第18話 天魔の業火を逃れた俺が、吸血鬼の真の姿を見る話。

 背中から三対六枚の黒い翼を広げたクロウ。

 彼女の両眼が放った光によって部屋の壁が業火と共に蒸発した。


 特性〈ドーンブリンガー〉、種族〈天魔〉。

 彼女のIDはHEXによって完全に変異してしまった。


 クロウの両眼の光がやや弱くなった。テーブルの上にうずくまるように、頭を抱えて呻いている。


 崩れ落ちた部屋の壁を見ていたニコラスは、小さく笑い声を挙げた。

「凄いな、石造りの壁を一撃で! しかも――」

 うずくまるクロウのうなじに移殖されたHEX。パネルは青色に発光していた。

「色はグリーンか、IDに適合している! 喜びたまえウツロミ君、成功だぞ」


 クロウが勢いよく天井をふり仰いだ。彼女の両眼の光が再び強さを増している。

「があああッ!」

 クロウの喉から放たれる声は、悲鳴を通り越して咆哮のようだ。彼女の顔がこちらに向けられた。目の光は益々強くなっていた。


 視界の先には、首無し兵士兵士に両脇を抱えられたアイカの姿。

 まずい。


 トヲルは自分の倒れている床に向かって手をかざした。

「〈ザ・ヴォイド〉!」

 彼を中心に、半球状に床が陥没する。

 彼を踏み押さえていた兵士がバランスを崩すと同時にトヲルは床を蹴り、アイカに走り寄った。

 兵士ごと押し倒す勢いで全体重をかけて彼女の腰の辺りに飛びつく。


 辺りが白い閃光に照らされる。


 頭上を熱を帯びた圧力が過ぎる気配を感じつつ、トヲルはアイカの身体とともに床に倒れ込んだ。

 振り返ると、床から背後の壁にかけて、斜めに薙ぎ払ったような軌跡で熔解ようかいしていた。

 トヲルを斬りつけた兵士は、その軌跡の上にいたらしい。熱で上半身を焼き尽くされて下半身だけで立っていたが、そのままぐらりと揺れて床に倒れた。


 トヲルの全身に戦慄が走る。

「……何だこの力……」


 部屋の壁や床に残る炎熱に横顔を照らされたニコラスは、ひとり平然と佇んで様子を眺めていた。

「ふむ、HEXに適合してはいるものの、特性をまともに制御できていないようだな。強力すぎるゆえか……やれやれ、これではフロアごと蒸発してしまうぞ」

 喋りながらきびすを返し、部屋の奥に向かい出す。

「まあ、よかろう。本会議場も潰れてしまったし、結局この市庁舎は建て直さねばならないからね。この際だ、壊せ壊せ」


「ニコラスッ! どこに行くんだ!」

「私の執務室だよ。焼かれては困るものなどを整理しておこうかと思ってね。彼女の扱いはもうしばらく状況を見てから考えるとしよう。様子が落ち着いたら知らせてもらえると助かるな。君も精々熱線に巻き込まれないよう注意したまえよ」

