4-4 ダモクレスの剣
「師範代、折り入ってお願いが」
トリシューラの配下にしてサイバーカラテユーザーの集団【マレブランケ】の一人、ファルことファルファレロが俺の所にやってきて頭を下げたのは、今日の稽古が終わった直後だった。
「新しい姿勢制御プログラムのテストか?」
「いえ、それはそれでまた今度頼みたいんですけど。別件でちょっと」
眼鏡の位置を直しながら口ごもるファル。
この少年は俺よりかなり年下で、確か十代半ばだったはずだ。
いや、前世の基準で言えば俺は『生後約九ヶ月』とされるのだが、まあ再構成型の転生で正確な年齢も何もないだろう。
俺がこの年頃の時って身近な相手に相談なんて高度な真似ができたっけかな――というか何故俺に尋ねるのだろう。
技術的な事ならある程度は答えられるが、マニュアル以上の何かは出てこないことくらい彼にだってわかっているはずだ。
その上であえて、というのなら、まあ必要なことなんだろう。
構わないと言えば構わないが、今日はこれから約束があったりする。
「どうしたもんかな。いや、これからマラコーダとメシ行く予定だったんだが」
端末で連絡すると、男性の肉体を持つ美女はすぐさまやってきた。
「あら、それならファルちゃんも一緒にどう? 相談って例のあれでしょ? 折角だから私も付き合うわよ」
「本当ですか。実は少し緊張していたので助かります」
どうやら先にマラコーダに相談していたらしい。
で、彼女がより相応しい相談相手として俺を推薦した、という流れか。
なんだろう。動作の組み立てで悩んでるとか?
とりあえず道着から着替えて行きつけの店に向かう。
俺とファルはどうということのないシンプルなシャツで、後から合流してきたマラコーダはユニセックスな装い。
ゆったりとしたカーディガンと長い脚にフィットしたデニム生地が上下のコントラストを生んでいる。アンバランスなようでしっかりと着こなしているのは、ドーラーヴィーラの専属モデルだけあると言うべきか。
第五階層中心部の繁華街も近頃ではかなり治安が良くなってきた。
警備ドローンが巡回し、【
しばらく前までの【夜警団】と言えば自警団気取りで騒動に介入してはかえって被害を拡大させるはた迷惑な集団だったが、トリシューラが人員の『総入れ替え』を行ってからは真っ当な治安維持組織として機能するようになった。
全員が第五階層の物質創造能力によって義肢を獲得した者たちであり、トリシューラの許可が下りた時のみ発砲が可能という安全装置付きの武力だ。
銃を悪用しようとすると義肢が爆発するので、皆よく言う事を聞いて仕事に専念している。そうでなくても一度発砲するとこの世界特有の銃に対する反動で義肢が破損するので滅多な使い方はできない。
とりあえず、ある程度の抑止力と雇用対策には繋がったらしい。ほとんどが元探索者なので腕に覚えはあるわけだし、それが銃を担いで立っていればそれなりの効果は見込めるということだ。
俺たち三人が向かったのは、最近ガロアンディアンに進出してきたクロウサー社系列の外食チェーン店だった。
比較的高めの価格帯だが、ペリグランティア製薬との技術提携によって開発された薬膳が身体機能を向上させると評判になっており、前々からマラコーダと機会があれば行ってみようかと話していたのだ。
「ヤバイ薬とかじゃないですよね」
「トリシューラによると、薬膳ってのはごく普通に食品として使われてる生薬を用いるらしいから、そういうものは出ないんじゃないのか」
クロウサー社は大手だし、そういう不祥事に繋がるような事はしないだろう。
「トリシューラ大姐が言うなら安心ですね」
信頼されてるなあ。
トリシューラの配下の中でも、【マレブランケ】のメンバーは特に忠誠心の高い奴らが多い。俺のように『足りないもの』を与えられた事をきっかけに、己のこれまでの立場と名前を捨て、ガロアンディアンに身を置くことを選択した者たち。
一番古株のマラコーダなんかは俺が正式にトリシューラの使い魔になる前から彼女の手足として動いていたらしいので、その意味では俺の先輩格に相当するはずなのだが、
「私たち【マレブランケ】は女王陛下と使い魔である貴方の爪となりあらゆる敵を討ち滅ぼすべく身を粉にして働く所存――どうかこき使って頂戴ね」
などと、俺の部下として振る舞っている。
トリシューラによると、末妹候補としての使い魔はあくまでも俺一人とのこと。
