一章2
「ロンドッ!」
文書室にかけこんだワレスを見て、ロンドは悲鳴をあげてとびのいた。いつもの逆だ。例の覆面のせいでロンドの表情はわからないが、ふるえているようだ。
「いやああぁッ。ワレスさまに近寄れませんぅ!」
ロンドだけではない。広い文書室にいる司書全員が、フードにあいた両目の部分を、ワレスにむけている。
「これのせいなんだな?」
「これ? なんですかぁっ? あなたからイヤーな匂いがしますぅ。墓場の匂いですぅ」
「ここでは人目がある。おまえの部屋に行こう」
「今のあなたとは寝れませんぅ……」
「はたくぞ。おれは真剣なんだ」
「ああーん」
グネグネしているロンドを追いたて、文書室の奥の奥、司書たちが使っている寝室へ入る。薄暗い六人部屋は無人だ。
ワレスは寝室に入ると、小隊長の緑色のマントをはずし、衣服をぬいだ。とにかく着替えだけして、かけつけてきたのだ。
「きゃあっ。気持ちは嬉しいんですけどぉ、わたくし、困りますぅ。でも、ステキ……」
「だから、違うと言ってるだろう。よく見ろ」
「ああーん。露出狂ぎみのワレスさまも好きぃー」
いやぁっと言いながら、両目の穴を覆った指のすきまから、ワレスの半裸をのぞき見していたロンドが、急に真剣になる。頭巾をとって近づいてくると、指さきでワレスの背中の文字をなぞる。
「インクで書かれたわけではないのか。これは、鏡写しの文字」
ロンドは手鏡を使って、文字を読んだ。読みおわると、雪のように白い髪を肩から払いながら、どさりと寝台に腰かける。めったに見られないロンドの真顔だ。
それだけ事態が深刻なのだろうか。ワレスは不安になった。
ロンドが口をひらく。
「これ、烙印に見えますが、以前からあったんですか? いや、違うな。それなら、あなたが血相変えて私のもとへ来るはずがない」
「今朝、目がさめたらこうなっていた。たぶん、あの夢のせいだ」
「夢?」
ワレスは微細なことまでもらさず、夢の詳細を語った。
ロンドはハシェドより、はるかにまじめな聞き手だった。だが、その顔つきは、ますます重暗くなっていく。
ワレスが話しおえると、ロンドは嘆息した。
「それで、あなたは返事をしてしまったんですね? 名前を呼ばれて、『はい』と」
「ああ」
「……やってしまいましたねぇ」
「教えてくれ。これはなんだ? 魔法使いのおまえならわかるだろう?」
ロンドは答えはわかっているくせに、それを言いたくないようすだ。答えるのに勇気がいる、そんなふうだ。やがて、渋い顔で、
「それは……盟約文ですよ」
「盟約? なんのだ?」
問いつめているところに、寝室の扉がひらき、もう一人の司書が入ってくる。司書の制服を着ていても、小柄なので、それが少女の姿の司書長、ダグラムだとわかる。
「あなたはたいへんな失敗をしました。ワレス小隊長」
こっちも頭巾をとりながら入ってきて、ワレスのむだなくひきしまった筋肉と、なめらかな肌を見ても、眉一筋動かさない。可愛らしい少女の顔だが、あいかわらず冷静そのものだ。ワレスの背中の文字に静かに視線を流す。
「神聖語ですね」
「そのようだな。どこかで見た文字だとは思ったんだ。目がさめるまで、鏡写しだとは気づかなかったが」
「それがやつらの常套手段なのですよ」
「やつら?」
ダグラムがくちごもる。およそ女らしい感情の欠落した司書長のこのようすに、ワレスの不安はいよいよ高まる。
「言ってくれ。たのむ」
「わかりました。あなたは知っておくべきです。心がまえをしておかなければなりません」
「心がまえが必要な相手なのか?」
「ええ。あなたは……悪魔に魅入られています」
「悪魔……」
ズキリと胸が痛む。
司書長のその言いかたは、砦に出るいつもの魔物とは違うことを示している。
「悪魔? 魔物ではなく?」
「そう。悪魔です。魔物のなかでも、きわめてタチの悪い連中。人と変わらぬ、あるいはそれ以上に高度な知性を持ち、悪意をもって人間を害する魔性。ときに優しい顔と甘い言葉で惑わしながら、ついには破滅させる。そういうものです」
まだこれまでに、ワレスが遭遇したことのないタイプの魔物だ。
「悪魔……そんなものがほんとに存在するのか。宗教上の想像の産物だと思っていた」
ダグラムは妙に悲しげな表情になる。
「存在しますよ。彼らはかつて、たしかにこの地にいました。現代では数は減少しましたが、すべて消えてしまったわけではありません。逆さ文字は彼らが盟約のとき、好んで使います」
「悪魔と……盟約。おれは悪魔と取引をしたことになるのか?」
「下僕になるかと聞かれ、はいと答えた。背中の文字は契約成立の証です」
「バカな。おれは名前を呼ばれたから返事をしただけだ。下僕になるなんて、ひとことも言ってない」
「そういう手を彼らは使うのです。言ってしまえば、あなたは罠にはめられた。ですが、文句を言ってもムダですよ。彼らといったん交わした約束は、二度と破棄できません。たとえ、それが口約束でも」
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