0-3 砂漠の花



 樹妖精アルラウネプリエステラはティリビナの巫女として生まれた。

 当時、ティリビナの民は松明の騎士団に追い立てられ離散していた。

 聖絶を免れた者たちはそれぞれ散り散りとなり、辺境や内世界、あるいは地獄に逃げ込んでいった。

 そして故郷を諦めきれず、抵抗勢力として砂漠と化した亜大陸に残った者達もいた。彼らは亜大陸の地下空洞に隠れ潜み、迷宮のような地底森林を彷徨い、地上に対して散発的な破壊活動を繰り返す。

 プリエステラはそんな集団の中で生を受け――そして、地上に対抗する為の戦力として期待された。

 大人達からはまるで女神レルプレアのごとく崇められた。

 けれど無邪気な子供たちからは霊長類に近いその外見を詰られ、「混じりもの」だとか「不義の子」などと呼ばれて虐められていた。

 気の強いプリエステラは反抗したけれど――大人達に隠れて行われる嫌がらせは苛烈で陰湿で執拗だった。

 家族、仲間、同胞――ティリビナの民はそうした言葉をたびたび使って自分たちを鼓舞し、利己的なばかりの地上の連中とは違う、ということを強調する。

 けれど――プリエステラにはその言葉はどこか空虚に聞こえた。

 その『家族』の中に――本当に私は含まれているのだろうか。

 出生がその運命を――在り方を決めてしまうこの世界の残酷を、しかし彼女は天性の気の強さで乗り越えようとした。

 そんな彼女だったけれど、ある日突然、父親が小さかった彼女を星見の塔に預けると言い出した時はその威勢が砕けていくような思いがした。

 今まで彼女の味方をしてくれていた大人達もそれに賛成していた。反論の余地は無い。これは決まったことなのだ。

 ずっと大事にしてくれていたのに。どうしてあっさりと放り出すのだろう?

 家族で、仲間で、同胞だったはずなのに。

 父は自慢の娘だとことあるごとに言っていたのに。

 幼いプリエステラは、自分が捨てられたのだと思った。

 やっぱりみんな、『違う』私のことが嫌いだったんだ。

 だから私ひとりだけ、遠いところに連れて行かれるんだ。

 迎えに来たというどこか自分に似た女性に手を引かれて、プリエステラは諦めと共にティリビナの民の集落を去った。




 星見の塔に連れて行かれたプリエステラは、まず最初に【九姉】と呼ばれる魔女たちに引き合わされた。塔で一番偉い『お姉様方』だと教えられた。

 九姉と言う割に、そこには八人しかいなかったけれど――そこで挨拶をして、これからのことについて説明を受けた。

 ティリビナの巫女として、その生まれついての高い能力を制御できるようになるため、星見の塔は最高の環境と教師を与えてくれるということ。

 彼女を連れてきた、頭に花を咲かせ、植物の蔦を身体に這わせたまるで樹妖精のような女性が彼女の師になってくれるらしい。


「よろしくね、可愛いエスト」


 優しそうなその笑顔を見て、不安だったプリエステラの心は少しだけ晴れた。

 それから、師エクリエッテに教えを受ける日々が始まった。

 ずっと『お姉様』に付きっきりというわけではなかった。呪術についてまるで知識の無かったプリエステラは、同年代の少女たちに混じって基礎的な学習をしなければならなかったのだ。

