しくても、『調整』が終われば無意味な反抗なんて考えなくなるはず」


 少女は濁った瞳で、どこか自分に言い聞かせるように呟く。

 情報の海の底で厳かな佇まいを見せる石版に歩み寄り、防衛システムを無力化しながら、そっと手を触れる。

 

 地上から離れた、月の海底。

 トリシューラに化けていた人形の魔女は、濁った瞳で呪文の渦を操り、古代の遺産を掌握していく。


 その行為が結果として何をもたらすのか、彼女――アレッテ・イヴニル・ラプンシエル・ディルトーワ=ベルラクルラールすら知らない。


 邪眼の人形姫。

 魔戦人形師団の師団長。

 一万の心ある人形たちを使役する支配者。

 フォービットデーモンナンバーエイト・紅紫マゼンタ


 そんな肩書きすら、その造物主たる存在と比べれば、矮小なものに過ぎないのだから。

 ぽつりと、呟く。


「だから、女王様ごっこのおままごとは、もうおしまい。ガロアンディアンは、傀儡の女王が治める人形劇の舞台になるのよ」


 それが、誰に向けられた言葉だったのか。

 答えは無く、囁きは情報の海に飲み込まれていった。




 覚醒する、というのも奇妙な言い回しだが、トリシューラの意識はその瞬間、確かに『浮上』した。

 意識を喪失している間も、彼女の機械知能は正常な動作を続け、意識体の復旧を絶えず行っていた。その意味では覚醒し続けていたと言えるのだろう。


 しかし、『アストラル体』というものを仮構するならば、その目覚めはいまこの瞬間なのだ。

 状況は既に把握できている。


 ダメージは深刻。

 出立時、トリシューラの意識総体レベルは最高の第一位階であり、活動維持している質感呪術はこの上ない迫真性で生身を実現していた。


 現在の位階は第三位相当。

 ぎりぎりで『活動』のレベルではあるものの、ここから存在に大きなダメージを受けるか、禁呪を使うかすれば、『仕事』のレベルにまで低下して存在はあやうくなってしまうだろう。


 そして、この両手両足に枷で拘束された状態では、その未来は決してあり得なくは無いのである。もちろん枷は高度な呪具――それもトリシューラが松明の騎士団に協力していた頃に自ら開発した逸品である。そうそう抜け出せるはずもない。


「うえー改造してあるー。これはラーゼフの仕事かなあ。めんどくさいことするなーほんと」


 拘束されている呪具、座らされている椅子の作り、部屋の内装、なによりも目の前の男が身に纏っている軽鎧とその胸に刻印された松明の紋章から、トリシューラが置かれている状況は明らかだった。


「余裕だねえ、きぐるみの魔女」


 無精髭の生えた、中年に差し掛かる手前といった年代の男。

 守護の九槍第八位、【二本足】のネドラド。

 個室で向かい合う二人は、一方は拘束されて椅子に座らされ、一方は立ったまま見下ろすという構図であり、そこには力関係が如実に表れていた。


「――びっくりだよ。純粋な武闘家だと思っていたら、【静謐】使い――それも、対杖に特化した私の天敵だったなんて。能力を隠していたんだね」


「僕は本来もっと序列が下だったんだけどねえ。団長が、この碌でもない才能を見出して鍛えてくれたんだよ。君に対する為の力としてね」


 ネドラドは一歩近付いて、掌をトリシューラの額にあてる。

 トリシューラは微動だにしないが、自分が次の瞬間死にかねないということは理解していた。


「わかるかな? 僕の『否定』は杖という存在、概念全体に対しての攻撃なんだ。機械文明を排斥するというミーム。人は二本の足のみで立つべきだという確信と神への敬虔な祈りがそれを可能にする」


「足が無い人もいるけど?」


「それは天命だよ。人はその運命を神からの試練として甘んじて受け入れ、その上で最大限の努力をするべきなんだ。退廃した文明に与えられた力に甘えるのは、端的に堕落であり怠惰でしかない」


