0-2 色無しマリー





 見る者を捕らえて離さない黒紫。愛のように熱く、恋のように冷淡な、それはおぞましく魅惑する魔性の花弁。群生する黒百合の強い薫りが辺りに立ちこめて、訪れた者はこの場所が異界なのだと気がつく。外界から隔絶され、異形の暗闇が蠢く深淵の内側。

 黒百合宮――ヘレゼクシュの魔境とも言われる森の奥深くに、その宮殿は密やかに建てられていた。

 黒百合が咲き乱れる道の終わりで、植物の蔓めいた曲線で構成された鉄柵が軋むような音を立てながら開いていく。

 線対称の庭園の中央では旋回式の噴水が時計の役割を果たしている。それだけがこの場所の秩序だった。黒曜石の柱廊は深い夜の色を湛えながら宮殿を取り囲み、天蓋は朝の光を吸い込んでささやかな灯火に変えてしまう。浮遊する螺旋階段を昇った先にあるバルコニーには天体望遠鏡が置かれ、人工の光に妨げられることなく星の海を望むことができるようになっていた。

 その場所に朝と夜の区別は無い。日の出は夕焼けのように訪れ、四つの月は青空にかかる雲間から顔を覗かせる。月と星は青空で輝き太陽は夜空で燃えるのだ。

 人の世の条理などそこではいかなる意味も持たない。黒百合宮は魔女たちの住処。悠久の時を歩む女神の裔たちにとっては、そのような光景も退屈な日常でしかない。

 それでも、ヴァージリアはその場所を訪れた時に特有の酩酊感のようなめまいを覚えた。初めて来たわけではない。かなり前、師であるカタルマリーナお姉様に連れられてしばらく修行に明け暮れたことがある。特殊な空間。特異な修練。そこでしかできない『学び』を徹底的に叩き込まれた後、すぐに別の場所へ旅立った。

 懐かしさは湧かなかった。そのようなものが湧き上がるほど思い入れのある場所でもない。ただ、むせかえるようなまじないとまぼろしの薫りがどこかしっくりとくる気がして、ヴァージリアにとっては居心地が良いのだった。

 黒百合宮は東方におけるキュトスの姉妹の拠点。

 滞在しているのは十人に満たないごく少数。お姉様方を教師にして、四人――今日からはヴァージリアを加えて五人の候補者たちが未来の末妹となるべく呪術を学ぶことになっている。

 確か、ドラトリアの姉妹姫とクロウサー家のご令嬢。前者は姉の方が幽閉されている為、妹に憑依してアストラル体のみで滞在しているとか。家格は大層だが、呪術の腕が立つという情報は入ってきていない。そもそも、家格うんぬんを言ってしまえばヴァージリアは太陰イルディアンサの王族という最高位の貴種である。臆する必要など何も無かった。後者はメートリアンを星見の塔に誘った彼女の知己らしいが、当のメートリアンは苦手としているようだった。そういえばあの年上の白い少女も後からやってくるような事を言っていたが――。

 それよりも、四人目こそがヴァージリアにとって最も重要である。

 マリー・スー・ヘレゼクシュ。

 まことの名は知らない。ヘレゼクシュは地名姓でありふれている。そもそもヘレゼクシュ地方というのは広すぎて国すら特定できない。ドラトリアだってヘレゼクシュだしワリバーヤは丸ごとヘレゼクシュだ。所属を示してはいるがその本質とは異なる。魔女として与えられた名はマリー・スー。号は澄明――アズール。性質も起源も不明。謎の天才。

 見出したのは星見の塔の第二位ダーシェンカお姉様。つまりは末妹の座を巡る選定のひとつ、【彩石の儀】を開催した張本人。偉大なる次女その人は自らの弟子を彩石の儀で決定すると約束した。その彼女が最後の一人として連れてきた人物。

 ことによると、自分たちはただの噛ませ犬なのかもしれない。あるいは試金石か。

 いずれにせよ、決して『面白い』とは思えない。もしこの競い合いが茶番であれば、この上なく腹立たしい。お姉様方の思惑が理不尽を通り越して常軌を逸しているのはいつものことではある。だとしても、ヴァージリアはその『何者か』をこの目でしかと見極めてみたかったのだ。

