4-9 女王と駄犬



 ちびシューラの警告がかろうじて間に合い、俺は飛び退って致命的な一撃を躱すことに成功した。

 バルは間に合わなかった。クレイを蹴り飛ばして部屋の隅に逃がした彼は、その隙に背後から首を斬り飛ばされてしまう。


「あらあ? これはこれは、どこかで見た顔だと思ったらお髭が燃えるおじさまじゃありませんの」


 暗がりの中に出現したのは、小柄な少女だった。

 ふんだんにフリルがあしらわれた丸襟のブラウスは、返り血で赤黒く染まっている。豊かな金髪は螺旋状に巻かれている。それらは触手のように蠢き、ドリルのように高速回転すると自らの頭部を穿孔していく。


「あががががが」


 幼くもあどけない表情が歪み、穴という穴から赤黒く汚穢に満ちた液体が溢れ出す。傘のように広がったパニエスカートの下から、この世のありとあらゆる生物を凝縮した混沌そのもののような異形の本体が姿を現した。


「あーあーあーあー♪」


 少女の上半身よりも遙かに巨大な異形の怪物。

 複合種コンプレックスの上位種たる狂怖種ホラー、その頂点にして全ての根源たる真の狂気と恐怖が具現していく。


(最悪! ホラーっていう類似を利用して、死んだはずの端末体を擬似的に復活させたんだ。ハザーリャの加護は死の記憶を再生することもできる――ロドウィは多分、過去に防衛戦に参加して『あれ』を見たことがあったんだ)


「あらあら? わたくし、どうしてこんな所にいるのかしら。このイェレイドは死んだはずですが」


 脳漿を零しながら可愛らしく小首を傾げる少女の顔から、二つの眼球がぽろりと落下する。空洞の眼窩から飛び出してくるのは、長大な視神経と繋がったナメクジのような何か。舌が無数に裂けると、中から唇が飛び出してゲラゲラ笑う。


 生理的嫌悪感をかきたてるようなおぞましい異形の少女。

 ちびシューラがもたらすのは、最悪の情報。


(第十六魔将、【歪な荘厳】イェレイド! まずいよアキラくん、あれは端末体でもエスフェイルより強い、形而下世界の頂点に立つ大魔将だよっ)


 評判だけなら俺も聞いた事がある。

 第六階層の掌握者にして最悪の毒婦。

 地獄の中心たるジャッフハリムにその悪名を轟かせる呪われた暴虐の化身。


 少女の頭蓋から這い出した巨大な黒蛇が鎌首をもたげた。這いずった後から漆黒のアルテミシアが生え、腐臭を放つ液体を垂れ流していく。黒蛇が喇叭を吹き鳴らすと腹部が破裂して無数の流星が解き放たれる。解放された炎と質量が天に散らばって星空を形作っていった。


 十九の魔将の中で最悪にして最強。

 『不在』そのものを具象化する幻想の超現実。

 未知の恐怖、形而上の無形を形而下の有形に落とし込む変換装置。

 イェレイド・ジャッフハリム。 


 これこそがロドウィの切り札。

 かつて死んだ魔将を甦らせるという必勝の策だったのだ。

 だがその代償は大きいのか、ロドウィは肩を上下させながら荒く息を吐き、かろうじてといった態で両腕を動かしている。


 人造ホラーを利用して、その上でロドウィ自身も絶えず集中して儀式を続けなければならないとすれば、ロドウィさえ叩けばどうにかなる可能性が高い。

 

(呪文系のネクロマンシーは、『代弁』や『演技』によって行われるの。あの大魔将はロドウィが人造ホラーを操って演じさせている人形劇みたいなものだよ)