 彼は悠然と部屋の奥にある扉の向こうに姿を消した。


 トヲルは痛む右腕に顔をしかめながら、アイカの身体を抱き起す。

 まだ意識を失ったままだ。

 クロウを何とかする前に、無防備なアイカをどこかに避難させなければ。


 トヲルは右腕をアイカの脇の下に通し、出口に向かって這いながら彼女の身体を引きずった。

「……ッ?」

 床を這うトヲルの右足が掴まれる。


 アイカごと押し倒した二人の兵士のうちひとりが起き上がって動き始めていた。左足で思いっきりその手を蹴り飛ばし、トヲルはアイカを抱え上げながら立ち上がる。


 辺りには無数の羽毛が舞っていた。

 視界の端に、舞い踊る羽毛に囲まれたクロウがゆるゆると空中に浮き上がっていくのが見えた。

 うつむく彼女の両眼に宿る光はまだ淡い。


 あの眼から放たれる熱線は人の身体を焼き尽くし、石壁すら溶かす。

 だが熱線放射にはある程度の間隔が必要なようだ。“チャージ”とでも言うべき時間だろう。アイカをどこかに避難させるには、この“チャージ”時間を利用するしかない。


 アイカの身体の下に入り、両脚を抱えて背負い上げる。

「……初めて会った時を思い出すよ、まったく」

 溶けた壁にくすぶる炎を横目に、トヲルは会議室から走り出た。



 低く地響きが聞こえた。

 クロウの熱線がまたどこかを破壊したのだろうか。


 同じフロアのできるだけ会議室から離れた部屋に、トヲルはアイカを運び込んでいた。

 応接室のひとつだろうか、ソファの上に彼女の身体を横たえる。


 こめかみの辺りにぶたれた痕がある。兵士の槍か何かで殴られて昏倒したらしい。何でもありのような〈ヴァンパイア〉でも、身体は線の細い少女だ。うたれ弱さは見た目相応なのかも知れない。

