3-58 死の囀り①




 ――これは万能の力なんかじゃない。

 サリアは念入りに私に繰り返した。


「過去遡行という手段に溺れないこと」


「溺れる?」


 輝く夜月――世界と世界を繋ぐ扉の前。

 作戦会議を終えて実世界に戻る直前、サリアが不意に忠告めいたことを呟いたのだった。

 彼女はどうしてか思い直したように首を振って、


「ああ、やっぱりいい。濫用するなって言いたかったんだけど、私が言っても説得力なんて無いしね。それにアズーリアはコアと同じ匂いがする。止めても馬鹿が治らない人種」


 といった。

 馬鹿とはどういうことだろう。

 私は羽をぱたぱたとさせて反論した。


「何それ」


「世界の危機と目の前で困っている人の危機、どっちが重い?」


 首を傾げる。


「んー、だいたい同じくらい?」


「ほらね」


「ええ、だって世界の危機ってつまり個別の人達の危機の総体でしょ? つまり本質的には同じものじゃない? もちろん、どちらを優先して対処するかと言えばそれは世界の方だろうけど」


「妙な理屈こねるわねアンタ――まあいい。とにかく遡行に頼りすぎると果てが無くなるし――なにより心の方が保たなくなる。どこかで妥協しないと、完璧な未来に辿り着くより先に頭がお花畑に旅立っちゃうの。これ、経験者からの忠告ね」