 相手がどれだけ強敵でも、相手にしなければいいわけだ。

 方針を固めた時、大魔将イェレイドが首を真横にぐるぐると捻りながら喋り出した。頭部が独楽のようにスピンを開始する。


「まあどうでもいいですわね。皆殺し皆殺し、ズターク様のように皆殺し。鏖殺おうさつこそ大魔将の生き様ですわーもう死んでますけ、れ、どっ」  


 次々と叩き込まれるのはカマキリの刃だ。

 無数の斬撃を回避し、左腕で防御していく。

 凄まじい剛力と速度、そして異常な物量。


 大魔将が内包する混沌の中からありとあらゆる生物が姿を現す。象の鼻が振り回されて先端の岩石が叩きつけられた。たまらず回避するがその先で待っていたのは象牙の弾幕。左腕の刃が旋回して全て弾いていく。


 【賢刃】ヴィヴィ=イヴロスの真骨頂。

 この武装は相手の攻撃を学習して動作を最適化する上に、俺が意識しなくても全自動で機能してくれる。

 サイバーカラテ道場と連携する機能まで有した、人工知能搭載型義肢。


 刃の自動防御が圧倒的な手数を凌いでいくが、本体の突進までは防ぎきれない。

 血まみれの少女が見た目からは想像も出来ない腕力で掌打を放つ。

 右腕で防御するが、派手に吹き飛ばされて壁に激突。大量の乳房がクッションになって助かったが、衝撃で動けない。


 追撃してくるイェレイドに、燃える火の玉が激突。

 更に首のない修道騎士の身体が槍を振り回して突進を押し留める。

 俺を助けたのは、バル・ア・ムントだった。


「前にアインノーラに首をやられてから、すっかり取れやすくなっちまってよう。クセでも付いてんのかね。参ったぜ」


 胴体から切り離された頭部が真っ赤に燃え上がりながら平然と喋る。

 吸血鬼として新生したことで異名を改めた序列十三位の修道騎士【鬼火】は、分離した頭部を自在に動かし、胴体が槍を振り回すことで二方向からの同時攻撃を行うことができる。


 その間に俺はロドウィを攻撃しようと走る。

 目の前に、巨大な影が立ち塞がった。

 分裂し、増殖したイェレイドがにたりと笑う。


 天井から、床下から、壁から、ありとあらゆる場所から異形の少女が這い出して、俺とバルに一斉に襲いかかってきた。

 トリシューラたちが部屋に到着したのは、丁度その瞬間だった。


 凄まじい物量に押されて一瞬で満身創痍となった俺とバルを、修道騎士たちの一斉攻撃が救う。

 カマキリの刃が、象の鼻が、蝉型の大蛇が、筒状の鳥が、槍による刺突や爆破の呪術によって吹き飛ばされていった。


 さらにトリシューラが突撃小銃による掃射を行う。

 ばらまかれた銃弾が怪生物たちを次々と血の海に沈めていき、カルが弩から撃ち放った小型の手榴弾が炸裂して獅子の頭部を持った大蛸を吹き飛ばす。


 だが、大魔将はそれでもケタケタと笑いながら増殖を繰り返す。

 不死身――というよりも単純に生命力が桁違いなのだ。再生しながら自らの体内で交合と生殖を繰り返し、急速に成長した生命群が一つの生態系となって地下空間に溢れていく。


(最上位の生命賦活呪術、【楽園の抱擁レストロオセ】――ああもう、本当に面倒なんだからこの魔将!)


 ちびシューラの憤慨に全面的に同意する。

 孤立した俺とバルは奮戦を続けるが、敵があまりにも多すぎた。

 俺たちは更に分断される。俺はかろうじてトリシューラ側に逃れる事に成功したが、バルが奥の方に追い詰められてしまう。


 歪な少女の腹部から飛び出した巨大な触手がバルに絡みつく。

 胴体と頭部を同時に捕獲すると、触手から伸びた無数の棘が肌を突き刺して侵入していく。野太い絶叫が上がった。


「いつの間にか吸血鬼になっていましたのね?」「ただ潰しても死なないかしら?」「なら【生命吸収】で残らず吸い尽くしてさしあげましょう」「わたくしの生命の渦に取り込んでさしあげましょう」「永遠に生き続けられますわよ」


