0-6 青空



 限界まで高く、遙かな空へと真っ直ぐに。

 リーナとマリーは、どこまでも飛んでいく。

 見渡す限りの蒼穹と千切れていく白い雲。青はゆっくりと濃く暗い色に変化していき、太陽の周囲には無数の星々が散りばめられている。

 朝と夜が混在した黒百合宮の上空で、二人は周囲に漂う雲を千切っては呪術で形を変えて、雲の筆談を行う。


『空がどうして青いかって? それはあれだよ、飛んだ時に気持ちいいからだよ』


『なんで青いと気持ちいいの? それとも気持ちいいのが青なの?』


『えっなにそれ意味分かんない。どういう質問? テツガクとかさっぱりですよ。ていうか私に質問とかすんなや! 質問するのは頭悪い方である私! 私ですよ優等生のマリーさん!』


 突発的な会話は、不意打ちのような遭遇から始まった。

 時間は少しだけ遡る。

 その日、リーナ・ゾラ・クロウサーは裏庭にいた。

 いや、その場所を裏庭だと断定してしまって良いものかどうかは微妙な所で、正確には裏庭と黒百合宮の敷地の外の境界線上にいた。

 生垣の上でふよふよと浮遊しながら、リーナはぼんやりと空を眺めていたのだ。

 そんなところで何をしていたのかと言えば、授業を放棄して現実逃避しているのであった。

 課題を忘れたリーナは、怒られるのが嫌で授業に行かないことがよくある。

 どうせ後で余計に怒られるに決まっているのだが、先生によってはそのままリーナの存在を忘れてくれることもたまにある。

 彼女は、そのわずかな可能性に賭けていた。

 今回忘れたのは、直接の師である星見の塔十八位、【雲上姫】ミブレルから出されたレポート課題である。忘れたというかめんどくさくなって諦めた。

 指導を直接担当している『妹分』が来ないことに気付かないなどということはあり得ないようにも思えるが、ミブレルはリーナの師だけあって割といいかげんな性格をしている。

 果たしてこの博打、竜が出るか猫が出るか――。


「なーんて、まあ多分やばいよね。逃げたい」


 このまま黒百合宮の外に出てしまおうか。

 そんな考えが頭を過ぎるが、もちろん実行はしない。

 許可無く外に出るといつの間にか寝室の上で目を覚ますことになって怖いのでもうやらないと決めている。

 何が怖いって、気絶して寝室に運び込まれたとかではなくて、抜け出そうとしたこと自体が夢の中の出来事で、目が醒めたら時間が巻き戻っていることが怖い。

 これを利用すれば滅茶苦茶な悪戯したあと全部無かったことにできるんじゃね?! と思いついて実行したら、悪夢の中で大量のメートリアンに追い回されたので二度とやらないと誓った。ごめんね、もう鞄の中に蛙を入れたりしないよ。


「ひまー」


 ぼんやりと呟きながら、リーナは何も考えていない。

 青空とも夜空ともつかぬ真上を見上げながら、雲の動きを目で追いかけているだけだ。体勢を変えて、宙に寝転がる。

 仰向けのまま、暗くも明るくもない空をじっと見る。

 そういえば。

 朝は太陽と青空、夜は月と星と夜空と相場が決まっているけれど。

 雲だけは、明るさや色合いは違えど同じように空に漂っている。

 マイペースに、ふわふわと。


「はあ、雲になりたい」


 フォービットデーモンのナンバーセブン、シアンとしての姿は雲そのものなのに、リーナの身体はふわふわ度が足りない。

 リーナは欠乏していた。


「自由だ。ここには自由が足りない」


 ふんす、と意味も無く鼻息を鳴らしてリーナは呟く。


「そりゃあタマちゃん先生がくれるお菓子は美味しいし、ニアちゃんが取り寄せてくれるお茶は素敵だよ? みんなはそれなりに楽しくやっているみたいだし、文句を言うのも空気読めてないけどさー。こう、刺激欲しいよね、世界を劇的に変化させるような、なんか凄いの!」