「経験、あるんですか?」


「今も元気に発狂中。ご主人サマから狂気を定期的に吸って貰わないとそのうちまともに会話できなくなる。だから、本当はあんまり余裕無いのよ」


 ということは、なるべく早くこの苦境を脱して仲直り用の贈り物を見繕わなければ、サリアの精神状態が大変な事になるのか。

 というか、狂気なんか吸って冬の魔女コルセスカは大丈夫なんだろうか。

 数日前に会話したときは、とてもそんな狂気を抱えているようには見えなかったけれど――。

 しかし、そういう事情があるなら、喧嘩してるからって繋がりを断たなければいいのに。

 いずれにせよ、サリアの言うとおり余り時間は無いようだ。


「今回で決めないと」


 そう、余裕は無いのだ、本当に。

 確定はしていないけれど、そうなるかもしれない未来。

 白い炎に飲み込まれて次々と命を落としていくティリビナの民たち。

 老若男女問わず――幼い子供たちまでもがそれを庇おうとするミルーニャと共に純白の炎の中に消えていく光景は、今も目に焼き付いている。

 リーナは輝く文字列の波に押し流され。

 メイファーラはおぞましい囀りに耳を傾けてしまい発狂し。


 同じように狂ったペイルはイルスを絞め殺し、そのペイルもまた自ら床に頭を打ち付けて命を落とし。

 ハルベルトはせめて師の亡霊と相打ちになる覚悟を決めるも、あまりにもあっけなく敗れ去る。

 そして、皆を守るためにその命を捧げたプリエステラ。

 ぐるぐると思考が過去に沈んでいく。伸ばしても届かない左手。伝えられなかった言葉。去っていく妹の背中。

 あの暗い森で死んでいった仲間達。犠牲を許容したこと。

 どこかで妥協しなければならない。それは理解している。

 あの森で、アキラに対して過去を再解釈させて物語による合理化を促した私が、こんな風に醜く足掻いているということの見苦しさにも自覚はある。

 こんな姿を見られたら、きっと彼は私を非難するだろう。

 けれど、それでも――


「ねえ、ちょっと大丈夫? だからといって気負いすぎないで。それだって潰れかねない原因になるんだから」


「うん。わかってる。大丈夫だよ」


「本当でしょうね。あのさ、アズーリア。アンタしばらく前の周回からずっと霊長類体になってないけど、それには何か意味があったりするの?」


 流石にサリアは鋭い。

 それとも延々と一緒に戦い続けてきたことで、私に対して勘が働くようになったのだろうか。

 私は何でもないふうを装って、


「ここではこの方が動きやすいってだけ。実世界だと鎧着てるから強制的に霊長類体に固定されるから、問題ないでしょう?」


 と、もう霊長類体に変身するのが大分つらくなってきていることを誤魔化した。

 サリアはしばらく沈黙する。漆黒の兜の中で、切れ長の目が眇められているような気がした。


「――買い物、付き合うって約束、ちゃんと果たして貰うからね」


「わかってるよ。あ、でも手加減はしてね?」


 言い合いながら、私たちはもう何度目になるかもわからない、『最後の瞬間』に帰還していった。

 輝く月に飛び込んで、影の中から飛び出したアストラル体がそれぞれの実体に戻っていく。

 加速された知覚が実世界のものと合流し、膨大な情報量――色彩、音、重さ、その他様々な感覚が全身を包み込んでいく。

 実感する。

 ああ、これが『生身』であるということだ――。

 短く息を吐く。

 世界は崩壊しつつあった。

 燃えている。

 白く曖昧なゆらめく『何か』。

 遠目には炎のようにも見えるが、それが実際には炎などではないことを私は良く知っている。

 暗いはずの坑道は白く輝く業火によって照らされている――否、消滅させられている。

 炎が覆い尽くした場所には何も無い。

 そこは世界が終わってしまった何も無い空白だ。

 視覚的な白い焔として翻訳された虚無――私たちが固まっている場所を除けば、この周辺は完全に虚無に覆われてしまっていた。

 倒れた私に覆い被さっている白髪の少女をそっと持ち上げて、地面に横たえる。

 軽い。元から小柄な少女だったけれど、それだけが理由ではない。

 下半身が丸ごと塵になってしまっていて、存在しないのだ。

 そればかりではない。あどけない童顔は皺が増えてまるで老婆のようになってしまっている。

 白焔――膨大な時間流に飲み込まれた者の末路だ。周辺にも、枯れ果てたティリビナの民たちがその屍を晒していた。


「ごめんね」


 生きていたいと彼女は言ってくれたのに。

 やっぱりミルーニャを諦めるのは、私には無理だ。

 私は彼女の年老いた姿を、もっと幸福に眺めていたい。

 静かに寄り添って、強く生きて、そして普通に老いていく姿を見ていたい。

 だからこの光景を受け入れることはできない。

 左手に、意識を沈み込ませていく。

 精神集中チャネリング

 繰り返される戦いの中で、その深度と速度は長足の進歩を遂げていた。

 左手に呪力が収束していく中、私は周囲の光景をしっかりと目に焼き付けた。

 その記憶を、決して忘れないために。


「だぁ」


 涎を垂らして、ごろごろと地面を転がっているメイファーラ。

 朗らかで無邪気な笑顔は、前と変わらない。けれど。


「うー、うー」


 常人以上の感応能力を持つ彼女は、あのおぞましい歌声を全身で受け止めてしまった。

 メイファーラが以前のように私の名前を呼びかけてくれることは、この時間の流れでは二度と無い。

 私は地面に突き刺さった箒とその上に乗った三角帽子を見た。

 その周囲で奇怪に捻れている螺旋の肉塊は、凝縮されているにも関わらずとても軽そうに浮遊している。

 リーナがかつてのように騒ぎ出す事も既に無い。物言わぬ前衛芸術となって静かに佇むのみだ。

 そして、私たちをずっと守り続けている、巨大な大樹を見上げる。

 私たちがいる一帯だけは白い滅びから逃れる事ができている。

 それは、途方もなく巨大な樹木が根を張って、障壁の役割を果たしてくれているからだ。私たちは大きな『うろ』の中で守られている。

 凄まじい時間流によって終端へと押し流されていくが、悠久の時を生き続ける古木は急速に成長を続けるばかり。

 炎と樹木という一見して相性の悪い戦いは、プリエステラの秘術が優勢だった。

 けれど、その絶対の守りにもそろそろ限界が来ているようだった。

 大樹の中心で生命力を捧げているプリエステラに限界が訪れたのだ。

 仲間を守るためにその命を擲った彼女の行為は、私が彼女を諦めなかったがゆえに無駄に終わってしまう。

 全員を護送する事だけを優先すれば、プリエステラ一人の犠牲で済むのに。

 尊い犠牲を許容すれば、ビークレットをプリエステラが、カタルマリーナをサリアが抑えることで、無事にパレルノ山の転移門まで辿り着けるのに。

 私はそれを、決して選べない。

 遠くで凄まじい轟音。呪力の衝突を感じた。

 恐らく、ハルベルトとカタルマリーナが【オルゴーの滅びの呪文オルガンローデ】をぶつけ合ったのだろう。明白な師弟の力量差。繰り返しの中で、ハルベルトが師を上回ったことはただの一度も無い。