 あの反応速度。あの優美な力強さ。そしてなにより、あの圧倒的な幻想の確かさ。

 ああまで鮮やかに呪文を奏でる術者を、ヴァージリアは自分の師と母以外では生まれてはじめて見たのだ。

 空のように青い、翼持つ鹿。デーモンの姿が本人の性質を反映しているのだとすれば、あれを操っていたのは恐らく夜の民だろう。ヴァージリアと同じ、夜と月の加護を受ける眷族。

 どんな子なのだろう。年上? それとも年下? 実力は確かだが、人格はどうなのだろうか。鼻持ちならないうぬぼれやか、それとも尊敬すべき好敵手か。夜の民は総じて小柄と聞くが自分と比べてどうなのだろう。最近になって急に背が伸び始めた。そんなところまで張り合っても仕方無いかもしれないが、面と向かった時の印象というのは大事だと思うのだ。きっとマロゾロンドの眷族らしく甘いもの好きだろうから、その辺の備えもしておいて――。

 考え事をしながら歩いていくと、視界に連れだって歩く誰かが映る。この宮殿の住人だろう。挨拶、出迎え、顔合わせ。何だっていい。三人の顔ぶれをざっと眺めて、違うと判断する。

 向かいからこちらへ近付いてくる三人の少女はそれぞれ特徴的だった。

 猫の取り替え子チェンジリングとアストラル体。そして三角帽子のいかにもな魔女姿。

 宝石のような瞳。黄色い髪色。可憐な顔立ち。とても小柄。頭頂部には左右の耳とは別に存在する三角の獣耳。黄のセリアック=ニア・ファナハード=オルトクォーレン。

 赤い瞳。鮮やかな緑の髪。均整の取れた肢体は半透明。妹であるセリアックの背後にぴったりと寄り添って浮遊している。歪んだ笑み。緑のリールエルバ・ヴォーン・アム=オルトクォーレン。

 鳶色の瞳。三角帽子から流れる明るい黄色の長い髪。快活ではっきりとした表情とよく動く口元。こちらも浮遊しているが、それは空の民という眷族種の特性。藍のリーナ・ゾラ・クロウサー。

 彼女たちに用はない。

 三人は口を開き、こちらに向けて何かを言っている。唇の動きから察するに、おそらくは挨拶のたぐいだろう。自己紹介かなにか。揃いも揃って上流階級の出身であるせいだろうか。立ち居振る舞いがいかにもといった感じだ。新参者に対して威圧や衝突ではなく融和を図ろうとする育ちの良さ。

 心底どうでも良かった。関心がない。

 足早に三人の真横を通り過ぎていく。態度が悪いことくらい重々承知だが、そんなことに頓着していたくない。そもそも耳に入ってこない。聞く耳など最初から持っていない。

 恐らく背後ではこちらの無礼を咎める声が上がっていることだろうが、そんなものは聞こえない。聞こえないのだから自分にとっては無いのと同じ。会話がしたければ口を動かすのではなく筆記用具か端末でも持参しろというのだ。

 苛ついている。自覚はある。それもこれも、目当ての人物が見当たらないから。それ以外の理由は無い。

 ふとメートリアンを思い出す。年上の、まともに人と顔を合わせて喋ることすらできない怯えてばかりの『少女』――年上の女性を少女と呼ぶのはなんだか奇妙だが、彼女はどんな角度から見ても少女なのだと思えてしまう。年齢に関わらず少女は少女なのだとヴァージリアは知っていた。星見の塔においては永遠に少女のままという在り方はごく自然なことである。

 彼女と文字だけのやり取りを交わすのはとても楽だった。カタルマリーナお姉様と同じように、お互いに会話の手段がそれしかないという事実。気を遣われていないというだけで、自分の欠落を忘れられるから。

 マリー・スー・ヘレゼクシュはどうなのだろう。その事を思うと少し憂鬱だった。きっと何かを『言う』のだろう。初対面なのだから当たり前だ。初対面というのがヴァージリアは嫌いだった。自己紹介などしたくない。それゆえに公的な個人情報をラベルとして自分に貼り付けているのだが、ヴァージリアに話しかけてくるような大半の人物はそれを認識していながらもあえて肉声で話しかけてくるのだ。心の籠もった意思疎通だかなんだか知らないが、別にこちらは相手と心を通わせたいなどと思っていない。はっきりと迷惑だと言えたらどんなにいいだろう。言えないから、態度で示す。