 ここまでの独り言を、リーナは特に意味も無く、深く考えること無く口にしている。明日になったら忘れていることだろう。

 そんないい加減な呟きを、真面目に受け止めてしまった者がいた。

 寝転んだリーナの目の前に、四角い帳面がぬっと突き出される。


『そんなにつまんない?』


「ううん? ただ楽しくてもさ、ずっと同じような日々だと飽きるって事。彩石の儀もだけどさー、最終的に勝つデーモンがほとんど固定されてきてんじゃん? なんか閉塞感あるなーって」


 リーナは深く考えずに喋っている。

 だからこそ、その内心が自然に表に出てきているのだった。

 フォービットデーモンとなってアストラル界で戦うようになってから飛ぶように時間が過ぎていった。一巡節(半年)を越してから月は四度巡っている。

 もうすぐ、冬季が終わる。

 外界の季節から切り離された黒百合宮とはいえど、どことなく冬の気配が感じられるような気がした。

 終わり行く冬。そして一層厳しくなる寒さ。

 物寂しさを感じるのは、彩石の儀があと二月で終わろうとしているからか。


「まー最下位の僻みなんて上位の方々にはきっとどうでもいいんだろうけどね。昨夜なんか開幕早々にレッドに燃やされてさー」


『でも、飛んでるときのシアンはとっても伸び伸びとしてるよ。ヴァーミリオンとかフルブライトも凄い飛び方するけど、あんなに楽しそうに飛んでるのはシアンだけだと思う』


「そうかなー。アズールの方が綺麗に飛んでると思うけど――ん?」


 間抜けにもリーナはそこでようやく自分が誰かと会話している事に気がついた。

 自分は音声で、相手は筆談でという性質の違うものだったが、あまりにも自然になされたやり取りだったので違和感が無かったのである。

 仰向けのまま、首を仰け反らせる。

 生垣の上に、小さな黒衣がちょこんと乗っていた。

 マリー・スー。小さな夜の民。


「うわびっくりした。え、まさか独り言全部聞かれてた?」


『ばっちり』


「うわああ恥ずかしい。ていうか居るなら言ってよ――いや、だから話しかけてくれたのか」


 そもそも、とリーナは思い直す。

 この裏庭は元々マリーの場所だ。

 誰が決めたわけでもないし、最近はずっとみんなの憩いの場となっているけれど――この溢れる青の色彩を見れば、相応しいのはアズールしかいないと誰もが納得するだろう。

 同じ青系統であっても、明藍シアンの自分は少しばかり明るすぎる。

 そう、少しの差。

 眷族種としての位階序列は共に最上位、与えられた色号も青系統、アストラル界を飛行する能力に秀でているのも同じ。

 けれど、向こうは成績最上位の優等生でこちらは成績最下位の劣等生。


「うん、まあ怠けてる時点で文句は言えないわけですが」


 マリーは不思議そうに首を傾げた。

 起き上がって、小動物めいたその頭をぽんぽんと柔らかく叩く。


「頑張る天才はすごいねって話。マリーに限らず、みんなもだけど」


 黒百合の子供たちは、その性質は違えど才能に溢れた生徒たちだ。

 姉であるメートリアンを除けば皆が十一歳から十四歳までの少女たち。

 そのメートリアンも、黒百合宮に来てからは十三歳の時に止まってしまった時間がもう一度動き出したかのように少しずつ前向きになっている。

 姉の精神年齢はどこか歪だとリーナは思っている。二十二歳という実年齢相応に大人びた所もあるが、やはり肉体の老化が止まってしまった彼女は、上手に歳をとることができていなかったのではないか。

