鏡映しの文字
一章
一章1
長い砦暮らしのなかには、ほかの誰も知らない、ワレスだけがかかわった事件がある。その事件は、そうしたなかの一つだ。
事の起こりは、やはり、あの夢だろうか。
夢だということは初めからわかっていた。
同室の部下たちとともに、それぞれの寝具に入り、眠りについたすぐあとのことだ。とつぜん、ワレスは覚醒時と同じほどクリアな意識で、森のなかに立っている自分を発見した。寝台に入ったときの夜着のまま、むろん裸足である。
(なんだ? おれはもう眠ったのか? さっきベッドにもぐりこんだばかりなのに)
そういう意識があったから、ほんとに、とうとつだったのだろう。
いやに生々しい夢だった。
素足に伝わってくる腐植土の、じんわりと湿った感触。なにげなく手をかけると、苔だらけの木の幹から、ずるりと樹皮がめくれおちる。風のなかにとける森の匂い。どこかで小川のせせらぎがしている。
あたりは昼でもなく、夜でもない感じだった。寒くもなく、暑くもなく、すべてがちょうど心地よい。
しばらくすると、ワレスはこの不思議な夢を見ていることになれてきた。森のなかを歩きだす。
まるで現実に歩いているような触感だ。だが夢である証拠に、この森はほんの少しだけ現実の森より美しすぎる。枝々の光沢は金箔をはったようだし、葉の緑はまるで宝石だ。
(疲れていたのかもしれないな。森は人をいやす力があるという)
あてもなく歩いていると、足もとに何かが光った。金色に輝いてとてもキレイだったので、ワレスはそれをひろった。金色の光のかたまりのようなもの。
それは文字の形をしていた。
気がつくと、あっちにも、こっちにも同じものが散らばっている。
ひろいあげると、ワレスの手のなかで雪のように溶けた。それが楽しくて、ワレスは子どもっぽい気持ちから、金色の文字を集めて歩いた。
だが、その文字を読むことはできない。文字であることはわかる。それどころか、知っている言語だ。が、どうしても読めない。
ひとつながりの文章になっているらしいことに、ワレスは気づいていた。それほど長い文章ではない。三十ばかりもひろうと、文字は見あたらなくなった。
とつぜん、おもしろい遊びをとりあげられた心地で、ぼんやりとワレスは立ちつくした。するとふいに背後から人の声がした。
「ワレス?」
呼ばれて、ふりかえる。
「ああ」
とたんに、森じゅうに男の笑い声が響き、景色がくずれた。
ワレスが目ざめると、そこは砦。
ワレスたちの寝室で、いつもどおりベッドによこたわっている。
朝になっていた。ついさっき寝入ったような気がしていたのに、いつのまにか朝の光が室内を満たしている。
なんだか、ひどく疲労していた。たっぷり何刻も寝たあととは思えない。一晩じゅう、森のなかを歩きまわっていたかのような……。
「お目ざめですか? 隊長。今日はずいぶんよく眠っておいででしたね」
とっくに部下たちは起きて、朝の支度をすませている。
ハシェドに声をかけられても、にわかには起きあがれない。
「隊長? ぐあいでも悪いのですか?」
「いや」
どこかが悪いわけではない。あきらかに夢見のせいだ。
「なんでもない。変な夢を見たからだ」
「どんな夢ですか?」
「森のなかで金色に光る文字をひろっていた。何かのつづりだということはわかったのだが……」
夢の話なんて、見た本人以外には退屈だ。自分がジゴロをしてたころ、一つの寝台で夜を明かした貴婦人から聞かされて、さんざんウンザリしていた。だから、ハシェドが気をつかっておとなしく聞いていることには、すぐに気づいた。
どうせ、あれは夢。ちょっと変な感じはしたが、現実にはなんの影響もない。
「いや、なんでもない。朝食は?」
「まだです。隊長が起きてこられてからと思って」
ハシェドの笑顔を見ると落ちつく。
ワレスのひそかな想い人。
彼のショコラ色の肌にふれる夢を、何度、見ただろうか。愛した人が必ず死ぬという不幸な運命を背負っていなければ、とっくに、ワレスの自制心など消えうせているのだが。
ワレスはサンダルをはこうとして、自分の足がいやに汚れていることに気づいた。まるで裸足で歩きまわったように泥だらけだ。
もちろん、眠る前にはこんなふうになっていなかった。ワレスはとびおきて、自分の足を見なおした。泥まみれの足には、見おぼえのある苔の切れ端がついている。
それを見た瞬間、ワレスの心臓は激しく鼓動を打った。全身に氷をあびせられたように、ゾッとする。
すると背後から、ハシェドの叫び声がした。
「隊長! それ……どうしたんですか!」
悲鳴のような声だ。ワレスは反射的にかえりみた。蒼白のおもてで、ハシェドが指さしているのは、ワレスの背中だ。さわってみると、夜着が大きく裂けて肌が露出している。それも、あらわになった肌に、いつもは感じない微妙なおうとつがある。
(な……なんだ? これ……)
見るのが怖い。でも、見ないわけにはいかない。
ワレスは恐る恐る、壁の姿見の前に立ち、自分の背中をながめた。鏡のなかに、くっきりと文字が浮かんでいる。
我の下僕となり、汝のすべてをゆだねるや?
ワレスは激しいめまいを感じた。
大理石のような純白の肌の上に、その文字は烙印されていた。
鏡を通して初めて読みとれるように、左右反転して書かれた文字。それは、ワレスがあの夢のなかでひろった文字だ。
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