「アイカ、大丈夫か?」

 ぶたれた傷に手の甲を当てるが、彼女は小さく唸るだけで眼を覚まさない。


 普段口にしているロリポップを咥えさせれば元気が出るだろうか――。

 そう思ってアイカのボレロのポケットなどを探ってみるが、よりによって一本も見当たらない。

「いつもしゃぶってるように思えたけど、もち歩いてはいないのか。弱ったな……」


 また地響きが聞こえる。

 クロウのことも早く止めないと、HEXに適合しているとはいえ、いつまで無事にいられるかは不明だ。


 トヲルは兵士に斬りつけられた右腕を抑えた。透明な彼の足元には流れ落ちた血が点々と跡を残している。

「……そうか、別にロリポップじゃなくても〈ヴァンパイア〉なら本物の血液で力を取り戻すかも」

 日常生活では血を吸わないと言っていたアイカだが、吸って駄目な訳ではないのだろう。右腕を抑えていたトヲルの左手は視認できないが血で濡れている。


 指でアイカの口を開こうするが唇がぷにぷにと変形するばかりで閉じた歯が邪魔だ。

 顎先を押さえ、無理矢理こじ開けて口の中に血で濡れた指を挿し入れようと試みる。


「意識ないのに何で……こんなに……歯を食い縛って――あっ」

 手が滑り、口に入れようとした手にアイカの鋭い牙が深々と突き刺さった。

「ぁいだだだだだッ! アイカ痛い痛い痛い! ちょ、口開けて! 起きて!」


 兵士に斬られた傷ではなく、噛まれた手から出た血がアイカの口の中に流れていく。

 彼女は意識が無いままに、トヲルの左手をちゅうちゅうと吸っている。

「え、吸ってる? 起きてる? というか一回口開けてくれない? 何か腕の傷より痛いんだけど!」


 アイカの目元が赤いアイシャドウを差したようにほんのり紅く染まった。

 彼女のまぶたが、うっすらと持ち上がる。

「……」

 トヲルの左手に噛み付いたまま、視線が彼を捉えた。その目が大きく見開かれる。


「な――」

 もの凄い勢いでアイカが飛びすさった。ほとんど悲鳴のような上ずった声だ。

「なな、何してんのよ、あんたッ?」


「い、いや……気を失ってたみたいだから、君〈ヴァンパイア〉だし血をあげれば目を覚ますかな、と」

「気を失ってた――そうか、あたしってば後ろから殴られて……。ごめん、あたしとしたことがドジ踏んだ。ジェフリーは? ディアナは? あんたの幼馴染のクロウはッ?」


 問いかけを畳みかけるアイカに、トヲルは今の状況を簡単に語った。

 語っている間に、また地響きのような音が耳に届いた。クロウの放つ熱線――少し近付いているように思える。


 アイカは下唇を噛む。

「……人外種に……HEXを。ずいぶんと好き勝手やってくれるもんね……やられた分は倍にして返してやるんだから」

 言いながら口元の血を手の甲で拭い、付いた血を見て動きを止めた。


「え? つうか……あんたさっき、血をあげれば、って言った?」

「ああ、うん。あんなにしっかり噛み付かれるとは思ってなかったけど」

「あんたが……あたしに……血を?」

 彼女は呆けたように口を開けてトヲルを見つめている。今まで見たこともないような弛緩した表情だ。


 みるみるアイカの顔が上気していき、尖った耳の先まで紅く染まった。

「あんた……自分が何したか……意味分かってやってる?」

「いや、いつも咥えてるロリポップの代わりになればと」


 アイカは額に手を当ててあらぬ方向を振り仰いでいる。

「……普通さ……そういうのってさ……同意があってさ……段階踏んでさ……」

「何ぶつぶつ言ってるの……何かまずかった?」


「いやまずいっていうか何て言うか……ああ、もういいわ! 非常時だしね! 毒を食らわば皿まで! 据え膳食わぬは恥!」

「ど、毒? 据え膳?」

 アイカは妙に据わった目つきをトヲルに向けた。

「責任取んなさいよ。〈ヴァンパイア〉に血を吸わせたからにはこれっぽっちで済むと思わないことね。こうなったらあたしも本気出す。腕出して!」


 言われるままにトヲルが右腕を出すと、アイカはその腕を掴んで、思いっきり顎を開くとかぶりついた。

「いッたあああッ? また新しい傷増えたんだけど! 血を吸うならさっきの傷口から吸えばいいだろ! 何でわざわざ別の場所に噛みつくの!」


 トヲルの声が聞こえないかのように、アイカは一心不乱に血を吸い立てる。

「あの……もの凄い勢いで吸ってるんだけど……俺、失血死とかしないよね?」

 フロアに響く地響きの音。


 トヲルは不安そうに周囲を見回す。

「アイカ……あの、アイカさん? 吸う量間違えてない? ちょっと……そろそろ」

 アイカの額を押さえて腕を取ろうとするが、しっかり噛みついたアイカがなかなか口を外さない。

「吸うのやめてってば! いいだろ、もう!」

「ゔーっ!」

「ゔーじゃなくて! ちょ、アイカ! 何か目の奥がぴりぴりして来た! 視界が暗くなってる気がする!」

 身の危険を感じたトヲルが、ようやく自分の腕をアイカからもぎ取った。