 キュトスの七十一姉妹――教師である彼女たちの元で様々なことを学ぶ日々。

 他の生徒たちはみな優秀で、プリエステラはついて行くので精一杯だった。

 邪視、呪文、使い魔、杖――各体系の知識を必死になって頭の中に詰め込んでいく。

 元々あまり頭が良くないという自覚があったから、プリエステラはほとんど毎日書庫に籠もって課題に取り組んでいた。

 古い紙の匂い――木材によって作られるこの呪具を嫌悪するティリビナの民もいるけれど、プリエステラは書物というものが嫌いではなかった。

 ティリビナの民だって人工物無しには生きていけないのだ。

 『闘争』や『抵抗』、『運動』に使う破壊のための呪具だって、結局は地上から流れてきた文明の産物である。

 地上の力に依存して地上の打倒を叫ぶ――その捻れを誰もが歯痒く感じながらも、そうせざるを得ない。

 そうせざるをえない。そうするしかない。

 この地上には、そんなことばかりだ。

 きっと私たちを虐げている人達も、そうだったのではないか。

 星見の塔で歴史や社会情勢を学んでいくうち、プリエステラにはそんな考えが根付いていた。

 形の無い、けれどどうしようもなく湧き上がってくる焦燥感。

 ティリビナの民はこのままじゃいけない――きっとこの先に待っているのはどうしようもない滅びだけだ。

 虐められた記憶、見捨てられたという恨み。

 それは未だに強く残っていたけれど、それだけではないと、彼女の中の何かが訴えていた。

 書物に向かって文字の波と格闘していると、たまに見当違いの方向に思考が流されてしまう。

 それはそれで、思索が深まって良い方向に向かうこともあるけれど――今は課題に集中しないといけない。

 気を取り直して文字に集中し、要約を作成しようとしたその時、奧の書架から声が聞こえてきた。


「ねーってば、まだー?」


「先程待っていて下さいと言ってから60秒も経過していませんが。そもそも、なぜ貴方がついてくるのですか」


 プリエステラの座っている席から、ちらりと二人の後ろ姿が見えた。

 鮮やかな真紅の髪を持つ少女と、氷のように煌めく白銀の髪を持つ少女。

 離れていても目を引く存在感。見覚えがある。

 赤い髪の方は杖の授業――ラクルラールお姉様とクレアノーズお姉様の教室で。

 白い髪の方は邪視の授業――ビークレットお姉様とシャーネスお姉様の教室で。

 名前は確か、赤い髪の方がトリシューラで、白い髪の方がコルセスカ。

 二人とも授業では飛び抜けて優秀だったからよく覚えていたのだ。彼女たちを見てプリエステラは世界の広さというものを感じることになった。

 トリシューラの方は、なんだか『不自然』な感じがして生理的に受け付けなかった。だから今まで一度も話した事はなかったけれど、コルセスカの方は会えば挨拶くらいはする関係だ。

 かといってこちらから積極的に話しかけに行くほどの仲ではない。

 本に集中しようとするプリエステラだが、二人の話し声は自然と耳に入ってきてしまう。


「本とか読んでも出来ないことがいきなり出来るようになったりはしないってば。それよりもっとこう、気合い的で修行的な何かが必要だと思うよ?」


「理解できません。『気合い的』と『修行的』という言葉の定義を明確にして下さい。それと、理論の裏付けが無ければ正確な呪術の発動はできません。貴方の感性に従った邪視の呪術も、脳のはたらきによる知覚の運動――すなわち物理的な現象が基となって発生しているのですから」


「もーっ、シューラは頭固すぎ!」


「非論理的な思考をすることが、私の完成にどう役立つのでしょう?」


 コルセスカが騒がしく声を上げて、トリシューラが、書架から目当ての本を探しながら冷淡に答える。

 トリシューラの手が眼鏡の端に触れて、その位置を直す。良く目にする仕草。きっとその眼鏡の内側では、緑色の瞳が人間味のない光を湛えていることだろう。 ――薄気味が悪い。

 弟子たちの誰よりも優秀な――こと杖の分野においては師である数人の専門的杖使いを除いて七十一姉妹のほとんどを凌駕するほどの――才覚を有するにも関わらず、トリシューラは疎まれていた。

 それは杖という呪術が四大系統で最も下であると見なされている事だけが理由ではない。

 けして笑わず、表情を動かさず、抑揚のない声で動く彼女が、どうしてか『恐ろしい』と感じられたから。

 同じように杖を得意とする弟子たちの中には、人形師ラクルラールが作った【人形姫】アレッテ・イヴニルや【鉄の踵】ミヒトネッセといった『作品』たちもいたけれど、彼女たちはトリシューラよりもずっと人間的だった。そして、杖以外の呪術にも秀でていた。