 泡立つ液体の中から無数に出現し続ける少女の顔が次々と言葉を投げかける。

 とぐろを巻く黒蛇と黒いハーブが蔦のように修道騎士に巻きついて、生理的嫌悪感を催す異音を発しながら粘液を垂らしていく。無理矢理開かされた口の中に汚穢に満ちた液体が注がれた。


 この世のものとは思えない絶叫。

 屈強な男が白目を剥くほどの苦痛。

 バルの舌が、一瞬にして黒ずんでしまっていた。

 吐瀉物を喉に詰まらせ、鼻から胃液と血を噴出させていく。


「あーら駄目ですわ」「苦いからって好き嫌いはいけません」「仕方の無い人」


 嘲笑しながら地獄の拷問を続行する大魔将イェレイドに、誰も有効なダメージを与えることができない。

 そんな中、カルは諦めていなかった。

 必死になって呪符を、呪石弾を、矢を、投槍を、次々と投げ放つ。


「親父から離れやがれ、畜生っ」


 しかし、圧倒的に火力が足りなかった。

 ロドウィに対する呪術狙撃は容易く防がれてしまう。状況を打開するには、大魔将が展開する混沌の壁を切り開いて直接ロドウィに一撃を叩き込むしかない。


 間の悪いことに空間制御義肢、十四番は整備中だった。

 高威力かつ高射程の最も使い勝手の良い義肢だが、損耗しやすく燃費と整備性が悪いという欠点がある。

 基本的に、高度な技術を用いている武装ほど高いコストが要求されるのだ。


 一か八か、火力特化の十番あたりに換装してフォノニックブラスターで生物群を焼き払いながら突っ込むか。

 決意を固めたその時だった。


「俺を解放しろ、僣主トリシューラ」


 クレイが、倒れた状態のまま要求した。

 刺客がトリシューラに近付いたことで、天井の暗闇から半透明の大剣がゆっくりと出現する。先程の話が聞いたとおりならば、クレイがトリシューラを殺害したとき、ガロアンディアンは滅ぶ。


 修道騎士の一人が槍をつきつけるが、トリシューラはそれを手で制した。

 内心の掴めない微笑みを浮かべて、クレイを見下ろす。


「貴方なら、混沌を切り裂いてロドウィまでの道を作り出せるのかな?」


「俺は剣だ」


 呪術師同士の、意味の圧縮されたやりとり。

 であっても、その提案に乗ることは狂気の沙汰だ。

 そもそもこの男は敵である。おそらくは拘束から逃れる為の取引としてこんな事を言い出したのだろうが――。


「あの男には借りがある」


 あ、そっちか。

 気絶する直前に運ばれたのを覚えていたのだろう。命の恩人であるという意識がこのような行動をとらせているらしい。クレイの瞳はあくまで愚直だった。

 

 トリシューラはかすかに微笑みを深めて、足先でクレイの細い顎を持ち上げる。

 一瞬だけ苛ついたが、どうしてかは不明。


「いいよ。ただし貴方には【誓約】をしてもらう。試験勉強で覚えといて良かったよ。いい実技の練習になるし。ちなみに記憶や認識を改竄したり言葉遊びで契約をすり抜けようとしても無駄。私の罰則は物理的な振る舞いを感知して発動する。たとえ過失や教唆された結果であっても、情状酌量は一切しないからそのつもりで」


「ふざけるな、貴様の思い通りになどなってやるものか」


「内容は簡単。この第五階層の『女王』に忠誠を誓うこと」


 怒気を露わにしていたクレイが沈黙する。

 愉悦に満ちた口調でトリシューラが言葉を重ねた。


「どうしたの? まさかできないのかな? できないはずがないよね。第五階層の『女王』が誰か、貴方は信じているものね? ふさわしくないものは『女王』には絶対にならない。だからふさわしいものだけが『女王』になる。簡単で当たり前の約束事――ねえ、まさかその事を信じられない?」


