幻想再帰のアリュージョニスト
最近
第1章 隻腕義手のスワンプマン
1-1 無彩色の左手、鎧の右手①
「出来るだけキツイ異世界がいい。とびっきり悲惨で、とびっきりハードなやつが」
転生保険に加入するとき、こんな注文をする人の割合はそれなりらしい。
およそ七割が安全や安心を求める一方で、残り三割は「ほどよくバランス調整された人生の厳しさ」を欲するのだという。
理由は、何もかも安全では生活に張り合いが無いからとのことだ。
見栄やプライド、今までの成功体験から来る将来への自信。
「多少の危険がある方が人生は楽しめる」などと、先進国で豊かな暮らしを享受しながら言ってのける。
不慮の死という危険に対しては保険をかけておきながら、そういう事を言える余裕が、異世界ビジネスによって隆盛した現代日本にはあった。
けれどそうした人々の大半は、保険会社の安全調査部や転生後生活の支援活動課などのたゆまぬ努力によって転生後を楽しめているだけであって、実際に「悲惨でハード」な異世界に放り込まれた場合はまず間違いなく掌をくるっとかえして「帰りたい」とか泣き言を言うに決まっている。
――俺がそうだ。
「死にたくない死にたくない死にたくない死にたくない」
おわかりいただけると思うが、死を目前にした人間というのは変な脳内物質をどばどば出してでもいない限り、ほとんどが混乱するか萎縮するかだ。第三者から見て「さっさと逃げろ」という状況でも、体が竦んで動けないということがよくある。訓練されていなければなおさらだ。
屈強な兵士でも死の直前は母親を呼ぶという話だし、平凡な市民であった俺が命の危機に直面して、へたり込んで失禁どころか脱糞し泣きわめいているのも仕方のないことだ。ほら徳川家康も三方原の戦いで脱糞したっていうし歴史的に見れば多分そんなに恥ずかしくない、大丈夫。
なんとなれば。
左腕が肘半ばで千切り取られ、盛大に血が噴き出している状況なのだから。
大量の体液が石造りの床に血だまりを作り、流れていく。天井の低い通路であるため、血の臭いはしつこくたちこめていく。
失血死が目前なのに、恥や外聞など気にしてはいられない。いや、当座生き残れたら雑菌とか衛生面のことも考えないといけないから綺麗にしなければならないけれど。
それはともかく、死ぬ寸前である。
「たすけ、誰か、誰かたすけて――!」
断端部を右手で押さえながら、必死に叫ぶ。適切な治療を受けねばというのもそうだが、状況をより差し迫ったものにしているのは、朱塗りの武具に身を包んだ山県昌景――ではなく、目の前で左腕をむしゃむしゃと咀嚼している怪物だ。
いわゆる人狼というのか、直立二足歩行で人のような手を持つ狼が、俺の腕を生のまま喰らっていた。
剣のように鋭利で長大な爪から血が滴り落ちる。体毛があるためか、身につけているのは鉄の胸当てや要所を覆う具足のみだ。
野蛮と知性とを兼ね備えた、地球上では考えられなかった異形の生物。
それはいい。モンスターとか異種族とか、取り寄せた資料にも載っていたし今日び異世界の情報なんて幾らでもネットで仕入れられる。契約する際に口頭で説明もされた。
危険がある異世界を選んだのも俺自身だ。サインをして印鑑も捺した。
だが、こんなにキツイなんて知らなかった。こんなに恐ろしいなんて聞いていなかった。
俺はあのときに間違えたのだ。
オプションにあった異能も、魔法も、強靱な肉体も、頼れる仲間やペットなども一切インストールしなかった。 こんなに早く死んで転生するだなんて本当は考えてすらいなかったから、「どうせ後で変更できる」とか「オプションとか高すぎるし貯金に回した方がいいや」とか考えて、保険会社の再三に渡る勧めを「がめつい連中だな」とか思いながら突っぱねた結果がこれだ。
思えば「本当によろしいのですか?」「もし不測の事態が発生したとしても、それに関して弊社は一切責任を負いかねますので、あらかじめご了承ください」「シンプル・最低限プランのお客様は転生後のトラブルが多く、あまりおすすめできないのが現状です」などと懇切丁寧に説明されていたのだ。
とにかくまずい。
なにせ、一度転生したらその後が無い。転生先で死んだらそこでアウトだ。
いや、超高額の、ループ+異世界転生のプランもあるらしいのだが、そこまでの金を用意できるのは一握りの富裕層だけだ。
このままだと死ぬ。
だから、俺はこの窮地を自力で脱出しなければならない。
「くそっ、来るな、来るなぁっ」
腕をしゃぶり尽くしたのか、血まみれの左腕を咥えたままこちらへにじり寄る人狼に対してできる事など何もない。俺の左腕を切断した剣の切っ先が、ぎらりと輝く。
俺に許された悪あがきと言ったら、せいぜいが傷口を押さえていた右手をむちゃくちゃに振り回す程度――その瞬間だった。
