1-2 無彩色の左手、鎧の右手②


 まさかいきなり反撃されるとは思っていなかったのだろう、混乱した人狼は俺の繰り出す打撃に退き、たたらを踏み、みぞおちに突き刺さった肘の一撃に息を吐き、咥えていた俺の左腕を宙に放ってしまう。


 いや。

 その直後、かっと目を見開いて、放られた左腕をまるで俺に渡すまいとするかのように素早く掴み取ると、その場から大きく後ろへと跳躍する。

 不可解な動きだった。そんなにも俺の左腕のしゃぶり心地が良かったのだろうか。犬っぽい行動といえばそうだが。


 これが転生後のオプションによって、俺の左腕に世界を左右するような神秘的・魔術的な力が与えられてるとかだったら、それを巡って物語が展開したりもするのだろう。費用をケチったせいでそういうことは一切無い。


 困惑するこちらをよそに、あちらはあちらで警戒を強めているようだった。無力なだけの獲物が急に反撃してきたのだから当然の反応だが、腕を奪われたままなのも困る。


 この世界の医療技術がどの程度のレベルなのかは不明だが、もし左腕が繋がる見込みがあるのなら取り返しておくのが望ましい。

 だが怪物とこれ以上戦い、勝利することが(あるいは腕を奪った上で逃走することが)できるかどうかはわからない。


 さっきは不意をついたから攻撃が命中したが、次も通用する保証は無いのだ。サイバーカラテ道場があるとはいえ、俺は一般人である。格闘家とか軍人とかと違い、まともな訓練を受けたことがないのだ。

 逆に、あの人狼がそこまでの強さではないパターンもあるので、見極めが難しいところだ。


 逡巡する俺の目の前で、人狼はじりじりと後退していたかと思うと、だしぬけに反転して走り去る。

 あまりにも素早く、潔い逃走であったために一瞬呆けてしまったが、慌てて追いかける。


 尿と血が混ざった床で転ばないように気をつけながら通路を走り出す(流れた血の量にぞっとした。幸い致死量には達していなかったようだ)。

 細く狭い石造りの通路はそう長くない。前方、人狼が丁字路を右折したのを見て、右手で着ていたシャツのボタンを外しながら、通路の左側に寄りながら走る。


 曲がり角で待ち構えていた人狼に反撃される可能性を考慮しての事だ。

 血を吸って重くなったシャツを、曲がる直前に立ち止まって投げる。

 シャツを飛び出してきた俺だと誤認して、反撃が来るかも知れない。

 果たして血に濡れた衣服は重力に従って床に落ちた。

 どうやら、飛び道具での奇襲は無いようだ。


 右腕で顔をかばいつつ、慎重に様子を窺う。誰もいない。

 どうやら俺が転生した場所は迷宮のようになっているらしく、道が複雑に分岐していて人狼の逃げた先はわからなくなってしまっていた。

 慎重になったのは結果的には間違いで、全力で追いかけた方が良かったというわけだ。


 左腕をもっていかれるという失敗をしたものの、あまり後悔は無い。

 あの時点では俺はそう行動するしかなかった。そういう性分なのだから仕方がない。俺は左腕を一旦諦めた。

 さてどうしようか。脳内では未だに待ち時間を示すジングルが鳴り響いている。


 考えながらも、俺の右腕はよどみなく動く。服を脱いでいるのだ。

 ポケットに入っていたティッシュで尿と血を拭いていく。下着にこびりついた大便はやや軟らかく、動いたせいでぐちょぐちょになっており、残り少ないティッシュで拭き取ってまた履き直すのは困難なように見えた。あと臭いが残るので生理的に嫌だった。


 汚れたティッシュと下着、ズボンをまとめて通路の隅へ放る。

 臀部や脚に付いた汚れは綺麗に拭き取ると、ティッシュが尽きた。

 血に汚れた左腕の断端を見る。生体マイクロマシン群の働きによってほぼ血は止まり、早回し映像のように急速にかさぶたで覆われつつあるが、一応ハンカチで縛っておく。あまり清潔とはいえないが、やらないよりマシだろう。

 右手と口を使ってハンカチを縛るのは中々骨が折れた。

 

「なにしろ骨ごと食いちぎられたからなあ」

 

 呟いてみたが、想像以上につまらなかった。

 悪戦苦闘の後、どうにか左腕の処置は終わった。痛みを感じないからこそ可能な芸当だが、あまり手荒に扱うのも良くない。

 

