第15話 深く、遠く

「まだだ。まだ走らなければ」

 勇者は長い長い階段を駆け上がっていた。

 地下およそ百キロメートル。

 本来なら最上部マントルに差し掛かる深さだが、竜脈により物理法則の捻れた領域ではその限りではない。

 もし竜脈がなければ、地下は高温と高圧で人間が住める場所ではなく、ここまでの大穴を掘ることはできない。

 勇者は常人離れした生命力をもっていた。

 三日三晩、一切休まずに修練に励む体力もあれば、致命傷を負っても一晩安静にすれば走れるほどになる回復力も持ち合わせている。

 しかし、そんな勇者でさえ、今度ばかりは折れそうだった。

 実際の距離以上に長い上り階段は、着実に勇者の体力を奪っていった。


 最初は獅子奮迅の勢いで上っていた。

 一時間もしないうちに二十キロは上る。

 三十キロ地点では、目に見えて遅くなる。

 四十キロ時点では、歩くほどの速度だ。

 五十キロ地点では、息も絶え絶えに足を引きずるようだ。


 勇者はついに倒れた。

 階段のやや開けた場所。地下空間の半分に到達したかどうかといったところ。

 冷たい金属の地面が、体を打ち据える。

 ここまで、体を酷使してきた。

 爆撃機の風圧にさらされ、巨岩に衝突し、冷たい水をかぶった。

 魔王城に潜入し、傷つきながらも数千の敵軍を打ち払った。

 魔王と対峙し、百キロ以上の距離を落下して体が悲鳴を上げた。

 五十キロ以上の階段を駆け上り、力のすべてを出し切った。

 所々に切り傷が見える。

 全身に赤黒くなった痣がある。

 足が燃えるように痛む。体がいくら酸素を取り込んでも回復しない。

 はちきれそうに脈を打っていた心臓も、すでに力を使い果たし弱々しくなっている。

 目指していた天の光も、いつのまにか消えていた。魔王が王の間の床を修復したのだ。


「ああ。遠い。遠いなあ……」


 勇者は涙を流す。必死に隠してきた、生来の弱い部分が出てきた。

 意思は痛みに押し流され、疲労に抱かれた体は、冷たいコンクリートと相まって、まるで海の底に居るかのようだ。

 よく頑張ったほうだろう。王も民衆も、この世の誰からも非難はされまい。

 そう思えれば、どんなに楽になれるか。

 本音を言うと、情けなかった。

 物語の勇者は全てを救ってみせたと言うのに、自分は何一つ救えていない。

 勇者だと名乗っておきながら、自分はもう動けないではないか。

 自分は勇者ではなかった。ただそれだけのこと。

「なぜ、我輩ばかりがこんな目に合わなければならない!」

 ああ、そうだ。自分は只人だ。幼い頃に読んだ物語に憧れ、まるで自分が勇者だと勘違いしてしまった。

 だからこそ、身の丈に合わない理想しか見ていなかったからこそ、こんな馬鹿な目にあってしまうのではないか!


 勇者は自分のためにしか動けない人間だった。

 今まで人のために動いたことなど一度もないし、これからだってそうだろう。

 スラムの子供を助けたのも、勇者らしく振る舞いたいがため。

 姫を救おうとここまで来たのだってそうだ。

 結局、理想に近づきたいがために背伸びをしていた凡人だったのだ。


 姫のもとに行かねばならない。早く行かなければ、彼女は殺されてしまう。

 その想いさえ疲労の中で押し流されていく。

 精魂尽き果て、やがてまどろみの中に落ちていった。

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