伸ばした手の行方 (2022.12.31)
ざりざり、と音を立てながら、彼女は岩塩を削っている。行先は、卵かけご飯。
彼女は白米が嫌いだ。だから、ふりかけをかけたり、おかずをたっぷり乗せたり、丼物にかじりついたりする。今は卵かけご飯のブームが来ているらしい。
卵には、鉄分が含まれていたり、鉄分の吸収を良くしたりするはたらきがある、らしい。確かに、毎月のように貧血で真っ青になっている彼女には、これ以上ないくらいぴったりの食材だ。
まあ、心配事が一つあるが……。
「ん、このくらいかな」
満足したらしい彼女は、ようやく岩塩の入った瓶を机に置いた。
ご飯の表面一帯が塩できらめいている。
「塩分過多……」
「うっさい」
手刀が優しく降ってきた。
◇◆◇
僕は識(しき)、きみは奏(そう)、だから色相、と彼女は僕らのことを言った。その通り、色彩の鮮やかな人生を、彼女と数年歩んでいた、気がする。
補足。彼女は所謂『ボクっ娘』だ。ある日突然口が「僕」と言い始めた、らしい。
「かたかたかった、かたかった〜、たったかたかたかたったかた〜」
そんな彼女は、奇妙な言葉を口ずさみながら皿を洗っている。そんなミュージックをバックに、僕は持って帰ってきた仕事をこなす。
「ずんちゃっちゃ、ずんちゃん、たったかたったか」
多分深い意味はない。というのも、彼女は過去に吹奏楽部でドラムを叩いていたからだ。その頃からやけに、口でリズムを取ったり、手で机をリズミカルに叩いたりしてる場面を見る。
吹奏楽部。だいぶ懐かしい響きになってしまったな、と頭の片隅で思う。
「でさあ、少年さん」
「ん?」
振り返らずに答える。返事をしないと話を聞いてると思われない、というのは長年の付き合いでわかったことだ。
「ボエちゃんもう吹かないの?」
……だいぶタイムリーな話題が来た。
いや、もしかすると自分で口ずさみながら、彼女も思い出したのかもしれない。
説明しよう。ボエちゃんとは。
僕が昔吹いていた楽器のことである。その名もオーボエ。音色は『白鳥の湖』と言えば伝わるはず。ファ〜シドレミファ〜レファ〜。正確に言うと違うけど。
過去の彼女は、僕の持ってるオーボエのことを「彼女さん」と呼んでいた。楽器の製造番号で、その楽器が男か女か決まるらしい。まあ楽器に男も女もないよなあ、と思うし、彼女も今は「彼女さん」とは呼んでいない。
「前はさあ、ほら、たまに吹いてるとか言ってたじゃん。でも同棲始めてええと、五ヶ月くらい? 今まで一度も吹いてるところ見たことないんだけど」
心なしか、彼女の手つきが荒くなってる、気がする。陶器のぶつかり合う音が痛い。
うーん、と曖昧に唸りながら、彼女の方を向く。寸胴鍋をひっくり返して、ごしごし洗っていた。
そんな様子を見守りながら、答える。
「吹く気はあるんだけどねぇ」
「っていう話、これで何度目だと思ってんの?」
彼女はちらりと振り向くなり、睨みつけてきた。その片手間で水圧の調節に苦戦しているようで、音が強くなったり弱くなったり、なんだか楽しそうだ。
とか言ってここで笑うと「だから洗い物嫌いなんだよ、笑うならお前が洗えよ!」と怒ってくるに違いない。それはそれで可愛いし、別に言われたら洗うので何の問題もないが、どこで彼女が機嫌を損ねるかわからないので、やめておこう。
寸胴鍋の泡を流し終わって、洗い物おーわり、と呟いた彼女は、手を拭くなり僕の隣へと移動してきた。
今更この距離でどうこう言うつもりはないが、四六時中好きな人と触れ合えるのは、やはり何とも言えない喜びとくすぐったさに包まれる。
「かれこれ三回くらいはこの話してると思うのだけれど?」
「そうだっけ?」
答えながら、彼女の腰に手を回す。相変わらず細いなあ、と思う反面、あんまり人のこと言えないんだよなあ、とも思う。
彼女がジト目でこちらを見てきているが、知らんぷりしておく。
「お前ほんと記憶力悪いよなぁ……」
ため息混じりに言われた。日記でも書いたら? という台詞付き。
彼女は事ある毎に「記憶力悪いよねえ」「日記書いたら忘れないんじゃない? ある程度は」とセットで言ってくる。かく言う彼女も忘れっぽいところはあるので、お互い様というやつなのではないか。
お互いに暗記系は苦手だったでしょ。勉強と日常生活は使ってる脳みそが違う、という反論はその辺に置いておこう。
◇◆◇
そんな平凡で安寧な生活を送れる、だなんて考える隙もない日々を、布団に転がりながらぼんやりと思い出してみる。
……あの頃の喜びも痛みも、こんなに和らいで、優しい記憶になってしまった。そのことにどこか安堵している自分も、悲観してる自分もいる。
でも、和らげたのはきっと、彼女のおかげでもある。多分。
中学校の吹奏楽部。僕はそんな空間に、あまりいい思い出がない。
一つ上の先輩にはいないもの扱いされ、一つ下の後輩には細々といじめられていた。まあ、後者はあまり気づいていなかったが。
何度も何度も死にたいと願ってるうちに、心が死んだ。体だけはすくすく成長して、オーボエの技術も少しずつ成長して、外見だけは健康な人間だった。
涙を流すことを忘れ、人と関わることを避け、一人の殻に閉じこもる生活。
そこから抜け出せたのは紛れもなく、彼女がいたからだ。
いつもどこかふわついてて、危なっかしげで、でもしっかり者で、空回ってて、感情表現が豊かで。そんなきみが僕に話しかけてくれたから。
でも彼女は、「きみはきみで話を聞いてくれたから」と言う。
だから、お互いがお互いに手を伸ばして、いつの間にか手を差し伸べていた。
「ねえ、少年さん」
不意に彼女が寄ってきた。屈んで僕の顔を覗きこんでくる。まだこの人は寝てなかったのか。
「なあに」
「起きて、ゲームしよ」
いつものように、小さく手を差し出してくる。
ちらりと壁掛け時計を見ると、午前一時を指していた。いや、いくらなんでも遅すぎないか。
何より今日はなんてことない日曜日。明日は仕事なのだ。まあ、寝れてなかった自分もいるが。
「そしてオールしてしまおう」
「それは遠慮するかな」
仕方なく、彼女の手に僕の手を乗せる。
「二時には寝るよ」
「かしこま〜」
やさしく握られた感触は、あの日の行方を示していた。
色相夫婦 月兎 @tkusg-A
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