『非常用回線をお繋ぎします。異世界転生に関するトラブルなどに関してはAを、ご契約内容の――』
一瞬で思考が冷えた。
「え、Aを! 急いで!」
『ただいま回線が大変混み合っておりますので、少々お待ち下さい』
「待てない! 早く、早く!」
無情にも脳内に響く待ち時間専用ジングル。
そう、『脳内』に直接響く音だ。
たった今繋がったのは、まず間違いなく転生後のトラブルに対応する為のサポートセンターだ。間世界通信がこちらから通じている。
「何で」
本来は通じるはずが無いものだ。だからこそ生存を絶望し、恥も外聞もなく泣き喚いていた。
疑問の答えは、宙に突き出した右腕だった。
「そうか、ハンドジェスチャー」
脳内にインプラントされたマイクロマシンは思考制御や外付けのハードウェア以外にも、肉体のしぐさを読み取って動作させることが可能だ。
標準機能ではないが、据え置き機のマウスジェスチャのように好みや使いやすさで使用する者もいる。
俺がそうだ。
たった今、人狼を遠ざけるためにしゃにむに手を振り回したときに、偶然『緊急時の連絡先』にコールする操作を行ってしまったのた。
しかしこれはおかしい。
元世界の技術は、原則として異世界に持ち込んではならない。国内法でガッチガチに規制されてるし国際法でも禁止されてるし間世界条約でも絶対に禁止だ。
転生の際、こうした技術の持ち込みが無いように厳重にチェックされ(その代わり転生先の世界に適した特殊能力などが与えられる)、現地で肉体を再構成される。
それが、何の手違いなのか、技術を異世界に持ち込んでしまっている?
振り下ろされた爪の斬撃を右手で受け止めながら、俺は事態の重大さを把握しつつあった。
俺の右腕の肘から先は、現在の地球における最先端の電子制御技術によって作られたサイバネ義肢だ。表皮は特注のチタン合金製。恥ずかしいことに、たった今存在に気付いた。さっきまで生身の腕が再構成されていたと勘違いしていたのだ。
衝撃を外側に逃がしつつ、状況のまずさに顔を顰める。
たとえ自分の体同然の義肢であっても、これは異世界への元世界技術の持ち込みに当たる。
普通、俺のような義肢を用いている者が死亡した場合、転生先で新しい腕が再構成される。
転生先の異世界が、元世界の下位レイヤーに位置しているが故の、ほぼ万能の創造。上位世界である地球に住まう人々は、下位の異世界に対して、法を犯さない範囲で全能に近い力を行使できる。
「やばい」
重罪を犯した可能性がある。
というか俺個人だけの問題にとどまらず、この異世界転生保険会社の管理責任とか社会的責任などが問われることになるはずだ。
最悪の予感に身を震わせるが、それはそれとして急場は凌がなくてはならない。
待ち時間のジングルはまだ鳴り響いている。サポートセンターは今日も忙しいようだ。
思考制御で痛覚レベルを落とす。冷静になってみたら泣き喚くほど痛くは無かった。びっくりしたので過剰に痛いような錯覚に陥っただけで、自動的に耐えられる痛覚レベルになっていたようである。
左腕の止血を体内のマイクロマシン群に命令するが、既にマイクロマシンが自己修復を始めていたのであまり意味が無かった。
痛覚レベルを低下させたことによって神経伝達の感度や運動の正確性が低下。脳内で起動させたアプリケーション群に運動系機能をアウトソーシング。
痛みが他人事になる。肉体から意識が切り離され、俺ではなく規定のプログラムが運動を制御する。
――格闘動作制御アプリ【サイバーカラテ道場】を起動、網膜にデフォルメされたAR人体が投影され、図像の足部分が赤く発光する。
勢いよく立ち上がると同時に右腕を払い、人狼の爪を弾く。「GOOD!」の文字が視界を踊る。ボトム内でうごめく大便が気持ち悪いが今は無視。
『左腕が無い状態での最適な格闘術』をサイバーカラテ道場独自の見解(国際サイバーカラテ連盟審査済)に従って算出、図像の左足部分が赤く光る。不均等になった左右の重量バランスを調整。
俺が左足に体重をかけると、「GOOD!」の文字が輝き、赤い光は膝、大腿部、腰から右肩、肘へと移動。それに合わせて重心を移動させることで交叉する「GOOD!」と「CHAIN!」の文字。
「発勁用意」
の漢字が胸部分に表示されたら攻撃のタイミングだ。
「NOKOTTA!」
という怪しげな発音の日本語めいた脳内サウンドを合図に、体重の乗った肘打ちが人狼に直撃。表示される「HIT!」の文字。
続けてローキックの追撃。更に右のチョップ。踊る「COMBO!」。
動作アシストに従って動けば、俺のような一般人でも簡単にサイバーカラテの達人になれる。ちなみにサイバーカラテはネオアメリカ発祥の機械化人体を前提とした格闘術である。
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