 足早に、革の長靴を交互に前に出していく。きっと、さぞや小刻みな足音が響いていることだろう。肉体が刻むリズムはイメージできる。打楽器の振動は好きだ。肌で感じられる爆音も好き。譜面の意味だってちゃんと理解できる。記号の織りなす美しく精緻な広がり。きっと音楽というのは波打つ織物タペストリのような『かたち』をしているに違いない――。

 宮殿内部は照明に照らされてもなお暗い。闇のような黒が広がる廊下を進み、人の気配を探る。もちろん音などという物質的な感覚ではなく、第六感に従ってだ。

 ヴァージリアは直感を働かせて、ついに目当ての人物を見つけた。

 宮殿の裏手――表門からでは見えなかったもう一つの庭園。

 そこは、黒や紫といった暗鬱な色ばかりの表とは異なり、透き通るような青で満たされた空間だった。花壇には空の色。花の形をした瑠璃ネモフィラ。綺麗に整えられた芝生。ささやかな規模の裏庭は生垣によって区切られており、まるで迷路のよう。

 頭上にかかっているのは蔓草を這わせた棚で、青く輝く呪宝石を削った造花が小さな花弁を垂れ下がらせている。それらは天上から降り注ぐ強烈な陽光のみを遮り、月光と星々の光、そして夜の黒と昼の青をひとつの空間に同居させていた。

 異様な光景――そこはたった一人のために誂えられた聖域なのだとヴァージリアは直観した。

 白塗りの円卓と緩やかに弧を描く曲線のみで構成された椅子。その上に、小さな身体をちょこんと乗せて、大きすぎる本を卓上に立てて読み耽っている誰かがいる。

 実の所、夜の民を見るのはこれがはじめてだった。

 ぶかぶかの黒衣。フードのせいでその顔すらよくわからない。正体のわからない矮躯。思い出す――リーデ・ヘルサル著『世界の中の異世界』。確か第三章で夜月スキリシアについて取り扱っていた。教材に載せられていた念写映像はどれもこれも画一的で似たようなものばかりだったけれど、なるほど実際に『こう』なわけか。種族全体がこのような格好だと聞いてはいたが、実際に見てみると奇妙極まりない。

 読んでいるのはどんな本だろう。集中しているのかこちらに気付く様子は無い。表紙を見ると、見知らぬ文字がそれ自体が有する呪力によって歪みながら変容していく。ホルヘ・ルイス・ボルヘスの『伝奇集』。卓上にはもう一つ本が置いてあって、こちらは同著者の『幻獣辞典』だった。

 思わずむっとした。知らない本、知らない著者。兎の王女、生まれながらの司書であり書淫書痴であるこのヴァージリアがまるで正体を掴めぬ本を、こんなにも小さな、それでいて恐らく同年代かそれより下であろう競争相手が読んでいるという事実。

 言いようのない敗北感。ヴァージリアは最後の魔女になるべく生まれる前から徹底的な英才教育を受けてきた。両親と師からの巨大な期待を一身に背負ってここまで必死に駆け抜けてきたのだ。同世代の相手に教養で負ける、という状況は彼女の矜持をいたく傷つけたのであった。

 文字に宿っていた呪力の異質さから、おそらくは異界の本だろうと推測する。この黒百合宮をはじめとするキュトスの姉妹の拠点には、この世の尋常な時空の在り方とは異なった別世界【永劫線】を介して持ち込まれた過去現在未来そして異界の様々な書物が置かれている。その豊富さ、混沌ぶりは太陰イルディアンサが誇る【神々の図書館】の蔵書をある観点から捉えれば――認めたくは無いが――超えているのだった。大方あの異空間にアクセスできる姉妹――ノエレッテかリーエルノーレスかタマラあたり――がここの地下図書館に置いていた本を持ち出したのだろう。

 よほど集中して没入しなければ読み解けないような内容であるのか、黒ずくめの矮躯は必死になって項に食らいついている。その様子は小さな身体で見上げるような巨人に立ち向かい、どうにか格闘を成立させるべく無我夢中で心の手足を振り回しているかのようだった。

 ふと、ヴァージリアの心に得体の知れない感情が湧き上がってくる。

 ――本を取り上げて、フードの中を覗き込んでやったら、どんな顔をするだろう。

 それが極めて失礼な行為であることはわかっている。そして、同じように顔――正確には左右の耳をフードの中に隠している自分にはやられた時の不快感も想像できる。しかし、だからこそ認識妨害の呪術を突破してその誰にも明かさないという顔を拝見できる。それは好奇心というよりも意地悪をしてやりたいという感情だったのかもしれない。自分をあっけなく打ち負かしたデーモン。その奏者に一杯食わせてやりたい――。