 対して、トリシューラは杖だけ。誰よりも杖の呪術を使いこなすけれど、それ以外の点では劣等生もいいところ。

 それゆえに蔑まれ、はっきりと疎外されていた。

 対照的に、コルセスカはどの分野にも秀でており、特に邪視ではあのティエポロスと並ぶ天才だと評判だった。

 ――劣等生と優等生。あの二人の仲がいいなんて意外。

 そう思って、プリエステラは少しだけ二人の会話が気になった。


「邪視のコツならセスカが教えてあげるよ! あのねえ、まずお布団の中にくるまるでしょ? それで徹夜用のお菓子とゲーム機を用意してー」

 

「――はぁ。それで獲得できるのは貴方の世界観であって、私固有の世界観ではありませんよ、コルセスカ。邪視関連の資料が必要なのは、私では無く貴方なのではありませんか?」


 呆れたようでありながらも、どこか柔らかいトリシューラの声。

 あんな彼女は、始めて見た。

 口調は相変わらず平坦だったけれど、微かな感情が――親愛が覗いている。そんな気がしたのだ。


「うう、残念ながらセスカは新作のゲームをプレイしなければならない上に今週のアニメを消化し、更には漫画を読まなければならないという激務があって勉強をしている余裕なんて――」


「余暇の時間でするべき事を勉強よりも優先させてどうするんですか。貴方はそう言って前も杖の課題を私にやらせていましたよね。露見した後、二人揃ってクレアノーズお姉様に叱られた事を忘れたのですか」


「ごめんなさい! でもこれは余暇じゃないの! セスカの仕事! むしろ生命活動に必須な食事とか睡眠とかと等価値なものなの!」 


「とうとう起きながら寝言を呟くようになりましたか。毎朝きちんと起こしているつもりでしたが、どうやら起こし方が足りなかったようですね」


「いひゃい、いひゃい! やめてよもう!」


 頬をつねったり押し返したりと和やかにじゃれあいながら奥の方へ去っていく二人を見ながら、ふとプリエステラは自分が以前ほどトリシューラに対して気味の悪さを感じていない事に気がついた。

 たったこれだけの事で、自分は嫌っていた相手に『人間らしさ』を見出してしまった。

 一人きりのトリシューラはひどく不自然な感じがして怖かったけれど――コルセスカと二人でいる時はどうしてか自然にふるまっているように思えたのだ。

 自分が抱いていた隔意とは、一体何だったのだろう。

 記憶に何かが引っかかっている。

 思い出すのは、プリエステラを虐めてきた生まれ故郷の子供たち。

 同年代の友人などいなかった。

 誰もが『違う』ということを理由にして彼女を責めた。

 ここでも同じだ。トリシューラが『違う』からほとんどの子供たちは彼女を疎外する。そういったことに無関心な者も多く、誰もが自分の事で精一杯だったから、プリエステラがかつて受けた虐めほど過酷ではなかったけれど。

 それでも、トリシューラはどうしようもなく孤独だった。

 大人達――姉妹の特定派閥に属する者達も積極的にそれを許容し、時にはトリシューラだけに困難な課題を言いつけて失敗する様を生徒達に見せつけるような真似までしていた事が、『虐めても良い』という空気を作り上げていた事も影響していた。

 九姉評議会第六位全権代理、ラクルラール。使い魔と杖の呪術を極めたという最大規模の派閥の長。

 そしてその弟子であるという使い魔操りの天才――トライデントという魔女が主導となってそういう空気は維持され続けてきた。

 それが【虐め】という古代から存在する力ある使い魔系呪術かんけいせいのかくちょうなのだと、ラクルラールは自慢の弟子を褒めちぎっていた。トリシューラの状況は使い魔の修行という名目で放置された。