面映ゆいような、肩にのし掛かる重さが空恐ろしいような。
妙な感覚だ。
広い店内の中央には特設のステージがあり、そこでは毎日様々な演目が出されている。『文化』を発信することで呪力を発生させる、いわば人力発電のようなものらしい。小さなステージ、大方の人にとっては暇つぶしの見せ物という認識とはいえ、発表の機会に飢えている表現者には需要がある。
上手くすれば店とステージを管理しているクロウサー社の目にも留まり、更なる成功の可能性もある。多くの大企業がそうであるように、クロウサー社もアマチュアの表現者に対する支援を惜しまない。『呪力を生む金の卵』が見つかればそれまでの投資額は全て回収できるからだ。例えば歌姫Spearのように。
歌、演劇、お笑い、大道芸、手品、調理の実演まで様々な演目が行われるが、今日はどうやら舞踏のようだ。
薄布が翻る。ディティールの多い衣装を纏った動きは優美ながらも鋭く、ぴんと伸ばされた指先はまるで刃である。
録音だろうか、背後では語りに近い美しい歌声が響いている。
その内容が、俺の興味を惹き付けた。
【死人の森】に関する伝承を詠ったものだ。
偉大なる女王に仕えし六人の
【死人の森】よりも更に古い六つの王国から死後甦った偉大なる六王。
一人はドラトリアを興した瘴気の真祖。瀉血狂いの吸血鬼。
一人は断絶したガレニス・クロウサー。【空使い】を僭称した偽りの当主。
一人はカシュラム人の祖、カシュート王。権力を選定し終端を弑する者。
一人はイルディアンサの純血の王子。狂気が弾けて兎だけの未来は無くなった。
一人は単眼巨人の始祖。言葉と知性を動物に与え、奪う力を持つ亜竜の巨人。
一人は亡国ラフディの王。その美しい髪は見る者すべてを魅了した。
王たちは【死人の森の女王】の死せる従僕であり生ける花婿であり生まれ死んでいく息子たちであるという。
意味の掴めない不可解な伝承だが、それなりに有名な話だ。【死人の森】を調査するにあたって、こういった言い伝えくらいならば俺も調べている。
とはいえ、それが実を結んだことは無いのだが。
優雅に舞い踊るのは、一人の男性だった。
鋭く整ったどこか中性的な顔立ち。舞台用の化粧で濃く顔を彩っているが、眼光の強さまでは覆い隠せない。邪視めいた意志の強さを感じる。
目が、合った。
遠く離れているにも関わらず、その時何故か俺は斬り殺される、と錯覚した。
こちらを見据える眼差し、安定した重心から独楽のような身体の捻り、横薙ぎの手刀、ぎりぎりまで引き付けられた後急速に回転して元の位置に戻る頭部。見事なスピン。ごく自然な踊りの一動作。
「どうしたの?」
マラコーダの声で我に帰る。
なんでもない、と言って店の奥へと進む。
そうだ、なんということはない。
舞台で行われているのは、見事ではあるが通常の舞踏。
文化的行為は呪力を生み出すため、事故で呪力が暴発しないように何重にも安全装置が設置されている。こちらに危害が及ぶようなことは無い。
舞踏は終わり、次の演目が始まるようだった。
去り行く男の後頭部で、馬の尻尾のように束ねられた一房の長い黒髪が静かに揺れる。彼がこちらを見るような事は無い。ただの自意識過剰、偶然からくる錯覚に過ぎない。
どうしてだろう。
その男の灰色の瞳が、ひどく気になった。
「いらっしゃいませー!」
とにこやかに接客しているのはなんかどこに行ってもバイトしてるお馴染みの店員さん、ラズリ・ジャッフハリムである。本業は探索者とか請負人のはずだが、なんかフリーターが主になってないか。大丈夫なのかこの人。
「三名様ご案内します――こんばんは、意外と早くお会いできましたね、お客様」
「お世話になります。今日も素敵ですね。その制服姿も良く似合っている」
(キモイサイテー死ねばいいのに)
ささやかな挨拶だというのにちびシューラの罵倒は苛烈になるばかりだ。
おまけにバイト上がりの時間を聞こうとしただけだというのに左腕をジャックされて自分で自分を殴ることになってしまった。おい変な目で見られただろ。
(うるさい味無しドッグフード喰わせるぞ)
いや、夜遅くに帰宅するのは何かと物騒だから送って差し上げようと善意を働かせただけであってだな。
(この辺そんな治安悪くないし相手は夜の民だしこないだ実力見たばっかだしそもそも一番危ないのはアキラくんっ!)