 ひょい、と本を引っ張って取り上げた。黒衣の矮躯は自分の身に起こったことが理解できず、しばし呆然として、それからようやくなにがしかの悪意を向けられたのだと感じ取ってきょろきょろと辺りを見回し始めた。

 ――違う、そこじゃない。真後ろだ。

 小突いてこちらの居場所を教えてやろうかと思ったが、困惑する姿が大層面白かったのでしばらく眺める。小さな黒衣姿はどうも嗜虐心を刺激してくる。

 ひとしきり慌てふためく様を観賞したヴァージリアはたっぷりと優越感に浸り、自尊心を回復させた。これは相手の無自覚の精神攻撃によって傷つけられた矜持を取り戻す為の正当な報復である――身勝手な理論で武装して、とどめとばかりに前に回り込んで黒衣のフードを覗き込んだ。

 驚愕に目を見開いたのは、二人とも全く同時だった。

 マリーの方は突然現れた謎の人物に対して驚き。

 ヴァージリアの方は、覗き込んだ黒衣の内側が、全くの闇そのものであったことに対して驚いたのである。

 それは、形の無い曖昧模糊とした黒い靄であった。認識妨害の呪術をかけられているわけではない。それは突破している。その上で彼女の目に映ったマリー・スー・ヘレゼクシュの正体――それが闇そのものだったのだ。

 どういうことだろう。ヴァージリアは内心で首を捻る。確かに夜の民は実体としての性質が薄く、存在があやふやだ。変身の過程でこのような姿をとることもあるだろう。事実、幻姿霊スペクターなどは変幻自在に姿を変えるせいで自分の本質すら見失ってしまうという。だが、マリーは地上における眷族種としての夜の民――異獣ならざる青い鳥ペリュトンであるはずだ。有翼の鹿という実体と霊長類の影を持ち、実体と影を自在に入れ替えることで地上における『異形ではない』という立ち位置を確保した種族。人の形態をとれなければ地上から追い出されるため、夜の民は赤子の時点で霊長類の実体を具現化することを教え込まれる。まさかマリーにそれが出来ないとも思えないのだが。

 夜の民は自分の顔を見知らぬ誰かに覗き込まれている事態をどう受け止めて良いのかわからず、完全に硬直していた。ヴァージリアはそれをいいことに知的好奇心を満足させることにした。

 つまり、見るだけではなく触ってみた。

 黒い靄のようなもの――自己を確定させていない未分化の呪的生物。精神が未熟なのか、それとも何か自己を見失うような出来事でも体験したのか。両手で触ったりつまんだり引っ張ったり、押したり引いたりさすったり果ては舐めてみたり。

 ――何だこれは。甘い。夜の民は甘いものが好きだと知ってはいたが、まさか本人たちまで甘いとは。あまりに美味しいのでもう一度。ぺろぺろと舌を出して顔中を舐め回す。我に帰ったら己の不作法さに目を覆いたくなること請け合いだったが、それでもやめられないほどの至純の甘味――食べてしまいたい。

 痺れるような衝撃。顎先から脳天までを突き抜ける打撃。舌から血が溢れて、激痛にヴァージリアは悶絶した。自業自得であったが、ヴァージリアは憤慨して暴力の繰り手を睨み付けた。

 睨み返された。黒衣の内側で、闇の中に浮かぶ青い光点がふたつ。

 マリーは激怒していた。

 黒衣の中から帳面と鉛筆を取り出すと、その場で何かを書き始める。手慣れたもので、罫線の上を滑る筆先には淀みがない。流麗な文字が変移しながら大陸共通語の形をとり、ヴァージリアの目の前に突きつけられた。


『変態め、タマちゃん先生からお借りしたご本を返せ』


 少しだけ、驚いた。

 マリーはヴァージリアのラベルとタグを見て、こうして肉声ではなく文章での意思疎通を選択してくれた――おそらく動転し、怒り狂っているであろう状況で、それでも相手の事情を斟酌するという泰然とした在り方。

 ――これが並み居る候補者を蹴散らした本物というわけか。

 ヴァージリアは内心で唸らされた。これは先程出会った三人とはものが違う。悔しいが、子供じみた嫌がらせをした自分がいかに小さいのかを思い知らされた。現状では、確実にマリーの方が大器だと判断せざるを得ない。