 残酷な宣言をされたトリシューラは、けれどそれを乗り越えることこそが使い魔適性の向上に繋がるならと、自ら虐められる状況を受け入れた。

 恐ろしいラクルラールお姉様に無表情のまま相対する彼女からはまるで感情が窺えなかったけれど、どこか『挑むようだ』と感じたのを覚えている。

 ――実のところ、誰もトライデントなんていう名前の魔女を見たことは無かったのだけれど、長いものに巻かれろとばかりにトライデントの側に付く者は後を絶たなかった。

 プリエステラは積極的に虐めに関与することは無かった――かといってトライデントの勢力に逆らう気も起きず、ただ巻き込まれないように遠巻きにしていた。

 でも、見て見ぬ振りをしていたことには変わりがない。

 ――それは、異質なものを排除しようとする故郷の子供たちと同じ振る舞いではなかったか。

 家族、同胞、仲間――それらを賛美する故郷の『家族』たち。

 同じ場所で切磋琢磨しながら学ぶ、志を同じくするはずの『仲間』たち。

 それらが酷く醜いものであるような気がして、プリエステラはなんだか胸の奥に黒々とした雲が広がっていくような気がした。

 遠くで、騒がしくする二人の声が聞こえてくる。

 どうやら、今度は喧嘩を始めたらしい。どたばたと音がして、書架が倒れて本が散らばる。とうとう司書のモルンエルバに怒られて追い出される始末。

 喧嘩をした後でも、二人は隣り合わせのまま。近い距離で他愛ないやり取りを続けていた。

 家族、同胞、仲間。

 わからない。

 それが醜いのか、美しいのか。

 自分には、難しくてとても理解できない。




 キュトスの姉妹が第二十位、エクリエッテお姉様――師はこう言った。


「ティリビナの民は――とくに巫女である貴方は、自然と己との『関係性』の中に呪力を見出すの。大いなる自然そのものを使い魔とし、同時に貴方が広大な世界の使い魔となる。世界をまなざしなさいプリエステラ。そして世界にまなざされる己を自覚するのです」


 星見の塔で基礎的な知識を身につけたプリエステラは、学びの場を【白百合宮】に移していた。師と共に、ティリビナの巫女としての本格的な修行を始めるためだった。

 亜大陸の辺境、誰も訪れることのない砂漠の果てで、師と弟子の二人きり。

 白亜の回廊を歩き、砂漠でも力強く咲き誇る砂漠の薔薇アデニウムの鮮やかな色彩に満ちた庭園に出る。

 修行は外で行われた。燦々と照りつける太陽は心地良かったけれど、どこか暴力的にも感じられた。

 厳しいけれどエクリエッテお姉様は優しかった。

 だからある時に打ち明けた。

 ティリビナの巫女として歩むことに、不安があると。

 自分はこのまま歩き続けて――果たして本当にティリビナの民たちの為に己の役割を果たせるのだろうか。

 それが樹妖精として生まれた自分の義務だとわかってはいたけれど、プリエステラには不安しかなかった。

 同胞の為に命がけで地上と戦う戦士たち。彼らと同じような振る舞いが自分にできるとは、とても思えない。

 そんな不安を吐露したプリエステラに、エクリエッテはこう提案した。


「では、違う道を探してみるのもいいかもしれませんね」


 そしてプリエステラは末妹の選定に関する事を教えられた。


「もちろん、ここで学んだ後、呪術師として中央に行くのも良いでしょう。けれど、私が教えた変装技術は万能ではない。日々進歩する感知呪術によって、いつかその正体を暴かれてしまえば、貴方は地上では迫害されるしか無いのです。そうされないだけの力と立場が欲しいと願うのなら――」


 プリエステラは迷いながらも、末妹になるための修行をしてみたいと口にした。

 巫女としての修行に、末妹となるための修行が加わった毎日はこれまで以上に大変だったけれど、それでもこれが未来に繋がっている気がして、プリエステラは充実した思いがした。





「【彩石の儀】ですか?」


「そう。やってみない? 同年代の子と競うことは、きっとエストにとって良い刺激になるはずだわ」

 