「よし」

 

 小走りに移動して、角を何回か曲がる。周囲を見回しても、背後に捨てたものはもう視界に入らない。

 

「よし」

 

 独りで頷く。

 と言う所で、丁度ジングルが鳴り止んだ。

 

「大変お待たせいたしました。異世界転生生活サポートセンターでございます」

 

「実は服が再構成されてないみたいなんですけど、なんとかならないでしょうか」

 

 全裸になったのは俺なりの計算というか保身、あるいは羞恥心の為だ。

 つまり、転生時のトラブルで全裸になってしまったということにすれば、全裸の俺という犯罪的な状態の責任を俺の脱糞ではなく保険会社ないしは転生業者、システムや機器に押しつけられるのではないかという意図である。あっこれちゃんと調べられたらバレるんじゃね? と短絡的な行動を一瞬悔やんだがもう遅い。

 

「申し訳ございません、異世界でのトラブルに関しましては、基本的にはお客様ご本人が独力で何とかしていただく、ということになっておりまして」

 

「ええと、見てわかるとおり、全裸で更に左腕を負傷しているという状況なんですけど、このまま死んだりしても関知しないってことですか」

 

「はい。そのようになります」

 

 こちらからは見えないが相手は女性のようだ。異性に冷たい声で貴方が死のうが生きようが知った事じゃない、とか言われると興奮するな。全裸を晒しているというのもポイント高い。露出に目覚めそうだ。

 ――つくづく、俺は冗談のセンスが無い。

 

「それと、申し訳ございませんがお客様、現在、音声通信は繋がっているのですが、どうも映像が繋がらないようです。『遠い』異世界ですとまれにこういったトラブルが起きてしまう例がございまして、よろしければお客様が転生されている異世界の登録管理番号を教えていただけないでしょうか」

 

 こちらからの要求は通らないのに、あちらからの要求は一方的にされる。なんだか釈然としないものがあるが、決まりなので仕方がない。

 しかし、映像が繋がらないというのはやはりおかしい。義肢や脳内インプラント、体内のマイクロマシンなどが全てそのまま再構築されていることも含めて、何かトラブルがあったのだろう。


 一瞬、迷いが生じた。理性は正直に状況を打ち明けるべきだと告げている。異世界転生に関する法律をきちんと学んだことが無い為、こういうケースで自分が罪に問われたりするのかどうかはわからない。


 普通に考えたら無いはずだし、こういうのはむしろ保険会社や転生技術機器の製造や管理会社の責任になるのではないだろうか。

 だとしたら俺の現状を話すことに問題は無いはずだ。


 色々と俺のことについて調べられて、義肢やマイクロマシンは回収、欠損した右腕部分は再構成、ということになって終わりの筈だ。


 ――俺が犯罪者でさえなければ。

 通常、被保険者が犯罪行為を犯して死亡した場合、また契約から一定期間以内に自殺した場合、もしくは噴火、地震、津波、戦争などにより死亡した場合には転生は行われない。その為、強盗殺人や事故に偽装して転生を手助けする殺し屋という違法な職種が存在するくらいだ。


 というか、俺のことなのだが。

 前世紀までに流布していたイメージとはやや異なり、殺し屋は荒事屋というよりも詐欺師などに近い。暴力沙汰が皆無とは言わないが、自殺ではないと見せかけるための偽装工作が主な仕事だ。


 付け加えると、依頼人と殺害対象がイコールで結ばれるのがほとんどである。

 そうでない場合は、安楽死認定が難しいにも関わらず本人や親族が死亡と転生を望んでいるようなケースで殺害対象の周囲から依頼が舞い込む。


 どこそこの組のだれそれの首をとってこい、というような依頼は、まあ無くもないが本業ではない。そういうのは歩く兵器そのものであるスモーレスラーだとか、全身を義体化したブシドー、生体強化したニンジャとかの役目だ。


 俺の義体化レベルは右腕を中心とした右半身及びマイクロマシンによる生体強化だけ。

 これは一般人の範疇だ。

 軍人や格闘家が行う正規の訓練――遺伝子レベルで完璧にデザインされ、分刻みで管理された超人育成プログラムなどは受けたことがないし受けたくもない。


 サイバーカラテ道場を適切に運用する為に必要最低限のトレーニングくらいはしていたが、それだって日々ジムに通ったり公園を走ったり道場に足を運んだりするようなものだ。そんなことは誰しもが日常的にやっていることである。