「急いで。この機会を逃すと戻れなくなる」


 私の隣で、サリアが氷でできた弓を手にして言った。

 既に青白く輝く矢が番えられている。

 影の甲冑ではなく軽装の背後に浮かぶのは半透明の蝿だ。腹に巨大な時計を抱えた、不気味だがどことなく愛嬌のある虫。

 私は無言で頷くと、左手の金鎖を砕いて自分の影から莫大な量の呪力を引き出した。左手と足下から何か巨大な存在が私の内部に入り込んでくる感覚。

 魂を何かに明け渡した――そんな悪寒を強引に無視して、私は自らの守護天使マロゾロンドから借り受けた呪力を束ねていく。

 影を経由して呪力を共有し、サリアに注ぎ込んでいく。

 

「凍れ、トキバエ」


 右手で引き絞られた透明に輝く弦から、輝く矢が解き放たれた。

 光となって大気を切り裂く矢を【時蝿】が追いかけていく。追い立てられた矢は恐るべき怪物に追いつかれまいと加速していき――そこで私の認識が追いつかなくなる。

 サリアの眼前へと向かっていった矢が、いつの間にか彼女の背後へと真っ直ぐに進んでいる――奇怪な現象だがそうとしか言いようがない。

 その現象を正確に理解した訳じゃない。

 夜でもないから、大量の呪力に任せた力業も実行できない。

 だから私は、かつて見たハルベルトの仮想使い魔たちを再現し、それらの処理能力を借りてかろうじて時間遡行という奇跡を再現する。

 召喚された沢山の独角兎たち。汎用的な性能を誇る幻獣の群れがフィリスの能力を補助して、不可能を可能にする。

 私の背後に出現した【時蝿】がチクタクとお腹の時計を動かしていく。

 長針と短針がめまぐるしく逆回転し、時間がぐるぐると巻き戻っていく。

 私たちは矢のように遡る。


「気をつけろ、来るぞっ!」


 サリアの警告。私たちは過去に疾走しながら散開して、同じように遡ってくる攻撃を回避する。

 逃げていく私たちを認識した白き焔の貴婦人が時間流の焔を過去へと放射してきているのだ。

 あの白い焔は事象を加速させて終端に導く、いわば『正の時間流』だ。

 『負の時間流』で過去に飛ぼうとすれば、必ずあの白焔を回避しながらでなければならない。

 風景が逆さまに動き、仲間達が甦っていく戦場を次々と駆け抜けていきながら、私たちは背中を向けたまま炎を撒き散らす白焔のビークレットからひたすら逃げ続ける。

 私をかばって炎をその身に受けるミルーニャの下半身が再生し、見る間に若返っていく。メイファーラの瞳に理性が宿り、リーナが全身に文字を刻印されて苦痛にのたうち、樹木が若木となっていく。

 ティリビナの民たちが泣き喚くその光景を逆走しながら、私はただ逃げることしかできなかった。

 やがて、追撃の焔が止み、サリアと分かれて行動する時がやってくる。

 所詮は劣化した複製でしかない私の時間遡行ではサリアほど遠くには遡れない。

 サリアが遡れる『距離』は彼女がパレルノ山を訪れる直前。

 私が遡れる『距離』はティリビナの民たちが列を作って護送を開始する直前だ。

 この万能にも思える能力には、同じ時間を共有した者同士でないと遡行した事実を伝え合うことが出来ないという制約があるため、私が遡行した時点になるまでは情報共有ができない。


「私が戻った時点から、念のために【未来回想】で情報だけ送ってもいいけど」


「いいから、フィリスは温存しといて。それにあれは錯乱の危険性があるから止めることにしたの」


 なんでも、私は最初は【未来回想】で情報だけを過去に送るという負担の小さい方法を選択していたのだが、それは過去の私を無数の未来記憶で混乱させ、精神に負担をかける結果となっていたのだとか。

 その事に勘付いたサリアは秘術である【時蝿】を私に見せてそれとなく使用を促したらしいのだが、その辺の記憶はほとんど曖昧になっている。

 どうやらその頃はかなり精神的に参っていて、錯乱状態にあったようなのだ。


「ま、頑固なアンタの相手にもいい加減慣れてきたからね。大丈夫、ちゃんと説得してみせるし、できなくてもアンタが戻ってくるまで引き延ばすから」


「うん、よろしく」


 そう言って、私たちは二手に分かれていく。

 私はゆっくりと減速し、本来の時間の流れに戻っていき、サリアは更に負の加速を行って時間の向こうへと遠ざかっていった。

 さて。

 今回の試行を始めよう。



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