がーっと捲し立てられた。頭がガンガンする。
ちびシューラは腰に手を当てて頬を膨らませた。
(全くもう、心配だよ。一週間後、トリシューラが月に行ったらアキラくん好き勝手しそう。まあちびシューラは残すけどさ)
信用が無い。当たり前か。
いや自覚はあるんだが、どうにも止められないというか。
馬鹿をやりつつ、四人がけのテーブルに到着。ファルの対面にマラコーダと二人で座ると、何やら意味深なやり取りが。
「流石ですね」
「ね? だからアキラちゃんが適任だって言ったでしょ?」
何の話だろう。
とりあえずそれぞれ物珍しいメニューを頼み、食事を摂る。
干物とか乾燥した果実とかが混ざった独特な料理だったが、食べてみると意外にも美味だった。スパイスが効いているのだが、そのバリエーションが非常に豊かで全く飽きない。
歓談しながら夕食を済ませ、デザートを待つ間、ファルの相談事とやらを聞くことになった。
――が、その内容を耳にした俺は、多分苦虫を噛み潰したような表情になったと思う。
「実は僕、そのー、気になっている人がいるんです」
眼鏡を弄る少年の告白に、間抜けな答えしか返せない。
いや、だって。
「はあ」
「いわゆる恋の悩みよ、恋の悩み!」
マラコーダが何やら興奮したように要約する。
いや、それはわかるけど。
なんで俺にそれを相談するんだ。
「実はですね。その人が、実は師範代も良くご存じの――」
まさかトリシューラとかコルセスカとか口にしないだろうな。
杞憂だった。
「公社のレオさんいるじゃないですか。その秘書の、セージさんです」
思わず瞬きしてしまった。
ええと、誰だっけ。
ネームタグを検索してようやく思い出した。そういやそんなのいたな。
かつて敵対した公社の幹部、四姉妹の次女。【水使い】セージ。公社が誇る一級言語魔術師。賢者とも呼ばれる四大系統全てに通じた高位呪術師。トリシューラとアストラル空間とやらで何度か矛を交え、最終的にはいつの間にかレオの仲間に収まっていた少女のことだ。
現在は公社のトップであるレオの部下として精力的に働いているらしい。
というかロドウィを除く他の幹部がいなくなった為、公社の実務面を回しているのはそのセージという呪術師だとか。
「レオならともかく、俺はその相手と接点無いぞ? ていうか、あれってレオに惚れてるんじゃないのか」
「そうなんですよ、そこなんです!」
何故かテーブルに身を乗り出して勢い込むファル。
落ち着け。デザートを持ってきた店員さんが戸惑ってる。
食後のお茶と冷たいプディングを口にして少し落ち着いたのか、ファルは眼鏡の位置を直しつつ言葉を続けた。
「はっきり言って、セージさんは恋をしています。僕にはわかるんです。彼女がレオさんを見つめる姿はまさに切ない恋情に身を焦がす悩める乙女――同じような狂おしい病に苛まれている身だからこそ、それを悟ってしまう、そしてどうしようもなく共感してしまう! けれど、ああ、彼女の瞳が僕を捉えてくれることは絶対にありえないんです! なんて苦しみだろう!」
「結論出てると思うんだが、帰っていいか」
「落ち着きなさいよ、これはまだ前振りよ」
長いな前振り。そして暑苦しい。
要するに不毛な片思いというやつだろう。
難儀なことである――少々共感しなくもないが、それはともかく。
「で、まさかレオから略奪するとかそういう話か。なら俺は関われないとしか言えないんだが」
「いいえ。師範代に教えていただきたいのは、ずばり不義の恋についてです」
「不義の恋」
オウム返しに口にしてみたが、何を言っているんだこいつ。
「いわゆる不倫よね、不倫」
「それはわかるけど」
「僕は不毛だと分かっていてもこの恋を諦めきれない。そこで、師範代のことを思い出しました。師範代はその道、いや道ならぬ道の達人じゃないですか。なので是非、ご指導いただけないかなと」
「いやいやいや待て待て待て」
何? 道ならぬ道? 達人?