 俺はあくまでも一般人なので、地味な転生目的の自殺幇助とそれを事故や他殺に偽装するのが主な仕事だ。

 そんな俺のようなけちな殺し屋を【トラック運転手】などと呼ぶ者もいた。


 交通事故に偽装して転生を手伝う時、重量のあるトラックを用いる手口が多い為だ。

 転生技術が確立されて以来、このような殺し屋の需要は少しずつ高まっていった。


 俺はその隙間に入り込んでちまちまと稼いでいたわけだが――。

 基本的に、犯罪者の転生は法律で禁止されている。

 異世界転生技術は日本の死刑廃止を決定的なものにしたが、同時に闇転生業者の増加と犯罪者の転生逃亡が問題となるであろうことが予見されていた。



 転生後に有罪が認められた場合、転生者は元世界の法によって裁かれる。世界間通信によって裁判が行われ、判決に応じた刑罰が与えられる。これは強制である。


 罰金は異世界では意味が無い為、労役か禁固刑が主であり、自主的な『ひきこもり』もしくは異世界での調査活動や研究報告などを求められる。この間は厳しい監視が付き、行動も大幅に制限される。労役義務を放棄すると四肢や五感を情報凍結されるというから、必死にならざるを得ない。


 転生技術の黎明期に異世界を逃亡先に選んだ不運な、そして愚かな重犯罪者たちが全情報を凍結され、生きたまま異世界で停止し続けている様子は、異世界ライブ映像で今もなお全世界に晒され続けている。


 受刑した後に死んで異世界転生したのならともかく、俺の罪はおそらくまだ裁かれていないはずだ。というか犯罪そのものが露見していない。

 俺が犯罪者だと知っているのは俺と被害者、依頼人や仲介人などの関係者だけだ。俺が異世界にいるということは、被害者が転生した後で俺の犯行を証言したりすることもなく、俺は犯罪歴の無い普通の死者と判断されて転生したのだろう。


 しかし、詳しく調査が行われた場合、前世での犯罪が露見する可能性がある。

 前世との通信を、やめるべきだろうか。

 脳裏を全世界に配信される凍結犯罪者の映像がよぎった。なにもない空間に固定された裸体、情報の入出力だけが行われ、緩慢な脳死の後ぷつりと映像が途切れ、俺という存在が情報的にも意味的にも消失する。

 迷いながらも、口が動く。

 

「すみません、なんだか繋がりづらいみたいで、あー、あー、聞こえてますか? なんだかノイズが凄くて、よく聞き取れないんですが」

 

「お客様? こちらからはなん――せんが――――様? 聞こえ」

 

 その場しのぎの言葉のつもりだったが、どういうわけか現実になってしまったようだ。音が途切れ途切れになったかと思うと、そのままぷつりと消えてしまった。

 何かしらのトラブルが起きていることは間違いないらしい。


 こうやって誤魔化していても、トラブルが起きていることが明らかな以上あちらからも調査が入るだろうし、いずれはボロが出ることは避けられない。当面は保険会社の調査部かサポートセンターからの再度の連絡が試みられるだろう。このまま知らぬ振りを続けられるというのは楽観的過ぎる思考だ。かといって覚悟を決められるかというと。

 

「うーん」

 

 唸ってしまう。どうもすぐには結論が出そうにない。

 思考を保留にする。まず異世界での身の振り方を決めよう。もし仮に犯罪が露見したとしても、即座に第二の人生が終了することはない。冤罪を防ぐために、それなりの期間、調査や裁判が行われるはずで、その間も俺は異世界で生活し続けなければならないのだ。



 生活するとは、寝て起きて、食事をして排泄をして、あと服を着たり脱いだりすることだ。

 そう、差し迫った問題として、俺は全裸である。

 石造りの通路の中はそう寒くはないが、このまま全裸でいて良いという理由にはならない。


 転生のパターンの中では赤ん坊から生まれるものも人気らしいが、俺のように成年期の肉体で異世界に降り立つ場合、普通は服を着ているものだ。確か俺は元世界の衣服ではなく現地の一般的な衣服を希望していたはずだが、残念ながら何らかのトラブルにより俺は全裸のままこの世界に転生してしまった(ということにする)。


 汚れたから捨てた? 何のことか分からないな。

 現地の服が再構成されていないのはどう考えても俺の責任ではないので、俺が全裸で迷宮を歩いているのも仕方がない。

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