 エクリエッテによると、それは事実上の事前選考なのだという。

 優秀な末妹候補たちの中から十八人が選ばれ、アストラル界で競い合う。

 最も優秀な者は星見の塔の第二位、ダーシェンカの教えを受けられるらしいが、プリエステラはそんなものには興味が無かった。

 ――私の師はエクリエッテお姉様だけ。

 けれど、ずっと二人きりで修行をしていく日々に少しだけ飽きていたのも事実だった。

 かつて星見の塔にいた少女たちがどんなふうに成長しているのか――確かに気になる所ではあった。プリエステラはエクリエッテの提案に従ってその事前選考に参加することになった。

 フォービットデーモンナンバーフォーティーン。

 選抜は終わりかけだったが、ぎりぎりで滑り込むことに成功した。

 十四番目の参加者として深緑ティールの号を与えられたプリエステラは、彩石の儀に参加して――そして、目の当たりにした。

 圧倒的なまでの高みを。

 初戦で自分を正面から打ち負かしたノーレイ。

 それがあのトリシューラだとすぐにわかったけれど――その後で黒銀の狼の圧倒的な火力をかいくぐって勝利を収めた青い有翼の牡鹿にプリエステラは目を奪われた。

 この世には、あんなにも美しく羽ばたく生き物がいるのか。


「そう。あの子に、興味があるのね」


 木製のコクーンから出てきたプリエステラに、エクリエッテは優しく囁いた。葉脈を流れる水に情報を流して作動する植物性コンピュータが、放熱葉から蒸気を吹き上げている。プリエステラは身体に接続されたコードを引き抜きながら、こくりと頷いた。


「お行きなさい、私のエスト。貴方はどこにだって行ける。何だって選べる。沢山の可能性を、その目に焼き付けてくるのですよ」


 そして、プリエステラは白百合宮を出立した。

 目指すは本大陸東部辺境。

 ヘレゼクシュの魔境――黒百合宮。




 燃える車輪レッドの解き放った【爆撃】が勢いを増しながら巨大な火球となって襲いかかる。

 プリエステラ――ティールは大樹のデーモンと化した自らの身体を動かし、無数の枝から光線を射出して迎撃する。

 共に低機動力だが火力と装甲に優れた要塞タイプ。熾烈な砲撃戦は長引いたが、次第にティールは劣勢に追い込まれていく。

 相手の火力はやはり凄まじい。最初の頃は長々とした詠唱の隙を突かれて敗北することが多かったレッドだが、最近は無詠唱で呪術を行使している。そのくせ威力が変化していないというのは、もしかすると呪文使いの振りをした邪視者か杖使いだったのかもしれない。