「貴様、どこまでこちらのことを――」


「全然わかんないよ? 貴方の参照先が古今東西のデータをさらってもさっぱり見つからないの。どうしてだろうね? ねえこの場で推測を言ってもいい?」


「――わかった、誓う。当然だ、その誓いならばとうに立てている!」


「はーい、契約成立ー♪」


 意味不明のやり取りの果てに、トリシューラの呪術が発動してクレイの全身を契約の文言が取り巻いていく。

 クレイは拘束の帯を解除されていく。当然銃口や槍の穂先が突きつけられたままだ。窮状にありながら、男は強くトリシューラを睨んだ。


「後悔するぞ」


「それは多分、貴方のほう。信仰が打ち砕かれ、這い蹲って屈辱に身を震わせる貴方の姿が目に浮かぶよ。改悛の後、貴方は私の靴底を舐めるの」


 何かひっかかるやり取りだな、と感じつつも、俺は突入の準備を始めた。

 下手な動きを見せれば即座に集中攻撃を受けるとはいえ、クレイはトリシューラを狙う気は無い様子だった。


 俺にへし折られた両手首をトリシューラが手際よく戻し、治癒符を使用して応急処置を行う。固定符が添え木となって両手を手刀の形にした。

 クレイが目を瞑り、優雅に手を伸ばしていく。

 細く長い指先が、闇をそっと切り裂いていった。


 負傷しているとは思えないほどの滑らかな動きに、思わずその場にいた誰もが目を奪われる。

 その圧倒的な存在感は、ロドウィのジェスチャーの意味すら切り裂いて大魔将の存在強度を減じさせるほど。


 男は戦場のただ中で踊っていた。

 重心を移動させ、軸足から全身が飛躍を果たし、個別の部位が分裂したかと思うような広がりを見せると、目を見張るような重力からの解放がなされる。


 それは劇剣。

 それは剣詩舞。

 剣を持たずして剣そのものを体現する身体芸術パフォーマンスアート

 

 複雑な工程を経た『振る舞いによる呪文』が発動し、おぞましい混沌の群れが不可視の斬撃によって片端から引き裂かれていく。

 蹂躙される肉塊の向こうにロドウィの巨体が見えた。

 俺の疾走開始と前後するように、トリシューラがカルに突撃小銃を手渡した。


「俺は、銃なんて――」


「そうだね。今までの貴方はボウガンまでが限界だった。けれど【マレブランケ】としてはそれじゃまだ足りないな。階梯を昇って、その覚悟の程を私に見せて――カルカブリーナ」


 逡巡は短かった。

 俺に追随するようにして走り出した彼は大魔将に向かって銃弾を掃射していく。

 【銃士】ではない者が銃を――それも高度な杖技術の産物たる自動小銃を使えば、その反動は命すら一瞬で奪いかねない。


 しかし銃撃は止むことなく、カルの叫びは雄々しく闇の中に響きながら圧倒的な大魔将の肉体を破壊していく。

 カルが囚われていたバルを救出したのを確認して、俺は闇の中を走り抜ける。


 ロドウィはもはや虫の息だった。

 気力のみで大魔将を制御して、その命に換えても同胞の仇をとろうとする姿。

 支配し、搾取する対象にはどこまでも残酷に振る舞い、身内に対しては人の良い老人として振る舞う。


 どこまでもありふれた地上らしい俗情。

 その在り方に、救われたこともあった。

 これは俺からの、せめてもの手向けだ。


「介錯だ――世話になったな、首領」


 左腕の【賢刃】が、俺に代わって恩人の殺害を実行する。

 閃く刃が蛙の巨体を引き裂いて、最適効率でその息の根を止めた。

 崩れ落ちる老人は、旋回する刃を見てふっと穏やかに目を細める。


「おお、アニス――私の娘よ、共に、あの海をまた――」


 術者が死亡したことにより、大魔将イェレイドもまた哄笑しながら消滅していく。後に残ったのは人造ホラーの遺骸だけだ。

 無数の端末を分散させて使役する最強の大魔将。いずれ、本体と戦うこともあるのだろうか。


 背後で重いものを取り落とす音がした。

 カルが銃の反動に耐えきれず、純粋な杖の産物を支えきれなくなったのだ。両腕が血まみれだが、この世界の住人が突撃小銃を使用してあの程度で済んでいることが既に傑出した才能の片鱗をうかがわせていた。