 それが、ここ最近は『年相応』の――十三歳の少女のように振る舞っている。

 その事を踏まえると、十五歳のリーナは最年長であるとも言えた。

 余り意識はしないようにしてきたが――最年長で最劣等生というのは、中々居心地が悪い。

 居場所が無いからこそ落ち着きが無いのか。

 それとも居心地の悪さを忘れる為にふわふわと漂っているのか。

 いくら逃げても、この垣根の外に逃げ場は無い。

 かといって内側もなんだか居心地が悪い。

 そんな理由で、リーナは生垣の上でふわふわ浮遊しているのかもしれなかった。

 と、マリーが何やら帳面に書き込んでいる。

 そういえばマリーには授業は無いのだろうか。個人によって組まれている時間割は異なるので、真面目なマリーが授業を放棄しているとは思えないのだが。


「この時間って、ディスペータお姉様の授業じゃなかった? ニアちゃんとリールエルバと一緒に」


 質問に、マリーは書き終えた帳面を一枚剥がして、次の一枚に更にさらさらと文字を書いていく。

 余計な手間をとらせてしまったなと申し訳無く思っていると、マリーが帳面を示した。


『逃げてきた。呪術生命のお勉強って言って、引っ張ったりつついたり変な薬をかけられたりするの。今まではお菓子くれるから我慢してたけど、もう騙されない』


 それは大変だなあ、と同情しながらも、これで優等生のマリーも授業放棄組の仲間入りかと思うとちょっとだけ愉快だった。

 実はいつも黙々と読書をしているマリーに対して少しだけ苦手意識があったのだが、こんな些細な事でも親近感は生まれてしまう。

 それからマリーは最初に書いた紙片を示す。先に表現した言葉が後からやってくるというのは音声でのやり取りではあり得ない現象だなと思った。


『ここで何してるの?』


 質問内容に、軽く笑ってしまった。


「逃げてきた。ミブレル先生の課題やってこなかったから、怒られるの怖くてさー。逃げたから多分もっと怒られるんだけど、先の事考えたくねーです。あーもうどっか逃げたいけど外にも内にも逃げ場無いしやんなるね」


 マリーはリーナが自分と同じような逃亡者だということに共感を覚えてくれただろうか――いや、その理由も不真面目なリーナとは随分違う。きっと呆れられただろう、と思ったのだが。