 ――転移門の移動は、トポロジー型圧縮異空間を通過して移動距離を短縮する、という形式のものが主流である。

 その移動は一瞬だが、異空間を通過する、というプロセスが必要になる。


 当然、警戒に警戒を重ね、多数のドローンと大機竜オルガンローデ、更には強化外骨格まで用意していた。

 その全てを、機械の天敵たる男は一撃で分解し、無力化して見せた。


 対高位杖使い戦闘に特化した修道騎士、ネドラド。

 金鎖のフラベウファが誇る鉄壁のセキュリティは、その詳細な情報をトリシューラから完全に隠していたのだ。


 想定外の事態に、トリシューラは弱い。

 あっけなく敗北し、捕縛され、現在に至る。

 眉を軽く顰めて、トリシューラは言った。


「それ本気で言ってる?」 


「もちろんだ。君のような機械が何でもかんでもやってしまう、やらせてしまうでは人のやることがなくなってしまうよ。それは人のあるべき姿を歪める邪悪だ。労働の楽しみを奪い、奉仕を許さず、堕落を促し、人々から仕事を奪う。正直に言えばね、僕は命令を無視してこの場で君を存在ごと否定するべきじゃないかと迷っているんだ」


 トリシューラは相手の言葉を聞き流しながら、冷静に情報を収集する。

 部屋に窓は無く出口は一つ。

 情報的に完全に遮断された密室で、外部との連絡はできない。

 ここがどこなのかも不明。


 ネドラドがその気になれば、トリシューラはいつでも存在抹消に追い込まれる。

 予備の肉体があるとか、意識総体レベルにまだ余裕があるとか、そんなことは関係が無い。

 あらゆる条理を覆す非常識。それが守護の九槍という最強の修道騎士である。


 だが、相手が自分を殺す気でいるのなら最初に一撃で終わらせているはずだ。

 それをしないということは、ネドラドが持つトリシューラへの『必殺』は実際に使う為のものではなく、見せつけて従わせるためのものだということ。


 三ヶ月前、刺客として現れたのが自分の天敵たるこの男ではなくキロンだったのは、松明の騎士団内部の派閥争いだけが理由ではなく、本当に殺されては困る、という松明の騎士ソルダの思惑が働いていたのかもしれない。


 『あれ』がどこまで深く策謀を巡らせているのか、その全てを見透かす事は出来ないだろうが、ガロアンディアンに操り糸を伸ばそうとする勢力は星の数ほどいる。これもそうした危機の一つなのだ。


「怪我、したって聞いてたけどな」


「したよ。そしてこのざまだ。表向き僕は第一線を退いて、教導官に落ち着いた――ということになっている」


 復活した大魔将ズタークスタークとの戦いで、ネドラドは全身を稲妻で灼かれて重傷を負った。

 片腕と片足などは完全に消滅したという。


 まともに動くことすら困難なはずの身体。

 だというのに彼は銃弾を回避し、砲弾を殴り返し、電磁投射砲を見切って、火炎放射の嵐をかいくぐり、亜音速の針を素手で掴み取ってみせた。


 だが、トリシューラの目の前にいるネドラドには両手両足が揃っている。

 ただし、彼は異形の身体になっていた。

 ネドラドの失われた片腕片足の断端から、白骨が伸びている。


「僕は杖殺しだ。どんな杖の義肢――たとえ最先端技術で生体培養されたものを使っても身体が無意識に拒絶しちゃってね。最終的に行き着いたのは『無くなった自分の手足』だったってわけさ」


「そうか――再生者オルクスは多重加護が前提となる唯一の眷族種。セルラテリスとハザーリャの加護を併用しているんだね」


 ネドラドは骨の手足を自在に動かして、トリシューラの髪をつまんだ。

 鮮やかな色が抜けて溶け落ちて、髪を束ねていたシュシュがバラバラになってしまう。トリシューラの瞳が、ほんの少しだけ悲しそうに揺らめいた。それは、この窮状にあって彼女がはじめて見せた感情の動きだった。