(うん、やっぱり見込んだとおり、彼は才能あるね。鍛えればそこそこの銃士になれる。まずは簡単な構造のものから慣れさせていこうかな)


 ちびシューラは部下が才能を開花させたことでご満悦な様子だった。

 んん――さっきから、何故かは分からないが奇妙な感じだ。何も問題はないはずなのに、どうしたというのだろうか。


 カルが瀕死のバルを支えながら治癒符で応急処置をする。吸血鬼の生命力が凄まじいとはいえ、まだ時刻は昼である。地下なので再生力は高まっているだろうが、大魔将の拷問を受けている以上、安心は出来ない。


 呪術医としてトリシューラが駆けつけ、その場で治療を開始する。

 迅速な救命措置によって壮年の修道騎士の首が繋がり、やがて息を吹き返した。

 カルは跪き、顔を俯けてただ礼を述べる。


(やったー、セスカっぽくゲーム的に言うと、部下の忠誠度上昇!)


 お前それ口にしたら色々台無しだからな。

 頼むからそのまま曖昧で意味深な微笑を保っててくれ。

 それが一番女王っぽいから。


(はーい)


 手を上げて元気に返事をするちびシューラは、とてもじゃないが激戦を繰り広げた直後とは思えないほど脳天気だった。

 と、俺は密やかな動きを察知して足を踏み出す。


 勝利後の隙を狙い、修道騎士たちの囲みを逃れていたクレイに向かって左腕を振るう。刃が手刀と激突し、硬質な音が響いた。

 鍔迫り合いながら、少しだけ顔を近づけて囁く。


「逃げるのか?」


「黙れ」


「襲ってこなかったのは、一瞬だけ認めかけたからだろう。あいつが、『女王』に相応しい、と」


 クレイの灰色の瞳が揺れる。

 誓約の内容は、『女王』に忠誠を誓うこと。

 彼がトリシューラを『女王』だと認めてしまえば、もう手出しはできない。

 

 クレイは、倒れたバルを、それを案ずるカルを、そして二人を助けるトリシューラを見て、小さく口の中で舌打ちする。

 それから憎悪を込めて、俺を見据えた。


「俺は――認めない。僣主は殺す、『女王』の敵は俺が一人残らず斬って捨てる。必ず――必ずだ。いずれ、貴様も斬る。勝負は預けるぞ、シナモリ・アキラ」


 クレイはそう言い捨てると、素早く飛び退って闇の中に消えた。

 俺はトリシューラの意向通り、あえて追撃せず、それを見送る。

 そうして、地下の戦いは終わりを告げたのだった。




 それから長い時間をかけて地下迷宮の破壊、各種施設の破棄を完了した俺たちは、ようやく第五階層に帰還した。

 夜間照明に照らされたガロアンディアンは、もうすっかり夜になっていた。


 負傷した者たちは一旦巡槍艦で預かることになり、俺たちは帰途についたのだが、その途中、トリシューラが俺に近付いてくると何やら意味深に笑いかけてくる。いや、彼女がそういう微笑みを浮かべるのはいつものことなのだが。


「ねえねえ、アキラくんちょっと機嫌悪いよね?」


「は? そうか?」


「うん。ちょっと怒ってるっていうか、嫌だなーって思ってるよ。セスカに遮断されるくらい大きな不快感じゃないけど、ストレス感じてる」


 そうだろうか。

 言われてみれば、奇妙な凝りが胸の中に残っているような。

 なんだろう、これは。


「それはねえ。嫉妬だよ」


「は?」


「私が別の人を足蹴にして、屈伏させようとしたからむっとしちゃったんだよね」


「何を馬鹿な」


「カルカブリーナを叱咤して、目的を達成させる力を与えて、服従させたからむーってふくれちゃったんだよね」


「とりあえず、その俺に似つかわしくない表現やめろ」


 というか、嫉妬?