『じゃあ上か下に逃げてみるとか』


 意外にもマリーは生真面目に逃亡先を提案してきた。

 それにしても、内外が駄目なら上下とは。理屈ではあるのだが。


「下ってか影の中に行けるのはマリーだけだよ――ああでも、上か。そういや、ひたすら飛び上がっていったらどうなるか、試した事無かったなあ」


 よし、いっちょやってみるか。

 できるかできないかではない、考えるより先に行動して、無理そうだったら諦めればいいのだ。

 箒は自室にあるが、取りに戻るのも面倒だ。

 とりあえず自力でどこまで飛翔できるかを試して見よう。

 そう思っていると、服の裾をくいと引っ張られる。


『手伝うよ?』


 マリーの黒いフードから唯一見える瞳――らしき二つの光点が強く輝いている。

 これは多分、好奇心とかの輝きだ。


「うーん、でもマリーって飛行とかの術って使えたっけ?」


『今は夜でもあるから、頑張れば飛べる。リーナの飛翔術の効果範囲内にいればすぐに落ちないと思う』


「あー、そっか。二人で呪力共有すればもっと高く飛べるかもだ」


 こくこくと頷くマリーの提案を受け入れる。

 早速二人は成功するかどうかもわからない逃避行を決行することにした。

 といっても、そこまで本気ではない。

 ちょっとしたお遊び気分である。

 マリーは黒衣を膨らませて小さな有翼の牡鹿に変身した。

 まだ幼いからか、枝角の分岐は三本までだ。

 深い青の毛並みと翼を意味も無く触り、リーナは溜息を吐いた。


「ああーめっちゃ和む-。ねえねえ乗っかっていい?」


 訊ねると、幼児が嫌々をするように首を振られてしまった。

 仕方無い。乗っかるのはまたいずれ頼むとして、今は並んで飛び上がるとしよう。寄り添って、飛翔の呪文を唱える。

 リーナ・ゾラ・クロウサーは呪文によって空を飛ぶ。

 『空』という言葉を呪文によって掌握し、自在に飛翔するのがゾラの血族。

 空の民であるため邪視の適性もあり、重力を操作する邪視と併用することでリーナは飛行することができる。

 リーナの邪視は耳内部で発動する。

 三半規管が横方向の回転を感知するのに対して、耳石器じせききは直線方向――つまりは重力方向の動きを感知する。

 昇降機に乗った時のような感覚を意識的に錯覚して、リーナは飛翔した。

 隣で、マリーが後ろ肢で影を蹴ったのがわかる。

 リーナはすかさずその背に移動して、羽ばたきの邪魔にならない位置に移動。飛翔術の効果範囲に二人とも収まる距離を保ったまま空高く飛び上がっていく。

 風を切って舞い上がっていく最中、リーナは気付いた。

 すぐ近くにいるマリーから送られてくる呪力は、その小さな体躯と反比例するかのように頼りがいのある大きなものだ。

 リーナはまるで引っ張り上げられているかのようだと感じた。


「すごい、いつもより速く飛べてる!」


『私も、いつもより身体が軽いよ!』


 マリーが雲を文字に変化させるという器用な事をやってのけた。空を飛ぶのが得意なリーナだったけれど、そんなやり方は完全に想定外だった。

 負けていられないと自分でも実行する。


『当然でしょ、なんたって空使いの飛翔術だもの! この青空でなら、私は自由だー! 私を叱れるものなら叱ってみろー! 課題が何だ! 将来が何だ! そんなもん知るかー! 一生働かないでふわふわしてやるー!!』


 雲が巨大な文字の形に変化して、更には実の姉への悪口や、師としての『お姉様』への悪口を空に書き連ねていく。


『そんなにはっきり書いて大丈夫?』


『ふふーん、今の私は誰にも止められないよ!』


 青い牡鹿が羽をぱたぱたとはためかせながら心配そうに雲の文字を表示するが、リーナはお構いなしに空に文字を書き続ける。

 それにも飽きて、二人はとりとめのない会話をしながら飛翔することにした。


『空が青くて綺麗だねー。いやあ、やっぱり青い空は最高! 私ら同じ青色仲間だし、またこうやって空飛ぼうね! 超楽しい!』


『うん。私も、リーナと飛ぶのとっても楽しい。けど、そっか、青空か』


『どしたの?』


 何か、もの言いたげな筆致だった。あやふやな文字が微かに揺らめいて雲散霧消していく。


『うん――あのね、空って何で青いのかな』


 その問いで、最初の会話に戻る。

 リーナは深く考えずに答えた。


『空がどうして青いかって? それはあれだよ、飛んだ時に気持ちいいからだよ』


 マリーは首を傾げて、


『なんで青いと気持ちいいの? それとも気持ちいいのが青なの?』


 などと更に問い返してくる。

 リーナはそんな返しは全く想定していなかった。ゆえに混乱してしまい、


『えっなにそれ意味分かんない。どういう質問? テツガクとかさっぱりですよ。ていうか私に質問とかすんなや! 質問するのは頭悪い方である私! 私ですよ優等生のマリーさん!』


 などと雲をもこもこと変化させてその後ろに顔を隠してしまった。

 というか、突然どうしたのだろう、この子は。

 普段から本を読んで難しいことばっかり考えてると、こういう当たり前のことに疑問を抱いたりするようになるのかしら。

 マリーはつぶらな瞳をそっと閉じて、枝角にまとわりつかせるようにして文字を変化させていく。


『あのね――光の散乱とか、そういう杖の説明は勉強したからわかるの。異世界や死者といった青が象徴する事柄に関しての呪文とか邪視の説明も知ってる。でも、なんて言うのかな。それが本当に青なんだっていう実感が無いの』


 意味不明だ、と思った。

 リーナはマリーが何に悩んでいるのかさっぱりわからない。そもそも、そんなことで悩む人が存在するということ自体がリーナにとっては驚くべきことだった。


 そんな些細な事、どうでもいいではないか。

 けれど、リーナにとっては些細な、どうでもいいことでも、マリーにとっては切実な問題らしい。


『最初の頃は色がわからなかった。ダーシェンカお姉様は私に色無しマリーって渾名を付けた。その意味すらわからなかったけど、ジルに呪文を教えてもらって、みんなと仲良くなっていく内に、だんだん私は色の区別が付くようになっていった』