 恥じ入りながらヴァージリアは本を返した。それから端末に文字を入力して、虚空に意思を投影する。


『ごめんなさい。あなたがどんな反応をするか、知りたかった。悪気はなかったの』


 本当は悪気しかなかったが、禍根を残してはいけない。ヴァージリアはマリーに関心を覚えていた。同時にいくらかの好感も。何の衒いも無く、ただ自然に筆談をしようとしたこと。たったそれだけの事だが、ヴァージリアの警戒はそれで緩んでしまった。

 黒衣のマリーはしばらくじっとヴァージリアを睨んで、さらさらと紙に文字を書き付けていく。


『素直に謝る子はいい子だってビーチェが言ってたから許してあげる。だから仲直りのしるし』


 黒衣の袖が差し出したのは、小さな飴玉の包みだった。マリーの言うことはよくわからなかったが、きっと自分にはわからない高度な文脈の話なのだろうと納得した。ヴァージリアは飴玉を受け取って口に含んだ。治癒の呪力が甘味と一緒に広がって、切ってしまった舌が緩やかに癒されていく。それは子供の小さな怪我を治すための甘い医薬品だった。

 再びの感謝の意を示して、自己紹介を行う。ラベルに名前は表記されているのだが、念を入れてヴァージリアという名前を告げる。何故かマリーはそれを初めて知ったかのようにふんふんと頷いていた。帳面にその名前を記す。忘れまいとするように。

 今更ではないのかと問うと、どうしてと疑問が返ってきた。不思議な反応である。マリーはこちらのラベルを見て、公的な個人情報から判断して筆談という手段を選択したのではなかったのか。


『ラベルなんて今気付いた。原因は全然違うけど、言葉を伝える手段は私と同じなんだね。なんだか不思議』


 そして、ヴァージリアはマリー・スー・ヘレゼクシュが喋れないということを知ったのだった。

 生来の呪文使いたる眷族種が喋れない――というと奇妙なようだが、必ずしもおかしな事ではないとヴァージリアは知っている。当のヴァージリアからしてそうなのだ。

 身振りや手振り、そして文字。言語や記号といった物事の連関や意味の構造を扱うのが呪文の本質だ。喋れずとも使える呪文は数多い。魔導書がその代表例である。そしてイルディアンサの耳長の民――兎たちは音声としての呪文よりも文字として書かれた呪文、書物の扱いに秀でている。感覚的な話し言葉パロールよりも論理的な書き言葉エクリチュールを重んずる兎は、呪文使いにもかかわらずどちらかというと物質的な属性が強い。書物とは呪文と杖、双方の属性を併せ持つ。それゆえに兎たちは大神院の序列では第六位という地位に置かれているのであった。

 マリーは声が出せなかった。だから筆談で意思疎通を図る。

 ヴァージリアは耳が聞こえなかった。だから筆談で意思疎通を図る。

 原因は違えど結果は一緒。その日から、二人は声ではなく文字で言葉を伝え合うようになった。

 二人は自然と行動を共にするようになった。お互いにとっての共通言語を持っていたこと。そこに気兼ねがいらないという気安さも手伝って、片や帳面、片や端末で意思を繋いでいく。それは傍目から見ればもどかしいやり取りだったのだが、二人がそれを気にすることは無かった。後からメートリアンを含む三人の候補者がやってきてからもそれは変わらない。誰もがマリーを遠巻きに見つめる中、自分一人が傍らにいることを許されているというのは中々に気分が良いもので、ヴァージリアは得意げにマリーを連れ回して黒百合宮の中を練り歩いた。マリーは歩幅の違うヴァージリアに一生懸命ついていく。とてとてと早足に進み、たまに転ぶ。手も突かずに頭から床に激突する。ヴァージリアはそんなマリーに手を貸す事はしないが、足を止めてじっと待つ。マリーは倒れた姿勢のまましばらく固まっているのだが、やがて何事もなかったかのように立ち上がり、ヴァージリアにのそのそと近付いていき彼女の服の袖を少しだけ掴む。そうして再び歩き出すのだった。

 お姉様方からの授業の合間、二人は専ら庭園で花々を愛でながら本を読むか、地下の大図書館で本を読むかしていた。そうして、お互いが読んでいる本について他愛のない意見や感想を文字にして伝え合うのだった。