 いずれにせよ速度と火力を両立した相手の攻撃は厄介だ。射出した葉を囮にして攻撃をやり過ごすのも限界が近い。

 燃え立つ炎に全身を焼き尽くされるまであと何秒か。

 爆弾は紅紫マゼンタ相手に使ってしまった。破れかぶれで防御を捨てて全呪力を攻撃に使ってしまおうか。そんなことを考えていたその時だった。

 ――それはまさしく青天の霹靂。

 上空から放たれた二条の光線が、狙い違わずレッドとティールの真芯を貫いていた。追撃の光線が矢継ぎ早に放たれる。

 対峙していた両者共に戦闘を中断して不躾な闖入者を迎撃しようとする――だが二人分の弾幕、恐ろしい密度の光線と弾体、火球の嵐を、その青い翼は軽々と回避してみせた。

 ばかりか、正確無比な射撃によって両者を完璧に打ち負かしたのである。

 自らの敗北を受け入れながら、ティール――プリエステラは青い有翼の牡鹿アズールが空を駆けるのを眺めた。

 やはり、強い。

 そして優美だ。なんて自由に空を駆けるのだろう、あの青い鳥は。

 大地に固く根を張った自分とは大違い。

 しがらみやさだめ、そうした様々な俗世の束縛から逃れ、どこまでも自由に蒼穹を舞い続ける。

 その姿を、羨ましいと感じたのだ。

 それはきっと、自分だけではない。

 自分のように黒百合宮に集った候補者たちは――あの空で今まさに撃墜された三本足の烏ホワイトも、奇襲が失敗して返り討ちにあっている三つ目の蜥蜴グレーも、最後の一騎打ちで粘りに粘ったけれど遂には敗れ去った俊敏な兎ブラックも、ここにはいないシアン翼猫イエロー深海魚グリーンも――誰もがあの青い鳥に魅せられている。

 どうすれば、アズールのように空を飛べるのだろう。

 なんて、きっと訊ねても首を傾げられてしまうだろうけれど。

 『飛ぶ』だなんて、きっとあえて意識していない。

 人が走る為のコツなどわざわざ意識していないように、アズールは空を駆けることを特別なことだとは思っていないのだから。

 羨望と憧憬を抱えたまま、いつもと同じ結末でかりそめの世界は幕を閉じた。

 今日もまた、一位はアズール。

 澄明のフォービットデーモン。あの魔獣こそ比類無き空の支配者である。




 黒百合宮のコクーンは硬質で、目覚めたときにわずかな不安感に襲われる。

 白百合宮とは大違いだと嘆息する。あの優しい木の香りが、プリエステラは好きだったから。それでも、自分は慣れないといけない。新しい環境というものに。

 周囲を見渡すと、丁度ホワイトも身体を起こした所だった。自力でアストラル投射ができないのは黒百合宮で二人だけだ。

 白く可憐な少女。触れれば折れそうな儚さ。

 仲良くなりたいと一目見て思ったけれど、彼女は人に話しかけられることをひどく怖がる。

 その様子があまりにも可哀想だったから、初対面以来プリエステラはホワイト――メートリアンという少女に話しかけたことは無かった。

 今日もまた、目を合わせることすらなくコクーンを出ていく。

 それが、少しだけ寂しかった。

 いつか、仲良く話せる日が来たらいいのに。

 ぼんやりと暗いようで明るい黒百合宮の中を歩いていく。

 裏手の庭園に、二人の姿を見つけた。

 いつも通りだった。あの二人はいつだってそこにいる。

 美しい青が咲き乱れる庭。

 椅子に座った黒のヴァージリアの膝の上に小さな黒いものがいる。

 もこもことした布の塊。二つの青い輝きは瞳にも見える。

 余りにも小さいから、始めは間違って迷い込んだ幼子かとも思ったけれど。

 澄明のヘレゼクシュ。あるいは色無しマリー。

 どうしてそんな呼ばれ方をしているのかは知らないけれど、これがあの圧倒的天才アズールの物質世界での姿である。

 二人は端末と帳面を使って何事かを話し合っているようだった。

 それぞれの事情で声による意思疎通ができないため、筆談で会話しているのだ。

 プリエステラはその様子をずっと見ている。

 どうしても話しかけられなかった。何故って、あの二人が二人だけで余りにも完結し過ぎていたから。

 閉じた青い庭園。そこで始まってそこだけで終わる、永遠の幻想。

 割って入ることが、どうしようもなく冒涜的にすら思えてしまう。

 それでも未練がましく二人の様子を覗きに来てしまうのは、なんというか諦めが悪いというか――

 ふと、柱廊から庭園を覗いているのが自分だけでは無い事に気がつく。

 向こうの柱に、白い頭。赤い瞳が熱心に庭園の二人を睨み付けている。

 どうやら、あの二人が気になって仕方無いのは自分だけではないらしい。

 なんだかおかしくなってしまった。

 少しの親近感。やっぱり、自分はあの少女と仲良くなりたいみたいだった。

 プリエステラは少しだけ考えて、それから閃いた。どうして今まで思いつかなかったのだろう。勿論、あの二人が筆談をするところを見ていたからこそ思いついたに決まっている。けれど、それはとても簡単な発想の筈なのに。

 生憎と端末が手元に無い。杖文明の利器は便利だけど、決して得意というわけでもないのだ。

 けれど自分には代わりがある。

 人が器用な手で作り出す杖――三本目の足ではなく、心で繋がり合う自然という名の手足――いいや、自分こそが大いなる自然の手足なのだ。

 さらさらとそよ風が吹き、庭園の青がかすかに揺れる。庭園の隅で番兵のように寡黙に立っている大樹に語りかける。

 ――お願いよ素敵なおじさま、少しだけ貴方の沢山ある手を貸してくれない?