 そう言えば、そんな渾名が付いていたこともあったっけ。

 てっきり、澄明アズールの青色が澄み渡り過ぎて透明にも見えるという意味だとばかり思っていた。

 彩石の儀を繰り返す内に、マリーは全ての相手を同じように蹴散らす絶対者ではなくなっていった。相変わらず圧倒的に強かったものの、ヴァーミリオンやパープル、フルブライトには苦戦もするし、ブラックに出し抜かれたりする場面も多い。

 フォービットデーモンの個性は色々だ。その多様さを実感することで、マリーは何を失い、何を得たのだろう。


『今の私は、アズールとシアンの違いがわかる。ブルーとの違いも。もちろん他の色との違いもちゃんと理解できてる。でも、私が感じている色って、本当に他の人が感じているものと一緒なのかな? 私って、一人だけおかしいんじゃないかな』


 さあ、どうなんだろうねえ。

 と文字を作りかけてやめる。あまりに投げやりすぎる。

 実際もの凄く投げやりな気分だったし、リーナにとっては実感のまるで湧かない話だった。この子は不思議な事を考えるなあ、という感じである。


『ま、どうでもいいんじゃない? 違ったっていいじゃない。周りから浮いてたってどうにか生きていけるって。私、常時浮いてるけどなんとかやっていけてるし』


 説得力があるのだか無いのだかわからないような発言だった。

 けれど、脳天気な言葉はマリーの心を少しだけ穏やかにさせたようだ。


『そうかもね。ありがとう、リーナ。あのね、実はこの前ダーシェンカお姉様とお話しする機会があったの。それで、もう色が分かるようになって、みんなの中で浮かなくなったのなら、マリー・スーって名前はいらないわねって言われて』


『そうなの? じゃあ魔女名変えるんだ。あ、ひょっとして優勝したら万色の号と一緒に力のある名前が授与されるのかな。マリーはハルベルト狙いでしょ? そしたら両方名乗るのかな。それともハルベルトだけ?』


 気安く返すリーナだが、マリーは心配そうに文字を揺らして、


『でも、万色に選ばれなかったら? 結果はまだわからないし、パープルとかに追い越されたら、私、名前を無くしちゃうよ?』


『そしたら元々の名前使えばいいんじゃないの? 私なんかは魔女名と名前が一緒だけどさ』


 生まれながらの魔女――リーナやヴァージリア、というか黒百合の子供たちの大半は本名が魔女としての名前と等号で結ばれている。

 マリーの飛翔が停止する。

 リーナもそれにつられて緩やかに制動をかける。そろそろ限界も近付いていたところだったので、丁度いい小休止だった。

 滞空しながら、マリーが文字を呟く。


『私、名前無くしちゃったの』


『はい?』


『声と一緒に、無くしちゃった。ダーシェンカお姉様は、きっとすぐ近くにあるから、お友達と一緒に探してごらんなさいって。でも、最初の頃はお友達なんていなかったし、どうしたらいいかわからなくて』