 メートリアンからはしきりにメールが送られてくる。主に、マリーとどんなことを話したのか、マリーがどんな様子であるのか。そんな質問ばかりだった。そんなに知りたければ自分で話しかければいいと思うのだが、どうやら出遅れたという意識が邪魔をして入っていけないようだった。音声でまともに会話できないメートリアンならば、マリーとはすぐに馴染めると思うのだが。与えられた部屋の寝台で端末を弄っていると、すぐ傍でごろごろと寝転んでいるマリーが紙を差し出して、何をしているのかと訊ねてくる。ヴァージリアはいつものように何でもないと答え、メートリアンには返信せずに端末を置く。

 小さなマリーを膝の上に乗せて、ヴァージリアは黒く曖昧な生き物を手の中に抱えた。後頭部(らしき部位)を胸にぐりぐりと押しつけてくるマリーの仕草は小動物めいていてヴァージリアの庇護欲をそそった。両者の関係は友人というよりは姉妹で、姉妹というよりは愛玩動物と主人といった趣だった。マリーの心は驚くほど幼い。これで一つ年上の十二歳(夜の民の数え方では二十四歳)だというのだから恐れ入る。無邪気に甘えてくる黒い生き物を、ヴァージリアはぼんやりとした気持ちで撫でてやった。小さな頃、多忙さの合間を縫ってお母様が構ってくれた記憶。女王と王女。公務と修行のために一緒の時間はほとんど持てなかった。けれど、頭の上に乗せられた優しい感触は今も確かに覚えている。それがヴァージリアの原動力だった。マリーもまた、足りないものを求めるようにしてヴァージリアに甘えているのだと、それがわかったから、ヴァージリアは年上の幼子にそっと掌を乗せるのだ。

 互いの欠落を埋めるように。

 ヴァージリアはマリーに幼い頃の自分を見た。マリーもまたヴァージリアに誰かを重ねているのだと感じた。心因性の失声症。その欠落をもたらしたのは、いかなる傷なのだろう。訊ねることは決してしなかったけれど、ヴァージリアの存在が慰めになっているのだとしたら――だったら、なんだというのだろう。ヴァージリアは、己の心の内を掴みかねていた。

 二人は寄り添いながら夢を見る。お互いに重なり合わない、あり得ざる夢を。

 そこに昼夜の区別は無い。月夜を友とする二人は昼寝を充分にとって一日を始め、また夜に一日の始まりの朝食を摂っては朝に締め括りとなる夕食を摂り、その逆をも自由に行う。他の住人たちは面白がってそれに付き合ったり、己の生活習慣を維持したりと様々だ。

 彩石の儀はその間も行われた。そしてやはりマリーは圧倒的だった。

 二人揃えば最大の脅威となる明暗の妄想姉妹と渡り合い、無尽蔵に増殖する青い細胞の群れを薙ぎ払い、天才的なセンスを誇る朱の翼と激戦を繰り広げ、完璧を体現する紫の王者を正面から打ち破る。

 ヴァージリアとマリーは黒百合宮ではいつも一緒だった。けれど、あのアストラルの空では別だ。ヴァージリア=ブラックは恐るべき強敵たちの動きを警戒し、分析し、己に出来る最善の行動をとり続けた。瞬間ごとにめまぐるしく変転する状況の中で、自分が最も利益を得られる選択肢は何か。膨大な思考の果てに最適手を素早く選び取る。頂点を争っている集団には能力で一歩劣っていることは自覚していた。ゆえに思考する。完璧に立ち回り、展開を予測し、状況に逐次介入して理想的な状況を作り出す。そうすることで常に上位に食い込み続けた。そうやって努力を重ねても、二位が限界だったのだけれど。

 どうしてもアズールが――マリーが倒せない。

 工夫と策略によって格上の相手にだって勝利できる。そんな信念をまるで寄せ付けない、圧倒的な才覚。

 嫉妬も憎しみも、二人の間には似つかわしくない。

 けれど、諦めだってありえない。

 甘えてくる小さな黒衣の矮躯を抱きしめながら、ヴァージリアは自問する。

 この関係性は、己の優越感を保つ為のものなのだろうか。

 だとしたら、これは毒だ。誰にとって? もちろん、ヴァージリアを蝕んでいく、甘い甘い劇毒に他ならない。あるいは、麻薬と言った方が状況に即しているやも知れぬ。

 抱きしめる感触は甘美だった。胸に広がる優しい気持ちは温かだった。手放すなど、もう考えられない。

 それでも――いつかきっと別れは訪れる。訪れなければならない。なぜならばマリーは相対すべき敵手。憎しみがなくとも、己の意思を通すために打倒せねばならぬ競争相手。それは悲しむべき事ではないけれど、少しだけ寂しいとヴァージリアは感じた。




