その十七
(あのとき、ほんの一瞬早く気づいていれば、私はオスカーを失わずにすんだ)
目の前が赤く染まったような気がしたときには、グレウスは半分、オスカーはカップのほとんど全部、毒入りのお茶を飲んでいた。
「いけない——オスカー!」
叫んだが、もう遅い。
オスカーが血を吐いて倒れ、グレウス自身も胸に焼けるような痛みをおぼえた。せきこむと、口から血がこぼれる。
グレウスは全身を襲う苦痛と闘いながら、必死に床をはった。オスカーに近づくために。
オスカーはすでに息がなくなっていた。
「い……や。オスカー……」
どうして自分たちの身にこんなことが起こるのか、まったくわからなかった。お茶をいれた侍女が悲鳴をあげてわめく声も耳に入らない。
「わたしは奥さまに頼まれて……惚れ薬だからって……イヤああッ!」
意識がもうろうとする。
目の前が赤くなる。
わたしは死ぬの? ここで死ぬの?
いいわ。オスカーといっしょなら。
ただそれだけを願って、グレウスは動かなくなったオスカーの手をにぎりしめた。
二人でいくのなら、幸せ。
誰ももう、私たちのこの手をほどかないで。
グレウスの意識は遠くなり、長い階段をのぼっていくような気がしていた。
長い長い階段を。
それがどうして、あんなことになったのだろう。
愛は君の頬に消え、とこしえの翼が二人をわかつ。
気がつくと、暗闇。女の泣き声が聞こえていた。
「だって……だって、愛してたのよ。好きだったのに、ひどいじゃない。こんな、なさけない姿になって。返して……返してよ! わたしのグレウスを返して!」
どこかで聞いた声。
だけど、体が動かない。
長い時間がたって、女は去っていった。
(私は、どうしたのだ? なぜ、こんなところに?)
箱のようなものに入っている。体のしびれる感覚に逆らいながら、グレウスはふたをこじあけ、箱をはいだした。
松明の明かりがゆれる。
そこは納骨堂だった。
たったいまグレウスがぬけだしたのは、棺おけなのだ。かりそめの木棺だからこそ、ふたを押しあげることができたのだろう。
(私は……そう。城をぬけだし、オスカーを探して、そして……)
すべてのことが、ハッキリと思いだされた。
オスカーとの離別。街をさまよっていたこと。ふたたび、めぐりあったオスカーと、女として愛しあったこと。二人でお茶を飲んでいて、とつぜん苦しくなったことも。
「オスカー!」
グレウスの声が墓場に
(そうだ。私たちは毒を飲んで……)
それだけはゾナチエの良心だったのだろうか。
オスカーの柩はグレウスのとなりに置かれていた。ふたをあけると、オスカーはおだやかな顔をして眠っているように見えた。ただ、その胸は冷たく、顔の色はロウのごとく白い。
(オスカー……)
グレウスは階段をのぼりそこねてしまった。オスカーとあがるはずだった階段を、グレウスだけがすべり落ちた。
オスカーは一人で逝ってしまったのだ。グレウスの手の届かないところへ。
あんなに強くにぎりしめたのに。
二度とこの手をほどかないでと願ったのに。
ほんのカップ半分の毒が、二人の生死をわけてしまった。
「もう一度、あの人を生き返らせるためだけに、私は今日まで生きてきた。あの人のいない私はただのぬけがら。どうか、私とオスカーが毒を飲む前の時間へつれていってほしい」
《いいだろう》
よせ……ロンド——
誰かの思念が心をかすめる。
だが、次の瞬間には、グレウスはあの特有の浮遊感のなかにあった。周囲の景色がにじんで消えていき、暗闇にいくつもの青い光がきらめいている。それは何かの法則を持ってならんでいるようだ。
今、自分は時間の流れの外にいる。
強く、そう感じる。
その感覚は瞬間的なものだ。
景色が目にとびこんでくる。
あの日の光景だ。
窓の外に燃える西日。
床に長い影を作る窓枠。
長椅子にならんですわるオスカーとグレウス。
侍女がカップにお茶をそそいでいる。その顔が少し落ちつかなげだ。
まるで景色は水鏡に映したように、ゆらいで見えた。なんとなく物に実体がないような、妙にあやふやな感じ。すべてが空気でできているかのよう。
(違う。実体がないのは世界じゃない。私のほうだ)
グレウスの魂だけが、肉体を離れて時間を翔んだのだ。
足のさきに糸が結んであるように、遠くから体をひっぱる感覚があった。誰かがその糸をひいている。
《もどれ、ロンド! 罠だ!》
ワレスの思念だ。
《呼ばないで!》
呼ばれると、体がひきもどされていく。肉体の意識が覚醒し、魂がたぐりよせられる。
侍女の手からカップが、オスカーと過去のグレウスに渡される。あの日と同じ……。
また、強い浮遊感。ひきもどされる。
《飲むな! それは毒だ!》
過去のグレウスが浮遊するグレウスを見た。悲鳴をあげて、カップを落とす。くだけちるカップ。おどろいて、オスカーも口に運びかけていたそれを置いた。
——どうしたの? クレア。
——今、そこに白い髪のわたしが。
——幻でも見たんだ。
——いいえ。ほとんよ。このお茶は毒だって……。
では、魔法は成功したのか?
彼らは毒を飲まなかった。
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