『そっかー。名前無くしちゃったのかー』


 名前とか声って落とすようなものだっけ? と訝しみつつも、リーナは深く考えないことにした。きっと何かしら事情があるのだろう。

 そして、最初の頃は友達がいなかったから探せなかったとマリーは言った。

 それならば、今は違うと言うことだ。


『いよっし、なら私にいい考えがある』


『どんな考え?』


『単純明快! 新しく名前をつければいいのだ!』


『おおー』


 感嘆符をふわふわと浮かばせて、マリーは尊敬の眼差しでリーナを見つめた。


『それで? それでどんな名前を付けるの?』


『うん、こういうのはね、捻らない方がいいんだよ』


 リーナは胸を張って自信満々に答えた。

 色無しマリーでも、澄明アズールという色号のデーモンでも。

 名前という記号が示すものは変わらないのだと証明するように。


『色号をいじって、アズーリアってのはどうよ! アズールのアズーリア! おお、なんかいい感じじゃない?』


 沈黙。

 始めから無言のやり取りだったが、何故かその間の無音ぶりはリーナの心に優しくなかった。

 あれー? と思い始めた頃。

 マリーは青い羽をぷるぷるとはためかせながら、かっと目を見開いて――そして、言った。


「それだぁぁぁぁっ!!!」


 空を切り裂く大音声。

 リーナはびっくりして口をおさえた。無意識のうちに声を出してしまったのかと思ったからだ。

 だが違った。


「アズーリア! そう、私の名前はアズーリアだったんだ!」


 そもそも声が違う。リーナの発している声とは異なる、清澄な響きの音。

 一体誰がいきなり叫んだのだろう、と思って、答えがすぐ目の前にあることに気がつく。

 リーナは、マリーの声を初めて耳にした。

 いや、もう既に、マリーではなくアズーリアと呼ぶべきなのかも知れない。

 まさかこんな切っ掛けで失われた名前を取り戻すことになるとは――あるいは、当代の【空使い】たるリーナと上空という場所の性質を考えれば相応しくはあるのかもしれない。

 いずれにせよ、アズーリアはどういうわけか己の名と声とを取り戻した。

 その枝角と喉、青い翼と後ろ肢に、色の無い影をまとわりつかせながら。


「何――それ」


 どうやらアズーリアは己の欠落を埋めたらしい。

 それは喜ぶべきことだが、どうしてかリーナはぞっとしていた。

 何か、得体の知れないものがアズーリアに取り憑いている。

 それをどのように形容するべきだろう。

 リーナにはその為の語彙が不足していた。

 輪郭の定まらないそれは、白い雲よりも曖昧で、広がる暗色の空よりも深さを感じさせた。

 無彩色――漠然とした、けれど圧倒的な呪的質感を有したそれが、有翼の牡鹿であるアズーリアの形態を変異させていく。

 一瞬にして背の低い霊長類になると、翼という飛翔のための器官を失ったアズーリアは見る間に落下していく。

 当然、呪力を共有して飛翔していたリーナも釣られて墜落。


「冗談でしょっ」


 言いながら、アズーリアを引き寄せて減速の呪文を唱える。

 近付いていく黒百合宮の姿に焦りつつも、リーナは握りしめたアズーリアの左手の異常に気がついた。

 色が無い。

 黒、影、闇――それともこれは灰色や白なのか?

 見方によって変化する、奇怪な左手。

 アズーリアがアズーリアとしての自分を取り戻した瞬間、『何か』が出現してその身体に取り憑いた。

 間違い無い、左手にいる。

 そう思考した次の瞬間、握りしめた掌から伝わってきた闇がリーナの視界を覆い尽くし、意識が消失した。




 いつだって、たいせつなことはひとつだけ。

 リーナ・ゾラ・クロウサーは、母からそう教えられた。

 クロウサー家は長く続く呪術の名家。

 ゆえに個人の運命は自分ではなく家のもの。

 けれど、それだけではきっと絶望してしまう。

 息苦しい不自由の中で、ひとつでもいいから何か自由を見つけなさい。

 そう教えられたリーナは、飛翔術にその自由を見出した。

 ゾラの血族にとって飛翔術は使命のようなもの。

 それを自由と呼ぶのは敷かれた線路の上を走るようなものかもしれなかったが、それでもリーナは空を飛ぶことに自由を感じた。

 それでも息が詰まると感じたことはあったけれど――自分よりもずっと息苦しそうに生き、辛そうに乱暴な振る舞いをする姉を見てからは、自分は自由なんだと納得するようになった。