 ある時、それは唐突に訪れた。

 広がる暗色。寝台の敷布を濡らす漆黒の染み。

 ヴァージリアの顔が蒼白になった。羞恥に染まるよりも恐怖が先に訪れる。動転する思考の中で、来るべき時が来てしまったのだとすぐに気付いた。黒い血――墨を垂らしたような、文字を書き記そうとするような、それは夜闇の如く光を吸い込む体液であった。ヴァージリアの恐れは、それをすぐ傍の小さな友に知られてしまうという事に起因する。その肉体の秘密。あり得べからざる両耳と異形の身体、そして呪われた血。

 嫌われたりはしないだろう。きっとマリーはそれを理由に拒絶などしない、そんなことは理解している。マリーへの信頼は共に過ごした短い期間で充分に培われている。そうではなく、ただ『違う』と思われてしまうのが嫌だった。隔意とも呼べぬ僅かな認識。ただ『当たり前ではない』と意識され、『それでも今まで通りに接するようにしよう』と優しく決意されるのが耐え難く思えたのだ。お互いが対等である――必然から筆談を行うという在り方がヴァージリアをマリーに向き合わせることを可能としていた。それは能力において劣っているという自覚がヴァージリアを傷つけないための、危ういところで保たれている均衡だった。

 果たして、マリーは己の血を見てどんな反応をするのだろう。

 マリーは青い光を丸くして、霊長類やそれに類する眷族種たちの不思議にひとしきり驚いた後、どう反応するか迷いに迷い、やがておめでとう、と帳面に書き付けた。

 血の色に関する反応は、一切無かった。

 結局その後はメートリアンを頼る事になってしまった。年上の彼女は普段の振る舞いからは想像できないほどの面倒見の良さを発揮して、洗濯や手持ちの使い捨ての道具やそれに関する注意点などの細々としたことを文章にまとめてくれた。

 その所為でメートリアンには自分の秘密を知られてしまった。案の定、彼女はヴァージリアに対する見方を変えたようだった。けれどそれは予想したような嫌なものではなかった。どうしてなのか、それからメートリアンの視線には隔意というよりは同情するような、共感めいた感情が見え隠れするようになった気がしたのだ。

 そして、メートリアンとマリーの決定的な反応の違いから、ヴァージリアはその事実に辿り着いた。

 色無しマリー。

 マリー・スーがそう呼ばれていることを、ヴァージリアはその時になってはじめて知ることになる。

 彩石の儀ではデーモンを色で識別する。マリーは全てのデーモンが同じように感じられるのだという。全てが同一で差異など無い。ゆえにマリーは無敵だった。個体の優劣など嘲笑うかのように絶対者として君臨する。

 声だけでなく、色もわからないというマリーは、世界をどのように捉えているのだろうか。なんとなくだが、ヴァージリアが感じているそれとはまるで違うのではないかと思えた。

 ヴァージリアは欠落を抱えている。彼女は音を完全に理解しているが、音というものがわからない。

 マリーは欠落を抱えている。色とは何かを充分に学んでいるが、色というものがわからない。

 だが、声についてはそれが何かすらもわからないとマリーは書き記していた。

 声と言うよりも、言葉。

 言葉ならば今まさに使っている。紙に文字を書き記しているではないかと指摘すると、そうではないとマリーは沈み込む。

 誰よりも優れた呪文使い――言語の拡張を司るものが、自らが何を手にしているのかわからないと言う。ヴァージリアはそのことにどうしようもないほどのもどかしさを感じた。そして言いようのない怒りを。

 そう、怒り。それはやるせないという憤りだった。

 だってそうだろう。そんなのは余りにも悲劇的過ぎて、喜劇にすらなっていない。


『じゃあ、ジルが一から教えてあげる』


 自然と、その言葉を紡ぎ出していた。

 それがはじまり。過去から未来へと続いていく物語の、最初の一文。


『今日からジルが、マリーの先生。マリーはジルの弟子になるの』


 いずれ言語魔術師となる幼き月の姫君と、いずれ英雄となる色のない小鳥の、失われた約束。

 追憶の彼方に消えた、遠く色褪せた泡沫の日々。



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