「【死人の森の女王】は僕に力をくれた。この手足は死んだ僕の手足そのものだ。死人の軍勢は彼女の手足。僕の手足は彼女の手足だ。つまり」


 部屋の天井に、半透明の剣が出現する。

 吊り下げられた巨大な刃が、トリシューラの真上で不安定に揺れ動く。

 ネドラドが望めばそれは落下して、ガロアンディアン全体に未曾有の災厄をもたらすだろう。


 【ダモクレスの剣】――僣主を殺す破滅の儀式呪術。

 担い手に選ばれたディスマーテル・ウィクトーリアがトリシューラを殺すことで成立するその呪術は、彼女の手足たる軍勢の一部によって殺害がなされても発動するのである。


「実を言えばね、これは団長とは――松明の騎士団とは関係が無い、僕個人としての独断行動なんだよ」


「どういう意味」

 

「『若くない』だなんて言って、不真面目で怠惰だった僕は、『神託』によって生まれ変わった。己の本当の使命を理解したんだな。忌まわしい異獣、死人の力を借りることも、大いなる使命のためと思えばまるで心が痛まない。むしろ清々しい気分だと言っていい」


 ネドラドは、トリシューラの問いかけなど聞こえていないように朗々と、上機嫌に語る。

 トリシューラは彼の詳しい人となりは知らないが、何か常軌を逸した――そして、熱に浮かされたようなような雰囲気を感じた。


 誰かに使われている――おそらく、背後にはトリシューラを殺すのではなく生かしたまま利用したい誰かがいるのだろう。

 だが、それが誰なのかが絞り切れない。


 ソルダ・アーニスタか。

 ディスマーテル・ウィクトーリアか。

 グレンデルヒ=ライニンサルか。

 あるいは、他の誰かなのだろうか。


 何が狙いなのか、それがわからない。

 実を言えば、最も危機的なのはその先行きの不透明さなのだった。

 

 まさしく狂信者の如くに喋り続ける自らの天敵を睨み付けながら、トリシューラは少しだけ、自らの使い魔のことを考えた。

 もう会えないかも知れない、なんて事は考えない。


 自分は必ずこの窮地を脱して彼と再会するだろう。

 だが、その過程が問題だ。

 助けられるなんて、以ての外だとトリシューラは思うのだ。


 できることならば、窮地に陥った彼を自分が助けに行きたい。

 そういう自分でありたいとトリシューラは思っていたから、それが出来ないことは耐え難い苦痛であり、自尊心に対する痛手でもある。


 なるほど。確かにこの拘束は、トリシューラにとって効果的な拷問だ。

 不快極まる不全感。

 女王としての全能感を裏返されたかのような感覚に、奇妙な既視感を覚えて、トリシューラはようやくその可能性に行き当たった。


 どこかから、目に見えない細い糸が現れて、全身を絡め取るかのような錯覚。

 感情では無く理性が恐怖を判断して、震えを噛み殺すために下唇を強く噛んだ。

 縋りたくない、縋られたいと願ったばかりの誰かの言葉を脳裏に思い浮かべてしまう。過去に、縋ってしまった。


『どうせだからぶっ飛ばして見返してやれ。というか俺が殴りたい』


『貴方は一人じゃありませんよ。私も、アキラも傍にいます』


 記憶だけが、震えを止めてくれる。

 それでも、敵地に囚われたトリシューラはどこまでも孤独だ。

 身動きがとれず、自由を全て制限された人の模造品。

 それは、人ではなく人形なのではないのか。


 その問いに答えは無く。

 その不安に終わりはない。

 彼女が囚われの身であるということすら誰も知らないまま、時間はただ残酷に積み重なっていく。


 第五階層の王国、ガロアンディアンには、現在女王がいない。

 空の玉座を狙う者たちは総攻撃の準備を進めつつあった。

 振り子の剣すら見せ札に過ぎない。

 闇の中で、三手を司る副長たちと、それを束ねる男が動き出そうとしていた。

 

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