 世の中には、自分よりも不自由な思いをしている人が沢山いるんだ。

 自分はきっと恵まれている。

 だから我が侭を言ったらいけないんだ。

 小さな頃の我が侭――たとえば、ガルズお兄ちゃんのお嫁さんになる、なんて幼い願いは、けっして叶わない。

 もちろん、もうそんなことは考えていないけれど。

 ゾラの血族の娘は、慣例として星見の塔の魔女に弟子入りする。

 送り出される直前、母はリーナにこう囁いた。


「ミルーニャの万能細胞を用いれば、同性間で子供を作ることが可能よ。たとえ性別がない相手であったとしてもね。リーナ、貴方は己の花嫁を捜すといいわ」


 それが、貴方の自信に繋がる。

 わずかな自由。

 けっして逃れられない束縛の中で、唯一与えられた希望らしきもの。

 夫は決められている。けれど妻なら強制されない相手を選べる。

 わけのわからない発想だったけれど、母親は多分、己の結婚に不満を抱いているのだろう。

 だから娘には自由を与えたいと願うのだ。

 実際は、優れた魔女の血を取り込むための自分への言い訳かもしれないけれど。

 リーナは哀れな父親のこと、もう一人の母親のこと、そして半分だけ血の繋がった姉のことを考えて悲しくなり、それからひどい罪悪感に苛まれた。

 黒百合宮に来て、リーナは母の言葉の意味を理解した。

 そこには顔見知りの幼馴染みがいたのだ。

 セリアック=ニアとリールエルバ。

 貴族同士のつながり。クロウサーは東方の有力諸侯であるオルトクォーレンとは遠戚でもある。

 というより、クロウサー家と血縁関係が全く無い貴族など地上には存在しないと言っても過言ではないのだ。それほどまでにクロウサー家の婚姻にかける執念――あるいは妄念は凄まじいものがあった。外交戦略という以上に、呪術的な『血統』をより強く、混沌としたものにしたいという、始祖から連綿と続く壮大な呪い。

 貴族や王族が集うパーティで顔を合わせる事が多かった『ニアちゃん』とは特に仲が良く、周囲にもそれは知れ渡っていた。

 きっと、母はそれを承知していてあんな事を言ったのだろう。

 当人の感情と家の都合が折り合うのなら、これほど理想的な婚姻も無い。

 つまりは、そういうことなのだろう。

 まいったなあとリーナは思った。

 それから、どこか窮屈な思いをしながらセリアック=ニアと過ごすようになって、やがて黒百合宮には人が増えていった。

 離ればなれになった姉が来てくれて、姉の世話を焼くという名目が出来てからはセリアック=ニアから離れられる口実が生まれて少し気が楽になった。

 嫌いな訳ではない。

 ただ、強制されて仲良くするのは嫌だった。

 『ほんとう』の仲の良さだと思っていたものを、何かの窮屈な枠に押し込められてしまうのが、たまらなく苦痛だった。

 それからは、表面上はセリアック=ニアと仲良くしながら、ひたすら逃避の日々。目ざといリールエルバにはリーナの不審な様子に気付かれていたようだったが、とにかく先の事を考えるのが嫌だった。

 リーナは、ずっと黒百合宮にいられたらいいのにと思う。

 ここでこうやって、みんなで仲良く、いつまでも将来が来ないまま。

 退屈な日々をぼんやりと過ごし続ける。

 あのアストラルの空で『遊んで』いる時、たまらなく自由だと感じられる。

 

『それが、貴方の渇望?』


 不自然に挿入された声で、それが夢だと気付く。

 辺り一面に、色のない闇が広がっている。

 リーナは、喉と左手に闇をまとわりつかせた誰かの存在を感じた。

 これは誰だろう。

 マリー? それともアズーリア?

 違う、どちらでもない。

 目の前にいる存在は、人とは根本的に異なる何かだ。

 貴方は誰? と訊ねようとすると、思考を読み取ったかのように、


『エル・ア・フィリス』


 という言葉が返ってきた。

 聞き覚えのあるような気がする、不思議な響き。

 それが名前だというのだろうか。

 アズーリアの姿をしたエル・ア・フィリスは、透明に微笑んで、それから世界そのものを震わせるように呪文を紡ぎ出す。


『さあリーナ。貴方の過去に遡って、私に物語を語らせて? 私はその為に存在する、言理の妖精なのだから』


 無彩色の左手が、闇色に輝いた。

 リーナは薄れていく意識を手放しながら、世界が変貌していく音を聴いたような気がした。




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