不義の恋だの不倫だの、一体どうやったら俺と結びつくというのだ。
意味が分からない。
そこで店員さんが俺の分のデザートを持ってきた。にこやかにお礼を言って、今度食事でもどうですかと誘うが軽くあしらわれる。端末にコルセスカからメールが来たので周りに一言断りを入れてから即返信。
(死ねよ)
ちびシューラの冷ややかな一言。
あれ?
「やっぱり凄い――トリシューラ大姐というものがありながら、婚約者持ちの四英雄と使い魔契約を結び、それだけでは飽きたらず評判の美人アルバイターにまでちょっかいをかける師範代には人倫なんてゴミ同然なんですね!」
「こういうの、日本語だと鬼畜外道って言うのね。女王陛下を守護する悪魔としてはいい感じなんじゃないかしら。サイテーだけど」
喧嘩売ってるのかこいつら。
婚約者の件は知らなかったし、あの時はトリシューラに見捨てられたと思ってたし、店員さんは完全に別枠だというのに、なんか話が大きくなってないか。
「というか、ガロアンディアンの法と道徳にその辺の規定は無かったはずだが? 未設定なだけかもしれないが、今更既存の『倫理』も何も無いだろう」
「えっと、まあそれはそうですが」
少し真面目に言うと、ファルは戸惑ったような顔になる。
ていうかアドバイスなんて出てこねえよ。話聞かせろとか言われてもドッグフードとかそんなんだぞ。
「ファルファレロ、お前はその名前をトリシューラに下賜された時、これまでに築き上げてきた人生の全てを捨てたはずだ。なら、その決意にいちいち『不義』だの『不倫』だのと余計な言葉をくっつける必要は無い。欲するがままに動け。俺に相談する意味などない」
いやまあ、相手次第なんだけどな?
こっちは適当に突き放しただけなのだが、何故かファルは目を輝かせた。
勢い良く立ち上がり、大きな声で、
「僕が間違ってました! これから告白してきます!」
と叫ぶ。やめろ早まるな。
止める間もなく、ファルは走り出していく。
「あらら。行っちゃった」
「でもちゃんと自分の分の勘定は払っていったな」
仕方無い。このまま放って置いて盛大に討ち死にしてそのまま自殺とかされても寝覚めが悪いし俺がけしかけたようなものなので幾らか責任がある。
デザートを素早くかき込んで、立ち上がる。
「多分、まだ遠くには行ってないでしょ。行き先は本社ビルだと思うし」
「ああ、悪いな付き合わせて」
「私が巻き込んだようなものだしね。というか流石に無茶よ。まずはデートに誘うくらいに軌道修正させなきゃ」
マラコーダはメールを送ったようだが、興奮した少年の視界には届かないようだった。仕方無く後を追いかける。
ていうか、別にまだレオと付き合ってるわけじゃないなら不義でもなんでもないような気がする。
あの少年は話を妙に大げさにする癖でもあるのだろうか。
まあ思春期なんてそんなものかもしれない。
暗い闇の中で、三つの光点が線を結ぶ。
光る三角形が、冷たく固い床の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせた。
三つの頂点に、静かに立ち尽くす三つの人影がある。
「どうだった」
暗い部屋の右手側に立つ人影が問いを放つ。
深く、厳かな声。雄々しさというものを巌のように押し固めたような低さ。
それに対して、中央に立つ人影が答えを返した。
「殺気には気付いたようだ――しかし、あれが言われる程の男とは思えんな。本当にあれが【転生者殺し】に勝利した【女王の猟犬】なのか」
澄みきった男性の声だったが、吐き出される大気の震えは刃のように鋭い。
言葉が切断力を持つのなら、聞いた者を全て斬り殺しかねない強烈な指向性を持った声の持ち主だった。