 意味が分からない。

 それも足蹴とか服従とかがトリガーになって嫉妬するってどういうことだよ。

 何に対する嫉妬なんだ、それは。


「うんうん、アキラくんにもようやく従順なペットとしての自覚が出てきたみたいだね。調教の成果が出ているようでなにより」


「誤解を招くようなことを言うのはよせ」


「大丈夫だよ。帰ったらいっぱい踏んづけてあげるから」


「しなくていい」


「そう? 疲れてるだろうから、腰を踏んでマッサージしてあげようと思ったんだけど。私もペットと戯れて心を癒したいんだけどなー」


「――まあ、そういうことなら」


(口実って重要だよね)


 やめろ、俺が踏まれたがっているかのような事を言うのはやめろ。

 並んで歩くトリシューラが、じりじりと距離を縮めてくる。

 彼女はちょっとだけ前に出た。同じ高さにある頭が少しだけ前に傾いて、こちらを覗き込むような姿勢になる。


「本当に仕方無いなあ、アキラくんは。私は貴方のママじゃないんだよ? 本当は、何があっても一人でちゃんとできなきゃ駄目なんだよ? こんなに私に依存してて大丈夫?」


 ――返す言葉も無い。

 今日のことだって、俺の方が彼女を守らなければならないのに、結局は彼女に助けられていた。使い魔失格だ。


「しょうがないな。アキラくんは私がいないと生きていけない最低の駄目人間、ううん、人間以下、それどころか人間未満の動物だもんね。全く思考しないし下半身はいっつも発情期でだらしないしほんっとサイテー」


 トリシューラの緑色の瞳がきらきらと輝いた。変わらない微笑みを湛えた表情が、こんな時だけは得意げに華やいでいる。

 トリシューラさん、俺を罵倒するときすっごく活き活きとするよね。


「アキラくんのことをこんなに一生懸命面倒みるような人、私だけだからね? セスカが他の相手をかまってる間も私はアキラくんの相手してるし、セスカはアキラくんだけじゃないけど私はアキラくんだけだし」


 両手を後ろで組み、少女は数歩前を行く。赤く艶やかな髪が揺れた。

 馬の尻尾のように括られた髪の一房が、夜の中に踊る。

 その軽やかな動きに、目を奪われた。

 赤い軌跡を描きながら、トリシューラが振り返る。


「ずっと、離してあげないから」


 そして、宣言する。

 魔女のように。女王のように。獣のように。

 俺を咥えて離さない、獰猛な笑みを浮かべて。




 闇の中で、クレイは目を伏せて跪いていた。

 その前に立つのは一人の女性。

 暗がりに包まれてその容貌は判然としないが、イアテムやクレイと行動を共にしていた最後の一人であった。


「このような醜態を晒してしまい――申し訳ありません」


「いいんですよ」


 柔らかい言葉が、クレイを包み込む。

 その言葉こそなによりも耐えがたい責め苦であるかのように、端整な表情が歪んだ。赦しは、甘く優しく心に直接触れてくる。


「すべて赦します。だって、私は貴方のママですからね。何があっても、私がいますよ。全て委ねて、安心して微睡んで――そうして休んだら、また頑張って立ち上がればいいんです。貴方は本当は、とっても出来る子なんですから」


 どこまでも穏やかに、女性はクレイを赦し続ける。

 無条件の許容。

 それは同時に、どこまでも甘えを赦さない、無条件の信頼でもあった。


「私はいつでも貴方の味方です。ずっと後ろから応援していますよ――だから、いつか一人になってもクレイは大丈夫」


 それは確定した約束。

 子が巣立つ事を望む、当たり前の母としての愛情を、クレイは震える瞳を目蓋で隠し、静かに受け入れた。

 苦しみを、必死に押し隠しながら。


 そんな、クレイの懊悩を見下ろしながら。

 灰色の瞳が、暗い愉悦と情欲に濡れていく。

 魔女のように。女王のように。獣のように。

 嗜虐と加虐と赦しと愛に染め上げられた、穏やかな笑みを浮かべて。




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