 ――お安いご用さ、可愛いお嬢さん。

 気のいい壮年の大樹は、プリエステラの語りかけに快く応じてくれた。

 幅広の葉が一枚、枝から離れて、柱の陰に隠れながら庭園の様子を覗き見ているメートリアンの頭上に舞い落ちる。

 それを手に取った少女の赤い瞳が、驚きに見開かれる。

 複雑に走る葉脈が形を変え、無数の文字を形作っていたからだ。

 それは手紙。

 ティリビナの民が遠くにいる同胞に意思を伝える為の、木々を介した伝言だ。

 そこにはこう書かれている。


『いい紫外線対策と変装の呪術を知ってるけど、試してみない?』


 白い少女が、建物の外に出るときはいつも小さな日傘を差していることをプリエステラは知っていた。今も、もし庭園に出て行く機会があれば――と折り畳んだ傘を手にしているのだ。

 そして、彼女がどこか自分の容姿を気にするようにしていることも。

 プリエステラは彼女の白い姿をとても綺麗だと思うけれど――彼女自身がいつもびくびくと怖がっているのでは折角の可愛らしさも台無しだと思う。

 果たして、この行為が吉と出るか凶と出るか――もしかしたら、間違いかも知れない。嫌われてしまうかもしれない。けれど。

 白い少女の赤い瞳が、おずおずとこちらを見た。

 窺うような、恐れるような。

 プリエステラはなるべく優しく、穏やかに見えるように微笑みを形作った。お手本はエクリエッテお姉様だ。

 メートリアンは一瞬だけびくりとして、それからごそごそとドレスから小さな端末を取り出す。

 何かを入力して、それから床を滑らせてこちらへと届ける。ちょっとだけ届かない。苦笑しながら端末を手に取ると、


『詳しく』


 とだけ表示されていた。

 メートリアンは柱の陰に隠れて、びくびくしながら様子を窺っている。

 さて、次はこの端末に答えを表示して返してあげるべきなのか、だとすると先程のように床を滑らせるのがいいのか直接手渡すのがいいのか――そんなことを考えている自分が、この上なくいい気分に浸っていることに気がついた。

 今、この瞬間がたまらなく楽しい。

 知らないうちに、笑みは作った物ではなく自分自身のものになっていた。

 ――私自身が選ぶ関係性。

 それは、生まれながらに決定されている家族や一族とは違う、もう一つのかけがえのないもの。

 自分が欲しかったものが何であるのか――それを漠然と掴みかけたその時。

 ひょっこりと柱の陰から顔を出した二人の存在に、びっくりして飛び退る。

 内部の窺えない黒いフード。大小二つのそれはそっくりな姉妹のようだった。


『何してるの?』


 端末と帳面で全く同じことを訊ねるヴァージリアとマリー。

 泡を食って逃げ出そうとするメートリアンをヴァージリアが捕まえて、座り込んだプリエステラの目の前でマリーが小首を傾げる。

 見つかってしまった――けれど、これは見ようによってはいい機会なのかもしれない。

 そんなことを考えながら、プリエステラはメートリアンの端末に文章を打ち込んでいった。


『良かったら、お友達になって下さい』


 それが、失われた始まり。

 忘れられて儚く消えて、それでも手にした想いだけは彼女の芯として残された。時を隔て、場所を変えても変わらない、彼女の一番大切なもの。

 彼女が、欲しかったもの。




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