「間違いありませんよ。私の権能が戻った時、確かに彼の痕跡を感じましたもの。『逃亡を許さない』という再会の約束を、ささやかですが交わしていたようですね――あまり効果的には使えていなかったのかしら?」
左側から響くのは女性の声。
柔らかく甘く、けれど聞く者の心胆を寒からしめる呪いのような音。
三角形を取り囲む三人は、三者三様に言葉を紡ぐ。
「ロドウィが三ヶ月前の騒乱で動けなかったのはその権能の力が働いていたからであろう。恐らく、適性の問題だと思われるが」
「きちんと罰則を想起しないからですね。どちらにせよ、みんないい子にしていれば何の役にも立たない権能ですけれど」
左右の男女が言葉を交わす。
中央の男性はやや苛立たしそうに、
「それで、俺たち三人が呼び集められたのは一体何のためだ。襲撃はきぐるみの魔女が不在の間ではなかったのか」
と誰に向かってなのか問いかける。
すると、右側の男が答えた。
「それは振り子が決めることだ」
「まさか、『上』からの要請なのか? 一体何を考えている。まさか市街地を戦場にするつもりか」
「クレイ」
女性の、柔らかく、しかし強い声。
クレイと呼ばれた中央の男性は口を噤んだ。
その女性の声には逆らえないとでも言うように。
「静かに――現れます」
女性の声に導かれるように、二人の男が天を見上げた。
室内の天蓋は暗闇に包まれている。
その彼方から、途轍もなく巨大な存在が降りてこようとしていた。
「遂に出るのか――【ダモクレスの剣】が」
クレイの呟きと共に、刃が振り下ろされる。
それは長大な直剣だった。勢い良く落下して三人を圧殺するかと思われたが、それは上空で静止した。
柄尻から細い糸が伸び、闇の彼方に繋がっているのだった。
「あれが僣主トリシューラを殺す刃。真なる正統を取り戻す為の力」
「そして、僣主殺しを選定する指先」
クレイが、そして女性が呟くと共に、巨大な剣先がゆっくりと揺れ動く。
莫大な呪力が鮮やかな黄緑の稲妻となって剣の周囲を走る。
暗闇そのものが鳴動するかのような恐るべき呪いの力。
剣の先端が、三人の頭上を順番に通り過ぎていく。
誰を選ぶべきか、慎重に悩むように。
――この世界では、剣は槍に比して一般的な武器ではない。
槍こそが戦士の武器であり神官の祭具。
槍神を象徴する、世界の根本言理とされるためである。
秩序の象徴たる槍に対する秩序を切り分ける剣。
槍が外敵に向けられるものならば、剣は内敵に向けられるもの。
『正しい秩序』を維持し、時に『間違った秩序』を処断する。
それはたとえば、王を僭称する偽りの君主のような。
邪悪な暗君が築き上げた空虚な王国のような。
世界の歪みを切り裂くための武器、それが剣だ。
圧倒的な呪術的質量を支えるのは、かの【風の王】ハルバンデフが三本足にしていたという名馬の尾、その毛を鍛えたものである。
時に呪術師たちは異界から『形式』を引用することで呪術儀式の効力を高める。巨大な剣の名は【ダモクレスの剣】。『彼ら』に与えられた切り札。
それこそは呪術文明が生み出した猛毒。
世界を破滅に誘う、大量破壊兵器である。
揺れる振り子の切っ先が、右手に立つ男を示した。
重く巨大な肉体が、静かに動き出す。
「――俺か。では、参ろう」
「【魔女殺し】の異名が張り子でないことを祈る」
巌のような背中に投げつけられた、クレイの冷ややかな――ある種の憎悪に満ちた声。それを無視して、男は静かにその場から姿を消す。
しばらくして、残る二人もその場から立ち去り、いつの間にか巨大な剣も見えなくなっていた。
三角形の輝きが薄れて、その場所は闇に包まれた。
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