「あー……」

 アイカはうっとりとした表情で、口元を濡らす血を舌で舐め取った。

 充血した目には涙が滲んでいる。

「久々すぎて……何かやっばい……濃い……んぷっ、吐きそう」

 うつむいて肩をびくつかせている。


「人の血吸ってえずかないでよ……」

「だ……だいじょぶだいじょぶ。あー、やっぱロリポップなんかとは別モンね、何か直撃する感じ……きっつ。でもまあ、これで本領発揮できるってもん」


 ほのかに紅く色付いていた彼女の目元は、いまやくっきりと紅いラインが引かれたようになっていた。

 目元だけではなく、顔、首、手足、露出している肌に紋様のような紅いラインがいく筋も浮かび上がっている。

 恐らくあの紅い紋様は全身に及んでいるのだ。血を吸った〈ヴァンパイア〉の姿は、妖しくもどこか美しかった。


「そうだ、あんたは血止めしとかなきゃ。放ってたらショック死しちゃうわね」

「……つまりそんなギリギリの所まで俺の血を吸ったんだね」


 彼女がトヲルに触れると、傷口の脈打つ感覚が治まり、滴る血も見えなくなった。透明ではっきりとは分からないが、彼の出血が止まったらしい。


 すん、と鼻をすすって、アイカは身を起こした。

 サイドテールにまとめている髪留めを引き抜くと、彼女の美しい金髪が解けて流れる。

 髪留めは棒状で、先端が鋭く尖っていた。

 おもむろにシャツの胸元をわずかにはだけさせる。

「え、アイカ何を……」

「いいからいいから」


 言うなりアイカは髪留めを逆手に握ると、自分の胸元に勢いよく突き立てた。

 深々と押し込んだ後に、引き抜く。

 彼女の胸を貫いた傷口から、噴水のように鮮血が噴き上がった。


「う、うわあッ!」

 しかしその血はそのまま空中にとどまり、紅いマントのようになってアイカの周囲を取り囲んだ。


「〈クイーン・オブ・ハート〉は、血を操る能力……血を出さないと始まんないでしょ。そんでトヲル、あたしのこのうっとおしいマーカー、あんたの〈ザ・ヴォイド〉で外してくれる? 今さら警報鳴ったって誰も気にしないでしょ」

 アイカは自分の首に巻き付いた黒いチョーカーを指差した。


「い、いやアイカ。警報なんかじゃない。このマーカーは爆発するんだよ。あの市の職員が言ってたのは冗談なんかじゃなかったんだ」

「ふうん……それもあり得る話か。つか何てもん着けてくれてんの、あの女。でも大丈夫よ、血を吸ったあたしはそんなんじゃ死なないし、あんただって爆風から守ることできるし。気にせずやって」

「で、でも……俺は今腕をケガしてる。〈ザ・ヴォイド〉の狙いが少しでも外れたら」


 かなり近い場所で爆音が響いた。

 クロウの熱線があちこちの壁を破壊して、ついにこの辺りまで届くようになっているのだ。


 アイカは両手を腰に当てて微笑んだ。

「あんたの特性を仕込んだのあたしでしょうが。そのあたしが言ってんじゃん。忘れたの、あんたはあたしの助手。指示に従ってくれればいいの」

「……」

 トヲルは痛む右手を伸ばし、アイカの細い首元に沿わせた。


「……信じてる」

 そう言ってアイカが目を閉じた。

「……〈ザ・ヴォイド〉」

 硬質な音が耳の奥で鳴る。

 黒いマーカーの一部が消失し、アイカの首から外れた。床に落ちたマーカーは爆発することもなくその場に転がっている。

「やったじゃん」

 アイカは目を閉じたまま、牙を見せて笑った。


 つられて微笑んだトヲルの視界に、熱を帯びて赤く染まっていく部屋の壁が見えた。

「アイカ!」

「分かってる」

 アイカが紅いマントを大きく広げるのと、高熱を帯びた壁が白へと変わり、蒸発するのは同時だった。


 クロウの放った熱線だ。


 壁を見る見る溶かしていき、なお勢いは削がれない。

 壁を貫通した熱線をアイカのマントが受け止めた。


 血液で作られたマントが焼かれて黒く染まっていく。が、そこで熱線放射が止まった。

「壁を突き破ってこの威力か……直接受け止めるのは無理かもね」

 アイカがマントを手でぱんぱんと叩くと、黒く焦げた部分が元の紅色に戻った。


 溶け落ちた壁越しにフロアを見渡したトヲルは言葉を失った。

 縦横に熱線が通った跡が、熱を帯びた赤色で残っている。ほとんどの部屋の壁は溶け落ち、天井も崩れて暗い夜空が頭上に広がっていた。


 その夜空には、両眼に白い光を宿し、六枚の翼を広げたクロウが浮かんでいる。

 黒かった翼は、純白に変色していた。


 ほかに動くものは見えない。

 残っていた首のない兵士たちも熱線に焼かれてしまったのだろう。


「……じゃ予定通り、あんたの幼馴染を助けるとしますか」

 アイカはそう言ってクロウに向かって一歩を踏み出す。

 風を受け、紅いマントがまるでコウモリの翼のように、大きく広がった。



つづく

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